第8話 黒田官兵衛の安宅切
兜を池に沈めてから、幾日が過ぎただろうか。
あの日、わしは戦を捨てた。
いや、戦を捨てたつもりであった。
武具を置き、兵を解き、家族のもとへ戻った。秀吉の兵がわしを探しに来ることも覚悟していたが、幸い、そのようなことはなかった。
もっとも、しばらくは物音の一つにも耳を澄ませた。
夜更けに犬が吠えれば目を覚まし、見慣れぬ者が村を通れば、その行き先を確かめた。
わしの首を取ったところで、秀吉にどれほどの益があるものか。
そう思いながらも、用心を怠るわけにはいかなかった。
だが、日が経つにつれ、奇妙なことに気づいた。
秀吉の兵は、わしを探している様子がない。
村々を巡る兵の仕事は、もっぱら狼藉を働く者の取り締まりであった。
略奪を禁じ、無用な争いを鎮め、道を行く者を咎めることも少ない。
戦に勝った軍勢が、そのまま土地を荒らすことは珍しくない。
だが、秀吉はそうさせなかった。
なるほど。
あの男は、淡路を焼き払うために来たのではない。
手に入れるために来たのだ。
それも、できる限り傷つけずに。
そう考えると、今回の淡路攻めは、実に見事なものであった。
明石の海を埋めた船団。
岩屋へ押し寄せた兵。
白巣城への攻め。
そして、山田原の戦いから逃れた仲間たち。
あのときは目の前の敵を退けることばかり考えていたが、今になって振り返れば、あれほどの軍勢を動かしながら、秀吉は少しも迷っていなかったように思える。
攻めるべきところを攻め、降る者は受け入れ、抗う者には容赦しない。
島の地形も、城の位置も、国衆の思惑も、あらかじめ調べ上げていたのではあるまいか。
そうでなければ、あれほど手際よく事が運ぶものか。
わしは、何度も頭の中で戦をやり直してみた。
岩屋で踏みとどまっていたら。
白巣で別の手を打っていたら。
竹谷で、もう少し兵を残していたら。
だが、考えるほどに、答えは一つに近づいていった。
あの軍勢を、淡路の国衆だけで押し返すことは難しかった。
わしらは、それぞれの城を守ることに精いっぱいであった。
秀吉は、淡路という島を一つのものとして見ていた。
その違いは、大きい。
*
戦が終わってから、島のあちこちの話が耳に入るようになった。
不思議なもので、戦の最中には届かなかった知らせが、平穏になると人づてに流れてくる。
多くの国衆は、ほとんど抗うことなく秀吉に降ったという。
それを聞いても、腹は立たなかった。
兵の数を見れば、無理もない。
城を守るために兵を失い、村を焼かれ、家族を危険にさらす。
そこまでして守るべきものが、どれほどあるのか。
わし自身、最後には兜を沈めたのだ。
人の決断を責める資格などない。
淡路島の東海岸側である東浦の攻略を担ったのは、その名の知れた黒田官兵衛であったらしい。
もっとも、わしはその働きを直接見たわけではない。
後になって聞いた話をつなぎ合わせ、ようやく東浦で何が起きていたのかを知ったのである。
菅家が治めていた猪熊城、志筑城、山田原城。
これらも、織田の軍勢の手に落ちた。
官兵衛は、おそらく北から順に兵を進めたのであろう。
猪熊を押さえ、志筑を制し、山田原へ向かう。
東浦の道をたどれば、自然な攻め方である。
山田原には、父上がいた。
あの城の地形も、守りの弱いところも、わしはよく知っている。
父上なら、敵の数を見誤ることはなかったはずだ。
だが、父上がどのように敵を迎え、何を語り、最後に何を思ったのか。
今となっては、知るすべもない。
ただ、あの城もまた、秀吉により焼け落ちた。
わしは、その事実を受け入れるほかなかった。
洲本城では、安宅信康殿が早くに降伏を決めたと聞いた。
あの方なら、そうするであろう。
信康殿は、もともと無益な戦を好む方ではなかった。
人を見て、話を聞き、できる限り争いを避けようとする。
武将としては頼りなく映ることもあったが、わしは決して嫌いではなかった。
安宅家は、長く淡路の海を治めてきた家である。
三好の時代から畿内の争いに深く関わり、数多くの船と人を動かしてきた。
その家が、城を開いた。
信康殿は人質まで差し出したという話もある。
そこまでしたのかどうか、わしには分からぬ。
だが、家を残すためなら、あの方はそうしたかもしれない。
それとは対照的に、弟の清康殿は、由良城で抗ったという。
安宅清康。
兄の信康殿が病を得てから、安宅家の家督を継いだ男である。
兄とは気質が異なり、気も強く、容易には人に従わぬところがあった。
志知城の野口長宗との折り合いが悪かったことも、よく知られている。
長宗が一時、立場を失ったのも、清康殿との確執によるものだと聞いていた。
わしには、その内情のすべては分からぬ。
ただ、同じ家に生まれた兄弟であっても、守ろうとするものは違うのだろう。
信康殿は、安宅家を残そうとした。
清康殿は、安宅家が従ってきた道を曲げまいとした。
そういうことだったのかもしれぬ。
由良城で、清康殿は黒田官兵衛に斬られたという。
初めてその話を聞いたとき、わしは思わず聞き返した。
「官兵衛が、自ら斬ったのか」
「そのように聞いております」
伝えに来た男も、詳しいことは知らなかった。
どのような戦であったのか。
一騎討ちであったのか、それとも城内での刃傷であったのか。
確かなことは分からぬ。
ただ、清康殿が命を落としたことだけは、間違いないようであった。
黒田官兵衛。
人を動かし、城を降し、戦わずして勝つことを考える男が、最後には自ら刀を振るったという。
よほどのことがあったのであろう。
わしは、清康殿の顔を思い浮かべた。
強情な男であった。
だが、ただの愚か者ではない。
安宅の名を背負い、己の道を選んだ男であった。
その最期がどのようなものであったにせよ、わしには軽々しく語ることができなかった。
やがて、安宅家の家督は再び信康殿に戻ったと聞いた。
それでよいのかもしれぬ。
少なくとも、今の淡路には、信康殿のような方が必要なのであろう。
由良で何があったとしても、生き残った者には、その後の暮らしがある。
城を守ることと、家を守ることは、同じではない。
わしは、兜を沈めた日のことを思い出した。
*
志知城も、早くに秀吉の手に渡ったらしい。
野口長宗が復権したという話も聞いた。
なるほど、それはそうなるか。
清康殿との確執で立場を失った長宗にとって、秀吉の到来は、失ったものを取り戻す機会でもあったのだろう。
戦というものは、勝つ者と負ける者を分けるだけではない。
昨日まで追われていた者が、今日は迎えられる。
昨日まで城を治めていた者が、今日は住む場所を失う。
わしらが守ろうとしていた淡路も、そうして姿を変えていく。
景直は、どうしたのであろう。
庄田城では戦がなかったと聞いた。
それだけは、少し安心した。
あやつが無駄な戦を選ぶとは思わぬ。
わしよりも、よほど世の動きを読むところがある。
おそらく、何か考えがあってのことであろう。
生きてさえおれば、またできることもある。
ここで死んでも、何も残らぬ。
あやつも、そう考えたのであればよいが。
景直とは、幼いころから何度となく言い争ってきた。
考えが合わぬことも多い。
だが、最後には、互いの考えを聞くことができた。
あの男が生きているなら、それでよい。
わしは、そう思うことにした。
*
いつの間にか、村には普段の暮らしが戻っていた。
田畑には人が出て、浜には漁師が集まる。
朝には子供たちの声が聞こえ、夕暮れには家々から煙が上がった。
戦の前と、何も変わらぬように見える。
だが、変わったものもある。
城にいた兵が村へ戻り、見慣れぬ武士が道を行く。
秀吉の名を口にする者が増えた。
人々は、新しい支配者のもとで、何事もなかったように暮らし始めていた。
わしも、その一人であった。
畑に出て鍬を振るい、家の仕事を手伝った。
初めのうちは、家族もどこか遠慮がちであった。
わしがいつまた戦へ出ると言い出すか、気にしていたのかもしれぬ。
だが、日が経つにつれ、そんな気配も薄れていった。
子供たちは、わしが家にいることに慣れていった。
それが、妙に嬉しかった。
戦の間は、家に戻っても、心はいつも海の向こうにあった。
次はどこが攻められるのか。
誰が裏切るのか。
どの城に兵を送るべきか。
そんなことばかり考えていた。
今は、明日の天気を気にしている。
雨が降れば畑に出られぬ。
風が強ければ船を出せぬ。
そんな当たり前のことを考えている自分が、少しおかしかった。
ある日、子供に聞かれた。
「父上は、もう戦には行かぬのですか」
わしは、すぐには答えられなかった。
「……どうであろうな」
そう答えると、子供は不満そうな顔をした。
「行かぬ方がよいです」
「そうか」
「はい」
わしは笑った。
「わしも、そう思う」
それは、偽りのない気持ちであった。
*
一人で船を出すことが増えた。
誰を乗せるでもなく、小舟を漕いで沖へ出る。
岸から少し離れたところで櫂を置き、波に身を任せる。
空を見上げる。
風の向きが変わる。
雲が流れる。
潮が船を運んでいく。
戦の間は、潮を読むことが生き死にに関わった。
船を進めるか、退くか。
いつ渡り、いつ戻るか。
一つ間違えれば、多くの命を失う。
だが今は、ただ潮に流されている。
それが、こんなにも心地よいものとは知らなかった。
物心ついてから、淡路はいつも戦の狭間にあったように思う。
三好があり、毛利があり、織田があった。
海の向こうでは、絶えず誰かが争っていた。
京で戦があれば、淡路の船が動いた。
大坂で争いがあれば、淡路の国衆が呼ばれた。
海は、いつもどこかへつながっていた。
だが、思い返してみれば、淡路そのものが戦場になることは、そう多くはなかった。
戦は、いつも海の向こうにあった。
その気配だけが、島へ届いていた。
それが今度は、島そのものへ押し寄せた。
城が落ち、人が死に、村が焼けた。
わしらは、その中にいた。
わしは、目を閉じた。
父上の顔が浮かんだ。
ともに戦った者たちの顔が浮かんだ。
白巣城で散った者。
山田原で傷ついた者。
戻らなかった船。
守れなかったものは、多い。
あのとき、別の道を選んでいれば。
そう考えることもある。
だが、考えたところで、過ぎた時は戻らぬ。
わしは、わしの判断で戦った。
そして、わしの判断で退いた。
そのことだけは、変えられぬ。
ふと、目を開けた。
海は静かであった。
この静けさが、いつまで続くのだろう。
秀吉は、淡路を手に入れた。
だが、毛利はまだ西にいる。
長宗我部は四国にいる。
織田信長は、さらに大きな天下を望んでいる。
淡路は、その狭間にある。
いや。
今は秀吉のものとなったとしても、海の向こうの争いが終わったわけではない。
毛利と織田。
長宗我部と織田。
それぞれの思惑が、この海を挟んで交わっている。
いつかまた、淡路が必要とされる日が来るのではないか。
そのとき、わしはどうする。
もう一度、武具を取るのか。
それとも、このまま畑を耕し、船を漕いで暮らすのか。
答えは出なかった。
ただ、一つだけ分かっていることがあった。
戦をすることだけが、淡路を守ることではない。
秀吉は、戦わずに降った者を受け入れた。
信康殿は、城を開いて家を残した。
景直も、おそらく自らの道を選んだのであろう。
そして、わしは兜を沈めた。
それぞれが、それぞれのやり方で、生き残ろうとした。
ならば、わしにもまだ、できることがあるのではないか。
わしは、ゆっくりと起き上がった。
船は、いつの間にか岸から遠ざかっていた。
潮が変わったらしい。
櫂を取り、岸へ向ける。
漕ぎ始めると、船は思いのほか軽く進んだ。
遠くに、淡路の山々が見える。
その向こうに、家がある。
家族が待っている。
わしは、もう一度、海の向こうを振り返った。
何が起こるかは分からぬ。
だが、何も起こらぬと決まったわけでもない。
そのとき、わしに何ができるのか。
今はまだ、分からぬ。
ならば、考えればよい。
生きているのだから。
わしは櫂を握り直し、岸へ向かった。




