第11話 洲本城下の本陣
天正十年六月十日 洲本城下
船越景直が洲本城下の陣へ戻った頃には、日はすでに西へ傾き始めていた。
秀吉との面会は、思いのほか短かった。
「明日、渡海する。」
それだけで十分だった。
天下人へ近づきつつある男の眼には、一切の迷いがなかった。
――明日には終わる。
景直もそう思っていた。
しかし、陣へ戻ると、そこに広がっていた光景は、戦場とは思えぬものであった。
「ああ、景直殿!」
「おお、よう戻られた!」
「秀吉殿は何と?」
田村氏、野口氏、淡路の国衆や地侍たち。
顔を合わせれば、皆どこか嬉しそうに笑う。
戦支度よりも、旧知との再会を喜んでいるようであった。
広田蔵之丞の姿はまだ見えない。
秀吉の書状を届けた当人である。
そのうち合流するだろう、と誰も気にも留めていない。
「景直殿、茶でも点ててくださらぬか。」
誰かが言った。
「酒はさすがに不謹慎じゃ。」
「そうじゃそうじゃ。」
「では茶ならよかろう。」
笑いが起きる。
景直は思わず苦笑した。
炉に湯を掛けながら、茶碗を並べる。
湯気が立つ。
茶を啜る音が静かな陣に響いた。
「達長も困ったものじゃ。」
「困ったというより、あやつらしい。」
「ははは。」
誰かが笑う。
「若い頃など、舟遊びをしておれば、誰より潮を読むのが上手かった。」
「あれで義理堅い男じゃ。」
「そうそう。我らを攻めるような男ではあるまい。」
「そのうち、『もうええわ』と言うて城を明け渡すのではないか。」
また笑いが起こる。
景直は茶を配りながら、その輪には加わらなかった。
――達長はそんな男ではない。
むしろ、誰より覚悟を決めた男だ。
最後に岩屋城で見たあの眼を思い出す。
あの男は、命を賭してでも意味のある戦を選ぶ。
意味がある限り、退かぬ。
「そういえば。」
野口氏が声を上げた。
「毛利はどうなっておる。」
「秀吉が攻めておるのであろう。」
「いやいや、長宗我部が信長に背いたという話も聞いたぞ。」
「四国も騒がしくなるか。」
話題は次々と移る。
戦国の噂話は、酒がなくとも尽きることはない。
景直は茶碗を見つめた。
淡路。
ここでは昨日まで敵味方であった者も、顔を合わせれば笑う。
互いの家も知り、親も子も知っている。
田畑も港も共有してきた。
――これが淡路なのだ。
だからこそ、平和なのかもしれない。
しかし。
だからこそ。
他国から本気で攻め込まれれば、ひとたまりもない。
秀吉軍の整然とした軍容を見たばかりの景直には、その違いが痛いほど分かっていた。
夕陽が播磨灘を赤く染める。
その日。
秀吉軍の船影は、ついに現れなかった。
六月十一日 昼
翌日も、陣は静かだった。
昼を過ぎた頃である。
沖から一艘の早船が近づいてきた。
「羽柴方の船じゃ!」
誰かが叫ぶ。
陣中の空気が、一瞬で張りつめた。
ついに来たか。
誰もがそう思った。
だが、船から降りてきた使者は、短く告げた。
「羽柴筑前守様より申し伝える。」
皆が息を呑む。
「しばらく渡海は叶わぬ。」
ざわめきが起きる。
「もう一つ。」
使者は続けた。
「菅達長が洲本城を退くことあらば、直ちに報告せよ。」
それだけであった。
景直は前へ出た。
「何があった。」
使者は首を横に振る。
「申し上げられぬ。」
「ならば、私も尼崎まで同行したい。」
「それも叶わぬ。」
取り付く島もない。
使者はすぐに船へ戻ろうとした。
景直はしばらく海を見つめた。
やがて振り返る。
「尼崎まで様子を見て参る。」
誰に言うでもなく呟くと、そのまま港へ向かった。
六月十一日 日暮れ 尼崎
ようやく尼崎へ着いた頃には、港は慌ただしかった。
「筑前守様は。」
景直が問う。
「もう出立された。」
「どちらへ。」
男は驚いたような顔をした。
「知らぬのか。」
その時であった。
景直は初めて気付く。
港という港を、兵が埋め尽くしている。
馬も。
荷も。
皆、西から東へ。
疲労困憊のまま、摂津へ向かって歩いている。
誰も淡路を見ていない。
誰も海を見ていない。
皆、ただ前だけを見ている。
景直は兵の一人を呼び止めた。
「何が起こった。」
兵は目を見開いた。
「本能寺じゃ。」
「……何。」
「明智光秀が謀反を起こした。」
景直は息を呑んだ。
「信長公が討たれた。」
その一言で。
世界が音を失った。
六月十二日 午前
翌朝。
急ぎ洲本へ戻ると、本陣の空気はまるで別物になっていた。
国衆の姿はさらに増えている。
その中心に、一人の若武者が座していた。
まだ三十ほどであろうか。
背筋を真っ直ぐ伸ばし、誰よりも真剣な眼差しで軍議を進めている。
「仙石秀久殿。」
誰かが紹介した。
その傍らに控える兵は十数名ほど。
多くはない。
だが、その十数名だけは、場違いなほど引き締まって見えた。
「達長の兵は。」
秀久が問う。
「百。」
「多く見ても二百。」
国衆が答える。
「こちらは。」
「三百ほどですな。」
「もう少し集められます。」
秀久は静かに頷いた。
しかし内心では思っていた。
――少ない。
山城を攻める兵ではない。
しかも。
この者たちは。
戦慣れしておらぬ。
「達長殿とは旧知でもある。」
一人が言う。
「まずは話し合われては。」
「そうじゃ。」
「達長も話の分からぬ男ではない。」
秀久は腕を組んだ。
「火攻めは。」
すぐに声が返る。
「洲本城は淡路の要です。」
「焼いてはなりませぬ。」
「城は残さねば。」
「そうですな。」
「あれは淡路の城ですから。」
秀久は小さく息を吐いた。
敵を攻める話をしているのか。
城を守る話をしているのか。
判然としない。
軍議は堂々巡りを続けた。
やがて昼の鐘が聞こえる。
「まあまあ。」
誰かが立ち上がる。
「秀久殿も来られたことじゃ。」
「今日は赤飯を炊こう。」
「おお、それがよい!」
「めでたいことですからな!」
「ははは!」
笑い声が広がる。
秀久は思わず景直の方を見た。
景直もまた、苦笑するしかなかった。
この島は――。
どこまでも、淡路だった。




