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逹長と景直 〜洲本城陥落〜  作者: 熱田大
四国の決戦
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28/30

第28話 兵庫津の再会

天正十三年(一五八五年)七月。

摂津国・兵庫津。


一艘の漁船が、港へ入ってきた。

船には四人の男が乗っていた。

菅逹長。

根来陣内。

そして、四国水軍から選ばれた二人の兵。

誰も甲冑を身につけていない。

船には漁網が積まれ、魚を入れた桶がいくつか置かれている。

どこから見ても、ただの漁船だった。

「……あちらへ寄せよ」

逹長が指差したのは、大きな船が行き交う港の中心ではなかった。

少し離れた、小さな船着き場だった。

漁師たちが魚を揚げ、商人が荷を運び、町の者が行き交っている。

誰もが忙しく、自分の仕事に追われていた。

「こちらでよろしいのですか」

兵の一人が尋ねた。

「うむ」

「大きな船着き場のほうが、人も多く紛れやすいのでは?」

「人が多いところには、見張りも多い」

逹長は笑った。

「ここなら、漁船が一艘増えたところで、誰も気に留めぬ」

陣内が辺りを見回した。

「……よくご存じですな」

「昔は、何度も来た」

逹長は船から降りた。

「岩屋を預かっていた頃は、ここも目と鼻の先だったからな」

淡路の北東を所領としていた逹長にとって、兵庫津は馴染みのある港だった。

海を渡れば、すぐに着く。

魚を売りに来る者。

塩を買いに来る者。

米や布を運ぶ者。

淡路と兵庫津の間には、昔から多くの人と物が行き交っていた。

「なるほど」

陣内が頷いた。

「勝手知ったる土地、というわけですな」

「そういうことだ」

逹長は、少し笑った。

「もっとも、今は昔とは随分と違うようだがな」

港には、羽柴方の兵が多くいた。

荷駄を運ぶ者。

武具を積み込む者。

船の数を数える役人。

四国攻めのため、兵庫津は大きな軍事拠点となっていた。

逹長は、その様子を見ながら言った。

「……まずは、飯だ」

陣内が振り向く。

「飯でございますか?」

「うむ」

「腹が減っては、秀吉の首も取れぬ」

逹長は笑った。

「それに、飯を食えば話も聞ける」


(町の喧騒)

兵庫津の町。

逹長たちは、港近くの飯屋に入った。

昼時とあって、店内は賑わっていた。

漁師。

商人。

人足。

羽柴方の兵らしき男もいる。

逹長たちは、隅の席に腰を下ろした。

「魚の煮付けを四つ」

逹長が注文する。

「酒は?」

店の者が尋ねた。

「いや、今日はよい」

逹長は笑った。

「まだ仕事があるのでな」

飯を待つ間、逹長は周囲の話に耳を傾けていた。

「四国へは、また兵が渡るそうだぞ」

「まだ渡るのか」

「そりゃあ、十万もの軍勢だからな」

「兵糧だけでも大変なことだ」

別の席では、商人たちが話していた。

「秀吉様は、兵庫におられるのか?」

「さあな」

「昨日は本陣に戻られたと聞いたが」

「いや、別の陣へ出向かれたとも聞く」

「忙しいお方だ」

逹長は、黙って飯を食べていた。

だが、耳は一つも聞き逃していなかった。

陣内が、小声で尋ねる。

「……いかがです?」

逹長は、魚の骨を取りながら答えた。

「うむ」

「なかなか旨い」

陣内は苦笑した。

「魚の話ではございませぬ」

「分かっておる」

逹長は笑った。

「秀吉は、兵庫におる」

「だが、じっとしておらぬ」

「そのようですな」

「まずは、もう少し確かな話を聞こう」

逹長は、飯を食べ終えると立ち上がった。


兵庫津の町外れ。

大きな蔵を構えた商家があった。

米。

塩。

干物。

布。

淡路から運ばれてくる品も多く扱っている。

逹長は、その店先に立った。

「……久兵衛はおるか」

店の若い者が顔を上げた。

「どちら様で?」

「淡路から来た漁師の平右衛門が参った」

逹長は笑った。

「昔の知り合いでな」

若い者は、少し怪訝そうな顔をした。

だが、奥へ声を掛けた。

「旦那様!」

「淡路から、お客人です!」

しばらくして、奥から一人の男が現れた。

五十を過ぎた頃の商人。

少し腹が出ているが、目は鋭い。

久兵衛だった。

「……淡路から?」

久兵衛は、逹長の顔を見た。

そして――

「……おお!」

目を見開いた。

「菅様ではございませぬか!」

逹長が笑った。

「久しいな、久兵衛」

「これは、これは!」

久兵衛は慌てて近づいた。

「ご無沙汰しております!」

「お元気でございましたか!」

「うむ」

「おかげさまでな」

久兵衛は、逹長の身なりを見た。

「……しかし」

「随分と、お姿が……」

「漁師のようでございまして」

逹長が笑う。

「漁師だからな」

「……は?」

「今は、魚を獲って暮らしておる」

久兵衛は、しばらく逹長を見つめていた。

そして、大きく笑った。

「ははは!」

「菅様は、昔から変わりませぬな!」

「そうか?」

「はい!」

「何を考えておられるのか、さっぱり分からぬところが!」

逹長も笑った。

「それは、褒め言葉として受け取っておこう」

久兵衛は、一行を奥へ通した。

(茶を注ぐ音)

久兵衛の商家。

逹長たちは、茶を飲みながら話をしていた。

「……それにしても」

久兵衛が言った。

「今の兵庫は、昔とは随分と違いましょう」

「うむ」

逹長は頷いた。

「兵が多いな」

「それはもう」

久兵衛は苦笑した。

「四国攻めでございますから」

「毎日のように兵が行き来し、荷が運ばれております」

「商いは繁盛しておろう」

逹長が言う。

「ええ、まあ」

久兵衛は少し笑った。

「忙しいことは忙しいのですが、役人の目も厳しゅうございます」

「勝手に船を出すことも、荷を運ぶことも、以前ほど自由にはできませぬ」

逹長は頷いた。

「なるほどな」

しばらく世間話が続いた。

淡路の漁のこと。

兵庫津の商いのこと。

四国攻めの噂。

そして――

逹長は、何気ない口調で尋ねた。

「そういえば」

「秀吉様は、今も兵庫におられるのか」

久兵衛が頷いた。

「そのように聞いております」

「本陣は、どの辺りだ?」

「本陣でございますか」

久兵衛は少し考えた。

「兵庫の町の北寄りに、羽柴方の大きな陣がございます」

「もっとも、秀吉様ご自身は、あちらこちらへ動いておられるようで」

「そうなのか」

「はい」

「昨日は本陣におられたとか、今日は別の陣へ向かわれたとか」

「噂も様々でございます」

逹長は、静かに頷いた。

「……忙しいお方だな」

「まことに」

久兵衛は笑った。

「四国の戦を、こちらから動かしておられるのでしょう」

逹長は、茶を飲んだ。

兵庫に本陣がある。

だが、秀吉がいつそこにいるかは分からない。

守りの様子も、まだ分からない。

陣内が、さりげなく尋ねた。

「本陣の辺りは、兵の出入りも多いのでしょうな」

「ええ」

久兵衛が頷く。

「ただ、何しろ大勢の兵がおりますから、誰が誰やら」

「商人も人足も、毎日のように出入りしております」

陣内は、静かに頷いた。

逹長は、久兵衛を見た。

「……久兵衛」

「はい」

「今日は、久しぶりに顔を見られてよかった」

「こちらこそ!」

久兵衛は笑った。

「また、いつでもお立ち寄りくだされ」

逹長たちは立ち上がった。

「では、失礼する」

「はい」

久兵衛が見送りに立った。

その時だった。

「あっ!」

久兵衛が、突然声を上げた。

「そういえば!」

逹長が振り向く。

「何だ?」

「先日、景直様にもお会いしましたぞ!」

逹長の動きが止まった。

「……景直?」

「はい!」

「船越景直様にございます!」

久兵衛は嬉しそうに続けた。

「いやあ、驚きました」

「何でも、今では秀吉様の側近くでお仕えしておられるとか」

「世が世だけに、随分と出世なされたものですな」

逹長は、しばらく久兵衛を見つめていた。

「……それは、誠か?」

「もちろんでございます!」

「わしが見間違えるはずがございませぬ」

「景直様も、淡路の頃と変わらぬお顔でございました」

逹長の口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。

「……そうか」

そして――

「会いたいのう」

久兵衛が頷いた。

「それは、お喜びになりましょう」

逹長は、一歩近づいた。

「久兵衛」

「はい」

「景直がどこにおるか、分かるか?」

久兵衛は、少し考えた。

「確かなことは申せませぬが……」

「恐らく、詰所は本陣の近くにあるはずです」

久兵衛は、町の方角を指した。

「北へ進んで、あの大きな道を越えた辺り」

「羽柴方の役人や武将が出入りする詰所が、幾つかございます」

「景直様も、そこにおられるのではないかと」

逹長は頷いた。

「……なるほどな」

久兵衛は、笑った。

「ぜひ、お訪ねくだされ」

「昔から、お二人は仲がよろしかったですからな」

逹長は、少しだけ目を細めた。

「……そうだな」

そして、深く頭を下げた。

「久兵衛」

「世話になった」

「何をおっしゃいます!」

「また、お越しくだされ!」

逹長は笑った。

「うむ」

「また来る」


(町の喧騒)

その日の午後。

逹長たちは、兵庫津の町を歩いて回った。

羽柴方の陣。

兵の出入り。

見張りの数。

町の道。

逃げ道となりそうな路地。

陣内は、特に本陣周辺の様子を注意深く見ていた。

「……思ったより、人の出入りが多いですな」

陣内が呟いた。

「うむ」

逹長が頷く。

「戦の最中だからな」

「兵だけでなく、商人も人足も必要だ」

「これなら、紛れ込むことはできるかもしれませぬ」

「だが、秀吉の近くまで行けるかは別だ」

逹長は、静かに答えた。

「まずは、景直を探す」

陣内が振り向く。

「……船越景直殿を?」

「うむ」

「秀吉の側近くにおるなら、何か分かるだろう」

陣内は、少し考えた。

「ですが、景直殿は羽柴方の武将にございます」

「承知しておる」

「菅様のお顔を見れば、すぐに分かるでしょう」

逹長は笑った。

「それも承知しておる」

「……では」

逹長は、陣内を見た。

「景直なら、わしをどうするか」

「それを確かめる」

陣内は、しばらく逹長を見つめていた。

そして、静かに頷いた。

「……承知いたしました」


その夜。

一行は、町の小さな宿に泊まった。

部屋に集まった四人は、地図を広げた。

逹長は、三人を見た。

「さて」

「ここから、どう動く」

陣内が口を開いた。

「本陣へ入るだけなら、方法はございます」

「人足に紛れるか」

「あるいは、荷を運ぶ者に紛れるか」

「ただし、秀吉の居場所が分からぬままでは、危険が大きい」

逹長は頷いた。

別の兵が言った。

「本陣の外で待ち伏せする手もございます」

「しかし、秀吉がいつ出てくるか分かりませぬ」

もう一人が続けた。

「景直様を頼るのは、危険ではございませぬか」

「菅様が来られたと知れば、羽柴方へ知らせるやもしれませぬ」

逹長は、しばらく考えていた。

「……そうだな」

そして、静かに笑った。

「だが、景直は昔から、わしの考えをよく知っておる」

「わしが何をしようとしているかも、顔を見れば分かるかもしれぬ」

陣内が尋ねた。

「……それでも、会われますか」

「うむ」

逹長は頷いた。

「まず、景直に会う」

「そこから先は、会ってから考える」

陣内は、少し笑った。

「……菅様らしい」

逹長も笑った。

「そうか?」

「はい」

「考えておられるようで、最後は人を信じて動かれる」

逹長は、少し黙った。

そして、静かに答えた。

「……信じておるからこそ、会いに行くのだ」

その言葉に、陣内は何も答えなかった。


翌朝。

逹長は、港で仕入れた魚を桶に入れ、肩に担いでいた。

漁師の身なり。

腰には小刀を差しているが、目立つ武具はない。

陣内は、別の道から本陣へ向かうことになっていた。

「わしは、別口から入ります」

陣内が言う。

「菅様が景直殿と会われている間に、秀吉の居場所を探ります」

逹長は頷いた。

「無理はするな」

「承知しております」

残る二人は、本陣の外で待機する。

「何かあれば、すぐに船へ戻れるようにしておけ」

「はっ」

「合図があれば、動け」

「承知しました」

逹長は、魚の桶を担ぎ直した。

「では、行ってくる」

陣内が、静かに頭を下げた。

「ご武運を」

逹長は笑った。

「まだ戦ではない」

「魚を届けに行くだけだ」


羽柴方の本陣近く。

兵や人足が、慌ただしく行き交っていた。

逹長は、何食わぬ顔で歩いていた。

やがて、見張りの兵が立つ場所へ着いた。

「止まれ」

兵が声を掛ける。

「何者だ」

逹長は、桶を少し持ち上げた。

「淡路から参りました。魚を届けに」

「誰にだ」

「船越景直様にございます」

逹長は、にこりと笑った。

「淡路の同郷の者でしてな。久しぶりに魚を召し上がっていただこうと思いまして」

兵は、逹長の顔を見た。

「名は?」

「平右衛門と申します」

逹長は、何のためらいもなく答えた。

「淡路の平右衛門か」

「はい」

兵は、桶の中を覗き込んだ。

魚が数尾、藁の上に並べられている。

「景直様とは、古くからの知り合いなのか?」

「ええ。幼い頃から、よく存じ上げております」

「そうか」

その時、別の兵が声を掛けた。

「おい! こちらの荷は、どこへ運ぶ!」

見張りの兵が振り向く。

「何だ! 今、忙しいのだ!」

逹長は、静かに待っていた。

兵は、再び逹長を見た。

「……船越様なら、あそこだ」

兵が指を差した。

「すぐ先の詰所におられる」

「ありがとうございます」

逹長は、深く頭を下げた。

そして、何事もなかったように歩き出した。


(紙をめくる音)

羽柴方の詰所。

船越景直は、一人で机に向かっていた。

書状、兵糧の記録、諸将からの報告。

机の上には、幾つもの文書が積み重なっている。

普段なら人の出入りが絶えない部屋だったが、今はたまたま誰もいなかった。

景直は届いた書状を一つずつ確かめ、仕分けていた。

そのとき、廊下に足音がした。

「……景直」

聞き覚えのある声だった。

景直は顔を上げた。

入口に、魚の桶を抱えた男が立っていた。

日に焼けた顔。

無造作な髪。

見間違えるはずのない顔だった。

だが、ここにいるはずがない。

とうに死んだものと、半ば諦めていた男である。

景直は、静かに書状へ視線を戻した。

「……景直。わしじゃ」

返事はなかった。

「景直。聞こえておるのか」

「……聞こえておる」

「ならば、なぜ無視する」

「……死んだ者と話す趣味はない」

逹長は、呆れたように笑った。

「何を言うておる。生きておるわ」

景直は、ようやく顔を上げた。

しばらく逹長を見つめる。

それから立ち上がり、近づいて、その腕をつかんだ。

「……本物か」

「何を今さら」

「……逹長」

景直は、それ以上言葉が出なかった。

大坂城。

木津川。

鉄砲の音。

船上に倒れた逹長。

あの日から、何度も思い返してきた光景だった。

喜び、安堵、驚き、そして怒り。

さまざまな感情が、一度に胸へ押し寄せた。

景直は、それらを無理に飲み込んだ。

「……お主。ここで何をしておる」

逹長は、何でもないことのように答えた。

「秀吉の首を取りに来た」

景直は、逹長の腕から手を離した。

「……念のために聞くが、戯言ではあるまいな」

「本気じゃ」

「逹長……やめておけ。この本陣にどれほどの兵が詰めておると思うておるのじゃ。無謀を通り越して、笑わせに来たとしか思えぬわ」

「笑わせに来たのではない」

景直は、逹長の顔を見た。

「……いや、待て。もしや、お主は降伏の使者か?」

「違う」

「では、本当に……」

「景直。秀吉に会わせよ」

景直の表情が変わった。

「……お主、どこまで考えておる」

「ここへ来るところまでは、考えた」

「その先は」

「秀吉に会ってから決める」

「……馬鹿者」

「うむ。そうかもしれぬ」

景直は逹長を見つめた。

昔からそうだった。

無謀に見えて、その実、逹長は常に先を読んでいる。

勝てぬと見れば、誰よりも早く退く。

勝機を見つければ、誰よりも早く動く。

そして一度決めれば、他人が何と言おうと、簡単には曲げない。

だが、今回は違う。

相手は羽柴秀吉。

この本陣の主であり、十万を超える軍勢を動かしている男だった。

「……逹長」

「何じゃ」

「ここから先は、わしにも守りきれぬぞ」

「承知しておる」

景直は、深く息を吐いた。

そのときだった。

「景直よ!」

不意に、明るい声が響いた。

二人が振り向く。

羽柴秀吉が、廊下から顔を覗かせた。

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