第7話 兜を沈める日
竹谷へ着いた頃には、陽は西へ大きく傾いていた。
達長の軍は、もはや軍勢というより、長い避難の列であった。
傷を負った兵。
疲れ切った馬。
幼子を抱く女たち。
誰も声を上げない。
ただ足だけを前へ運んでいた。
竹谷は淡路北部の交通の要衝である。
ここから道は東へ、西へと分かれる。
達長は街道を見渡した。
東にも。
西にも。
そして南にも。
まだ敵の姿は見えない。
「……間に合ったか。」
しかし、それは束の間に過ぎない。
秀吉軍が白巣を落とし、山田原を焼いた以上、追手がここへ現れるのも時間の問題だった。
達長は兵を山間の小さな溜め池へ導いた。
木々に囲まれた静かな場所だった。
水面だけが、夕焼けを映して揺れている。
兵たちはようやく腰を下ろした。
誰もが黙って水を飲み、泥を洗い流している。
その様子を見つめながら、達長は奥井ら重臣を集めた。
円になって座る。
地図を広げても、もう指し示す城はほとんど残っていなかった。
奥井が静かに口を開く。
「殿。」
達長は顔を上げる。
「我らの兵は、皆、淡路の者でございます。」
誰もが頷いた。
農を営み。
漁に出て。
この島で子を育ててきた者たち。
故郷は、この島にしかない。
「戦を続けたとして。」
奥井は続けた。
「淡路を取り返す術はございましょうか。」
達長は答えなかった。
頭の中では何度も考えてきた。
毛利が大軍を送る。
長宗我部が海を渡る。
二つの軍勢が同時に動けば、あるいは。
だが、それには時が要る。
互いの思惑もある。
そして秀吉は、その時を決して与えない。
「四国へ渡る道もございます。」
若い武将が言った。
達長は静かに首を振る。
「我らは流民ではない。」
一言だった。
「領地も。」
「田畑も。」
「墓も。」
「すべて淡路にある。」
誰も反論しなかった。
四国へ渡れば、生き延びることはできるかもしれない。
しかし、それは菅家が淡路を捨てることを意味していた。
達長は深く息を吐く。
「……負けだ。」
その言葉は、驚くほど静かだった。
誰も俯かなかった。
皆、すでに分かっていた。
その時だった。
奥井が懐から、小さな袋を取り出した。
黒い絹地に、金糸が織り込まれている。
「殿。」
奥井は両手で差し出した。
「お父上様より。」
達長の手が止まる。
「達長様へ、お預かりいたしました。」
袋を開く。
中には一振りの短刀が納められていた。
古い。
しかし刃には、不思議な澄んだ光が宿っている。
達長はしばらく黙って見つめた。
父は何も語らなかった。
何も書き残さなかった。
ただ、この一振りだけを託した。
それだけで十分だった。
達長は静かに刀を袋へ戻す。
「……確かに受け取った。」
それ以上、誰も言葉を発しなかった。
軍議は終わったように思えた。
だが達長だけは立ち上がる。
ふらりと池のほとりまで歩く。
そして西を見る。
街道の、その先。
山々の向こう。
幼い頃、父に手を引かれ、幾度となく歩いた道。
島神を祀る社へ続く道。
ふと。
風が吹いた。
いや。
風だったのだろうか。
一筋の光が視界を横切った気がした。
夕陽だったのか。
木漏れ日だったのか。
次の瞬間。
頬に冷たいものを感じた。
雨……。
そう思って空を見上げる。
雲はない。
兵たちも何事もなく話している。
雨など降ってはいなかった。
達長はもう一度、西を見る。
何もない。
何も変わらない景色だった。
それでも。
不思議だった。
胸を締めつけていた重苦しさが、いつの間にか消えていた。
敗れた。
城を失った。
父を失った。
それなのに。
心の奥底で、小さな灯火がともる。
(終わりではない。)
その思いだけが、確かにあった。
達長は振り返る。
家臣たちを見渡す。
疲れ切った顔。
絶望を飲み込んだ目。
その一人ひとりを見つめて、ゆっくりと言った。
「皆、聞け。」
静かな声だった。
だが、誰もが顔を上げた。
「今日をもって、軍を解く。」
重い沈黙が流れる。
「各々、潜伏せよ。」
誰かが息を呑んだ。
「田へ帰れ。」
「村へ帰れ。」
「家族を守れ。」
達長は一人ひとりの顔を見る。
「そして、生きろ。」
その言葉には、不思議な力があった。
「再び、立ち上がる日が来る。」
誰かが心の中で思う。
――いつだ。
――どうやって。
――そんな日は本当に来るのか。
誰も答えられない。
達長も答えられない。
それでも。
不思議と、その場には絶望がなかった。
誰もが感じていた。
殿は何かを見ている。
自分たちにはまだ見えない、未来を。
達長は静かに兜を外した。
幾度も戦場をくぐり抜けた兜。
傷だらけになった鉄が、夕日に赤く染まる。
達長はその兜を両手で抱え、水際まで歩いた。
そして、何も言わず。
静かに池へ沈めた。
波紋が幾重にも広がる。
兜はゆっくりと水底へ消えていく。
半兵衛が池の縁へ駆け寄った。
水面へ身を乗り出し、小さな手で覗き込む。
「父上……。」
澄んだ水の底で、兜はなお微かに光を返していた。
やがて、それも見えなくなる。
達長は池へ一礼し、背を向ける。
もう城主ではない。
もう将として軍を率いる者でもない。
だが。
菅達長という男は、この日、消えたのではなかった。
再び立ち上がる日まで、その名を静かに水の底へ沈めたのである。
第二章に続きます。




