第12話 明智敗
天正十年六月十三日
「まずは一押ししてみよう。」
仙石秀久の一言で決まった。
兵は五十。
国衆も顔ぶれを揃えたが、その足取りは重くも軽くもない。
まるで山へ柴刈りにでも向かうような空気であった。
秀久だけが鎧の緒を締め直し、槍を握りしめる。
洲本城へ続く坂を登り、やがて城門が見えた。
その時だった。
「……開いておる。」
誰かが呟いた。
城門は大きく開かれている。
門前には十余名の侍が静かに並び、その中央に、一人の男が立っていた。
菅達長である。
風に揺れる旗を見上げ、達長は笑った。
「永楽銭の旗とは、珍しい客人がお見えになったものよ。」
「せっかくゆえ、門を開けて待っておった。」
その右手に握られているものを見て、秀久は眉をひそめた。
槍ではない。
船を漕ぐ櫂であった。
「噂に聞きし菅達長か。」
秀久は一歩前へ出た。
「我こそは羽柴筑前守が配下、仙石秀久。」
「その手にしておるは櫂ではないか。」
「逃げ支度の最中とお見受け致した。」
達長は櫂を肩へ担ぐ。
「威勢の良さは一人前じゃ。」
「槍の名手と聞き、お相手申そうと手元を見たら、この櫂しか無うてな。」
櫂を軽く回す。
長い柄が空を切り、低く唸った。
「されど、これにて十分。」
その笑みに、秀久も笑った。
「参る!」
槍が風を裂く。
達長は半身になり、櫂で受け流す。
乾いた音が城門前へ響いた。
二合。
三合。
五合。
互いに一歩も退かぬ。
櫂は本来、人を運ぶ道具である。
だが達長の手にかかれば、長柄武器そのものだった。
潮を押すように受け流し、舟を返すように弾く。
秀久の槍筋も見事であった。
若武者らしい鋭さがある。
達長は笑った。
「よい槍じゃ。」
秀久も息を整えた。
「なかなかの腕前。」
槍を引く。
「今日はこれまでと致そう。」
達長も櫂を肩へ戻した。
「また参られよ。」
まるで旧友を送り出すような口ぶりであった。
翌日。
今度は達長自ら城を下り、本陣の前へ現れた。
手には、やはり櫂。
秀久は苦笑する。
「今日もそれか。」
「お気に入りでな。」
また数合。
槍と櫂がぶつかる。
その隙を見て、景直は二人の間へ歩み寄った。
「達長。」
声を潜める。
「お主……本能寺を知っておったな。」
達長の目だけが景直を見る。
ほんの一瞬。
そして声を張った。
「いやいや!」
「仙石殿はなかなかのご武人!」
「今日も潔く引き申そう!」
笑いながら城へ戻る。
景直だけが、その笑みの意味を考えていた。
そんな遊ぶような戦が、幾度か続いた。
秀久は調子を狂わされていた。
達長は決して勝負を決めようとしない。
だが決して負けもしない。
現れ、
槍を交え、
笑って帰る。
まるで時を潰しているかのようだった。
ある朝。
「羽柴方の船じゃ!」
誰かが叫ぶ。
船から降りてきた使者は、短く告げた。
「山崎にて勝敗決す!」
「羽柴筑前守様、明智光秀を討ち給う!」
本陣がどっと沸いた。
秀久は立ち上がる。
「よし!」
拳を握る。
「明日こそ終わらせる。」
「奴が現れたら退路を断ち、一斉に囲め。」
「今度は逃がさぬ。」
ようやく戦らしい戦になる。
そう思っていた。
その夜。
景直は一人、本陣を抜け出した。
月明かりだけが山道を照らしている。
洲本城を見上げる。
静かだった。
景直は懐から短い文を取り出す。
矢へ巻く。
弓を引いた。
ひゅう、と夜空を裂き、矢は城内へ吸い込まれていった。
文には、ただ三文字。
「明智敗」
翌日。
達長は姿を見せなかった。
秀久は、
「臆したか。」
と笑った。
しかし。
さらに翌朝。
景直は違和感を覚える。
「あれ。」
「旗が……。」
菅家の旗がない。
秀久らは一斉に城へ駆け上がった。
門は開いている。
静まり返った広場。
その中央に。
一本の櫂だけが立っていた。
柄には、一通の文が結ばれている。
景直は誰よりも早く歩み寄る。
文を外す。
懐へ滑り込ませた。
秀久は気付かない。
「裏だ!」
誰かが叫ぶ。
物見台へ駆け上がる。
海。
朝靄の向こう。
十数艘の船が、ゆっくりと阿波を目指していた。
「……逃げたか。」
秀久は唇を噛んだ。
景直は海を見つめたまま、小さく笑った。
「違う。」
「最初から……ここが終わりではなかったのだ。」




