第1話 達長と景直(改訂版)
1581年、織田信長配下の羽柴秀吉は毛利勢に組みする海の要所・淡路島制圧のために侵攻。郷土を守る戦いを経て、淡路国衆の菅逹長はその才能を開花させ、天下の情勢に斬り込んでいきます。真田幸村にも劣らない、海の鬼才の活躍をお楽しみください!
淡路の海が、妙に静かだった。
風はある。
だが、波は低い。
岩屋城の見張り櫓から海を眺めていた兵が、沖合に目を凝らしていた。
何か見えるか?と聞かれても、そこに船影はない。
ただ、海の向こうを見つめている。
播磨灘のさらに向こう。
そこには畿内がある。
京があり、大坂があり、そして――
織田信長の勢力がある。
ここ数年、淡路の者たちは海の向こうの動きに敏感になっていた。
風向き。
潮の流れ。
船の数。
誰がどこへ兵を出したのか。
誰が誰と手を結んだのか。
一つの噂が、ひとつの戦を生む。
一つの寝返りが、ひとつの城を燃やす。
淡路は、いつもその真ん中にあった。
その日の朝。
岩屋城へ、一艘の船が着いた。
「庄田城より、船越景直様がお見えです!」
兵たちの間に、わずかなざわめきが起こる。
倭文庄田城主、船越景直。
淡路十人衆の一人。
菅逹長とは幼い頃からの付き合いであり、景直のほうが幾つか年上だった。
兄弟のように育った二人である。
だが――
今日の訪問は、どうにも穏やかなものではなかった。
景直は一人で船を降りると、岩屋城の石段を上がっていく。
その顔に、いつもの気安さはない。
「逹長は?」
「奥の間におられます」
「そうか」
景直は一度だけ、海を振り返った。
播磨灘。
その向こうに、何があるのか。
景直には分かっている。
織田信長。
そして、その配下で急速に力を伸ばしている羽柴秀吉。
もし彼らが淡路へ目を向ければ――
この島は、逃げ場を失う。
景直は小さく息を吐いた。
「……言わねばならんな」
自分に言い聞かせるように呟く。
そして、逹長のもとへ向かった。
天正九年(一五八一年)十一月。
淡路國・岩屋城。
秋の潮風が、障子を小さく鳴らしていた。
岩屋城の評定の間。
開け放たれた窓の向こうには、播磨灘が広がっている。
晴れていれば明石の町並みまで見渡せる海も、この日は重たい雲に覆われ、鈍い光を返していた。
城主・菅逹長は、海を背にして座っている。
その向かいには、倭文庄田城主・船越景直。
景直は、しばらく口を開かなかった。
幼い頃から知る逹長の顔を見つめる。
そして――
「……逹長」
「何だ」
「今日は、お主に言っておかねばならぬことがある」
逹長は景直を見る。
「改まって何だ」
景直は少し迷った。
だが、幼馴染だからこそ、回りくどい言い方はしなかった。
「もし、信長の軍が淡路へ攻めてきたなら――」
一呼吸。
「降りよ」
逹長の眉が動いた。
「……いきなり、それか」
「いきなりではない」
景直は海へ目を向けた。
「わしも考えた」
「考えた上で言っておる」
逹長はしばらく景直を見つめていた。
やがて、静かに立ち上がる。
「景直」
「何だ」
「この淡路が、なぜ今までこうしておられるか、お主も分かっておろう」
逹長は窓辺へ歩いた。
景直も並ぶ。
「わしらの祖父の頃から、淡路は三好の庇護を受けてきた」
「三好が畿内で力を持ち、その庇護のもとで安宅が淡路を治める」
「それが長く続いてきた」
景直は黙って聞いている。
「石山本願寺で戦が始まった時もそうだった」
「三好も、毛利も、安宅も、淡路の国衆も――皆が共に戦った」
「淡路は、誰か一人のものではなかった」
逹長は海の向こうを見る。
「それが五年前だ」
「安宅の心が、信長へふらついた」
「毛利はそれを見逃さなかった」
「岩屋を押さえ、わしがここを預かることになった」
景直が頷く。
「そうだったな」
「戦国の淡路は、いつも狭間にある」
逹長は淡路の西を見た。
「畿内」
そして南を。
「四国」
さらに海の向こうを。
「瀬戸内」
「三方から力がぶつかり合う」
「だからこそ――」
逹長は静かに言った。
「どこか一つが抜け出さぬ限り、今の拮抗はそう簡単には崩れぬ」
景直は少し苦笑した。
「その拮抗が、いつまで続くと思う?」
「さあな」
「わしは、よほどのことがない限り続くと思っておる」
景直は首を振った。
「その『よほどのこと』が、信長ではないのか」
逹長は答えなかった。
「織田信長という男は、時に容赦なく人を切り捨てる」
景直は声を落とした。
「そういう噂も聞く」
「降ったところで、果たして命が助かるものか」
「一つ命があっても足りぬかもしれぬ」
逹長が横目で景直を見る。
「兄者らしく、随分と怖いことを言う」
「怖がらせに来たのではない」
「生き残る道を言っておる」
景直は少し間を置いた。
「三年前、淡路國州の野口長宗が信長に降った」
「知っておる」
「長宗は手厚く遇されている」
「今では羽柴秀吉殿のもとで働き、戦場でも取り立てられている」
「信長に降ったからこそ、あやつには出世の道も開けた」
景直は逹長を見る。
「お主も、同じ道を選べる」
逹長は苦笑した。
「長宗とわしを一緒にするか」
「一緒にしているのではない」
景直は即座に返した。
「現実を言っている」
「淡路一國だけでは、何もできぬ」
「兵も少ない」
「鉄砲も少ない」
「大軍を相手に、真正面から抗えば――」
景直は海を見た。
「淡路そのものが全滅することだってある」
その言葉に、逹長の顔から笑みが消えた。
「……そうはならぬ」
「なぜ言い切れる」
「もし畿内から淡路を攻めるなら――」
逹長は淡路の先を指した。
「毛利も黙ってはおらぬ」
「四国も黙ってはおらぬ」
「紀州も加勢するやもしれぬ」
「信長が淡路へ兵を出せば、周りも動く」
景直は黙った。
「それこそが怖いのだ」
逹長が続ける。
「一つの勢力に降れば、淡路だけの戦で済む」
「だが、拮抗が崩れれば――」
「畿内と四国と瀬戸内の戦が、淡路でぶつかる」
「そのほうが、この島は焼ける」
景直はしばらく考えていた。
「……なるほどな」
「だから、お主は動かぬのか」
「うむ」
「毛利を裏切らぬ?」
「今はな」
景直が少し笑った。
「『今は』か」
「戦国の世で、永遠を口にするほど馬鹿ではない」
二人の間に、わずかな笑いが起こった。
幼い頃から変わらぬ、気の置けない笑いだった。
だが、景直の表情はすぐに戻った。
「実はな」
「何だ」
「数日前、野口長宗が庄田城へ来た」
逹長が振り向く。
「長宗が?」
「ああ」
「何を言っていた」
景直は少し考えてから答えた。
「羽柴秀吉という男のことだ」
逹長の目が細くなる。
「秀吉……」
「懐の広い男だと言っていた」
「敵であろうと、使える者なら使う」
「武功を立てれば、身分にかかわらず取り立てる」
「そして――」
景直は逹長を見る。
「もし淡路に有事があれば、帰順することこそ島を守る道だ、と」
「……」
「お主にも、それを伝えよと言わんばかりだった」
逹長は鼻で笑った。
「長宗らしい」
「随分と羽柴に心酔しておるようだな」
「実際、取り立てられておるからな」
「それだけではない」
景直は苦笑する。
「最近の安宅もそうだ」
「家督を弟に渡してからというもの、どちらにつくともはっきりせぬ」
「毛利にも、信長にも、三好にも」
「風向きを見て、ふらふらしておるように見える」
逹長が笑った。
「兄者も随分と愚痴が溜まっておるな」
「うるさい」
景直も笑う。
「わしだって、好きで愚痴を言っているわけではない」
「だが、長宗我部が四国統一を進めておる」
「三好も、昔ほど当てにはできぬ」
「安宅が心細くなる気持ちも、分からぬではない」
「それで皆、先を見て動こうとする」
「そういうことだ」
景直は海を見た。
「だからこそ、わしもお主に言っておきたい」
「信長軍が来る前に――」
「降る道を考えておけ」
逹長は黙っていた。
しばらくして、静かに口を開く。
「信長も、秀吉も――」
「わしには、まだ信に値するとは思えぬ」
景直が振り向く。
「毛利も、まだ戦うだろう」
「だから、今すぐ答えを出すつもりはない」
景直はため息をついた。
「お主は昔から頑固だな」
「兄者に言われたくはない」
「わしは、お主より三つも四つも年上だぞ」
「だから何だ」
「少しは兄の言うことを聞け」
「昔から聞いた覚えがない」
「……そうだったな」
二人はまた笑った。
しかし、その笑いは長く続かなかった。
景直は立ち上がる。
「今すぐに、とは言わん」
逹長も海を見たまま答えた。
「分かっておる」
「わしは――」
景直は言葉を探した。
「淡路を戦火で焼きたくないのだ」
逹長はゆっくりと景直を見る。
「……それは、わしも同じだ」
景直の目がわずかに揺れる。
「ならば――」
「だからこそ、わしは迷ってはならぬと思っておる」
景直は頷いた。
「だから今日は、それだけを伝えに来た」
「信長軍がいつ来るのか、来ないのかも分からぬ」
「だが、来た時に迷ってほしくない」
逹長は静かに答えた。
「その時が来たら、わしも考える」
「それでよい」
景直は踵を返した。
「では、帰る」
「うむ」
障子へ向かう景直の背中に、逹長が声を掛ける。
「景直」
「何だ」
「長宗は――」
「何だ?」
「秀吉が本当にそこまで懐の広い男だと言っておったのか」
景直は振り返る。
そして、少しだけ笑った。
「それは、次に会った時にでも本人へ聞いてみるがよい」
「……そうするか」
「ではな、逹長」
「気をつけて帰れ、景直」
障子が閉じる。
再び、一人になった評定の間。
逹長は海を見つめた。
播磨灘は、いつもと変わらない。
だが、その向こうには織田信長がいる。
南には四国。
西には毛利。
そして、東の畿内では――
羽柴秀吉が力を伸ばしている。
淡路は、そのすべての狭間にある。
「……潮目、か」
逹長は小さく呟いた。
今はまだ、海は静かだ。
だが――
潮は、目には見えぬところで動いている。
そして一度その流れが変われば、
この淡路にも、
必ず大きな波が押し寄せる。
逹長は、もう一度だけ海を見た。
その目に映っていたのは、
岩屋の城ではなかった。
淡路の行く末だった。
ーーそれからひと月と経たずに事は訪れた。
「達長様!」
足音が廊下に響く。
「姫路より使者が参りました!」
達長は静かに振り返った。
「……通せ。」
評定の間に、羽柴秀吉配下である生駒親正の使者が姿を現した。
その手には、一通の書状が握られていた。
「羽柴方、生駒親正様より。」
達長は封を切り、目を通した。
短い文だった。
――降れば命は助ける。
――応じねば、明朝より兵を進める。
達長は書状を畳み、静かに返した。
「使者殿。」
「はっ。」
「降伏には応じられぬ。」
使者は一礼すると、何も言わず立ち去った。
評定の間には再び静けさが戻る。
達長は窓の外を見つめた。
「ここで降ったとしても、淡路の取り合いはまた繰り返される…」
そう呟きながら、いま何が出来るのかを順番に考え始めていた。
明石の浜には、小さく白帆が見え始めている。
「皆を集めよ。」
「明日は、戦になる。」




