第3話 秀吉の盤上
十一月十七日 夜 岩屋城。
城門がゆっくりと開く。
生駒親正は門前で足を止めた。
「……静かだ。」
誰も動かない。
昼過ぎから城を囲み続けていたが、攻め込もうとするたびに胸騒ぎがした。
炊煙は絶えず立ち昇り、櫓には幟が翻っている。
城内には兵が潜み、飛び出してくるのではないか。
そんな疑念が、足を止めていた。
ようやく慎重に城内へ踏み込む。
一軒、また一軒。
兵舎は空。
武具蔵も空。
井戸端にも誰もいない。
「……やられた。」
生駒は苦笑した。
その報せは、その日のうちに秀吉の本陣へ届けられた。
秀吉は地図の前に座ったまま、報告を最後まで聞き終えると、小さく笑った。
「そうか。達長は退いたか。」
誰も口を開かない。
「よい判断じゃ。」
その一言に、家臣たちは顔を見合わせた。
「殿。」
池田元助が尋ねる。
「敵をお褒めになるので。」
秀吉は扇子で岩屋城を指した。
「この城で討死にしても何も変わらぬ。」
今度は次の城へと扇が移る。
「兵を残し、時を稼ぎ、堅城へ退く。戦を知る者の考えじゃ。」
生駒が頭を下げた。
「されど、一日。」
「うむ。」
秀吉の表情が少しだけ曇る。
「そこは達長にしてやられた。」
岩屋城は昼までに落ちる。
秀吉はそう見込んでいた。
だからこそ、その日のうちに西浦を南下し、次の城へ圧力を掛ける手筈だった。
だが、空城の計によって半日以上を失った。
さらに、城内の探索や兵糧・船着場の確保にも時間が取られる。
「わずか一日。」
秀吉は静かに言う。
「されど戦では、その一日が国を動かす。」
黒田官兵衛が口を開いた。
「しかし、予定に大きな狂いはございませぬ。」
秀吉は頷いた。
「そのための半年じゃ。」
半年前。
姫路城。
秀吉はすでに淡路攻めの準備を始めていた。
岩屋。
白巣。
志知。
洲本。
由良。
国衆の顔ぶれ。
家同士の確執。
誰が義を重んじ、誰が利で動くか。
兵の数。
港の深さ。
潮の流れ。
街道の幅。
荷駄が一日に進める距離。
一つひとつを書き込み、幾度も地図を書き直した。
「戦は始まる前に勝つ。」
それが秀吉のやり方だった。
彼は地図の東側を見た。
「官兵衛。」
「は。」
「東浦は。」
「予定通り。」
官兵衛は答える。
「尼崎より船団が出帆しております。」
洲本。
由良。
その攻略を最優先としている。
西浦を進む秀吉軍。
東浦を制圧する官兵衛軍。
淡路を挟み撃ちにする形で、短期決戦することが狙いだった。
「ならば。」
秀吉はゆっくり立ち上がる。
「明日はここじゃ。」
その声には一切の迷いがなかった。
――同じ頃。
白巣城。
山裾では兵たちが焚き火を囲み、遅い夕餉を取っていた。
達長はそのまま城主・安宅冬秀の居館へ通される。
冬秀は達長を見るなり笑った。
「岩屋を捨てたそうだな。」
「捨てたのではない。」
達長は座る。
「移した。」
冬秀は面白そうに笑う。
「言い方一つで変わるものだ。」
達長も少し笑った。
安宅冬秀は欲深い男と言われる。
領地も欲しい。
兵も欲しい。
名誉も欲しい。
だが達長は、その欲こそが冬秀の強さだと思っていた。
負け戦であっても、生き残る道を必ず探す。
淡路国衆の中では、数少ない現実を語れる相手だった。
達長は地図を広げる。
「秀吉軍は岩屋を取った。」
「思ったより早い。」
「いや。」
達長は首を振る。
「思ったより遅い。」
冬秀が眉を上げる。
「一日稼げた。」
「ほう。」
「だが。」
達長は指を動かした。
「次をどう考えているか分からぬ。」
指は洲本城を指す。
「まずはここ。」
続いて志知城。
「次がここ。」
「白巣は。」
「後回しかもしれぬ。」
冬秀は腕を組んだ。
達長は続ける。
「洲本も志知も落ちれば、白巣は孤立する。」
「逆に。」
冬秀が地図を見ながら言う。
「真っ直ぐ来る可能性もある。」
「ある。」
達長は迷わず答えた。
「であれば二日…。」
「他の城を押さえてからなら。」
「一週間。」
冬秀は静かに頷いた。
達長はさらに地図へ手を置く。
「敵が正面から来るなら。」
北の街道。
「ここへ、わしが布陣する。」
そして南側を指す。
「できれば庄田城の船越景直が、こちらへ出てくれればよい。」
冬秀は少し笑う。
「あやつが来ると思うか。」
達長は答えなかった。
「三方から挟める。」
それだけを言った。
「だが。」
達長は再び地図を見る。
「北から回るかもしれぬ。」
さらに南。
「志知を抜けるかもしれぬ。」
さらに海岸。
「あるいは都志へ船を着ける。」
冬秀の目が細くなる。
「その道は狭い。」
「伏兵向きだ。」
「なら。」
冬秀は立ち上がった。
「兵を潜ませよう。」
達長は頷いた。
ようやく形が見え始めた。
その夜。
白巣城では夜通し陣地づくりが続いた。
誰もが数日は猶予があると思っていた。
だが。
翌十八日。
夜明け前。
城下に鐘が鳴る。
後に知ることになる。
秀吉は岩屋を落とす以前から、西浦軍を二手に分けることを決めていた。
一軍は白巣。
一軍は志知。
つづきます。




