第2話 潮読み岩屋城
天正九年十一月十七日 早朝 岩屋城。
夜明け前。
見張りの兵が息を切らして駆け上がった。
「殿!」
菅達長はすでに甲冑姿だった。
「明石に動きあり!」
達長は黙って海へ歩く。
朝靄の向こう。
無数の白帆が朝日に照らされていた。
「……来たか。」
その数、およそ三十艘。
しかし達長は遠目を凝らす。
そのさらに沖。
霞の向こうに林のような帆柱が並ぶ。
「あれは。」
家臣が息を呑む。
「本隊……。」
達長は静かに首を振った。
「違う。」
「え?」
「あれでもまだ一部だ。」
さらに西。
さらに北。
海そのものが船で埋まっている。
尼崎に集められた船団。
摂津から集められた輸送船。
播磨水軍。
淡路へ渡るための軍船。
「千艘……。」
誰かが呟いた。
誰も否定しなかった。
これほどの船団が本気で渡れば、岩屋城など半日も持たない。
達長は潮を見た。
海面を漂う藻。
沖へ流れる泡。
風。
雲。
そして朝日に照らされた波頭。
「まだだ。」
その一言で家臣たちは悟った。
殿は戦う。
だが勝つためではない。
時間を奪うために。
達長は振り返る。
「船は。」
「十艘、いつでも。」
「兵は。」
「百五十。」
「よし。」
達長は家臣たちを見回した。
「今日は勝たぬ。」
皆が顔を上げる。
「今日、欲しいのは一日だ。」
ざわめきが走る。
「岩屋は捨てる。」
静まり返る。
「この城で死ねば終わる。」
達長は地図を広げた。
「敵は岩屋を欲している。」
指が白巣城へ動く。
「だが、わしが欲しいのは時間だ。」
「殿……。」
「三日。」
さらに指を置く。
「いや、一日でもよい。」
その一日で使者は備中へ走る。
その一日で阿波へ渡る。
その一日で長宗我部が動くかもしれぬ。
「そのために今日、生駒を止める。」
沖で法螺貝が鳴る。
敵船団が動き始めた。
「参るぞ。」
十艘が岩屋の浜を離れる。
普通なら城前で迎え撃つ。
だが達長は沖へ出た。
さらに沖へ。
さらに左へ。
敵船団がざわつく。
「あいつら逃げるぞ!」
生駒親正が笑う。
「追うな。」
副将が制する。
「放っておけ。潮が城へ運ぶ。」
その通りだった。
潮は東へ流れている。
達長の船は大きく迂回しながら、潮下へと姿を消した。
生駒は城だけを見ていた。
その瞬間だった。
「右舷!」
見張りが叫ぶ。
達長の十艘が潮に乗って敵船団の側面へ現れた。
「放て!」
百を超える矢が一斉に空を裂く。
船上で悲鳴が上がる。
「第二射!」
再び矢。
三度目。
四度目。
敵は櫂を返そうとするが、潮がそれを許さない。
「城に近づけ!」
生駒が叫ぶ。
その瞬間。
岩屋城から法螺貝。
城壁一面から矢が降る。
雨のようだった。
船団は挟まれた。
前から岩屋城。
後ろから達長。
右へ逃げれば岩礁。
左へ逃げれば潮。
生駒は歯を食いしばる。
「退け!」
軍船はようやく向きを変え始める。
その頃。
達長はもう追っていなかった。
「よし。」
彼は城を見上げる。
「帰るぞ。」
十艘は岩屋へ戻る。
浜では兵が待っていた。
「急げ!」
武具。
兵糧。
火薬。
馬。
必要なものだけを積み込む。
一方、城では老人たちが走っていた。
竈という竈に火が入れられる。
炊煙が立つ。
十筋。
二十筋。
まるで城中で兵糧支度をしているように。
空の櫓には幟が立てられる。
見張りが歩き回る。
遠目には、なお数百の兵が籠城しているように見えた。
達長は最後に天守を見上げた。
「許せ。」
誰に言ったのか。
城か。
兵か。
それとも島か。
誰にも分からなかった。
船団は静かに浜を離れる。
岩屋城だけが、その場に残された。
午後。
生駒軍は慎重に城へ近づく。
「妙だ。」
静かすぎる。
炊煙は立っている。
幟も揺れている。
だが矢が飛んでこない。
鉄砲も鳴らない。
生駒は船を止めた。
「罠か。」
誰も前へ出ようとしない。
その疑念こそ、達長が残した最後の一矢だった。
その頃にはもう、達長らの本隊は淡路の西浦を南へ、南へと進んでいた。
夕暮れを背に、達長は海を見ている。
逹長は潮を見ていた。
「……潮を待つ。」
つづく




