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逹長と景直 〜洲本城陥落〜  作者: 熱田大
四国の決戦
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27/30

第27話 秀吉の行方

天正十三年(一五八五年)六月二十三日。

阿波国・鳴門。


羽柴軍の大船団が、次々と阿波へ上陸していた。

淡路の洲本城で陣容を整えた軍勢は、鳴門の海を渡り、木津城へ向けて進軍を始めていた。

その数、六万。

讃岐へ向かった三万の軍勢とは、比べものにならない規模だった。

兵。

馬。

鉄砲。

槍。

兵糧。

海を渡った軍勢は、上陸するや否や隊列を整え、内陸へ向かって進んでいった。

そして――

その報せが四国水軍に届いた時には、すでに羽柴軍の主力は陸へ上がっていた。


(波の音)

阿波南部。

四国水軍の陣。

「……上陸しただと?」

菅逹長が、報告の兵を見た。

「はい!」

「羽柴方の大軍は、すでに鳴門を渡り、木津城へ向かっております!」

「数は?」

「六万ほどと!」

逹長は、しばらく黙っていた。

「……六万か」

側近が口を開く。

「逹長様、いかがいたしましょう」

逹長は、海を見た。

海上で秀吉を討つ。

それが、四国攻めを迎えるにあたって考えていた策だった。

敵の兵が十万であろうと、二十万であろうと、総大将を失えば軍は揺らぐ。

その一瞬を狙う。

だが――

敵はすでに陸へ上がっていた。

「……遅れたな」

逹長が呟いた。

誰も答えなかった。

「船を集めるのも、渡すのも、思った以上に早い」

逹長は小さく息を吐いた。

「秀吉め」

「やはり、侮れぬ男だ」

側近が尋ねる。

「では、水軍はどう動きますか」

逹長は、少し考えた。

「……木津城へ向かう」

「木津城へ?」

「うむ」

「六万の兵が城を囲むならば、兵糧も大量に要る」

「船で運ぶはずだ」

逹長は、海岸線を指した。

「その船を狙う」

「木津城の包囲を、少しでも緩めさせる」

「ただし、まともにぶつかるな」

「夜だ」

「夜に動くぞ」


(夜の波音)

その夜。

四国水軍の船が、暗い海を進んでいた。

灯りは落としている。

櫂の音も、できる限り抑えていた。

遠くに、羽柴方の船影が見える。

上陸に使われた船。

兵糧を運ぶ船。

岸近くには、いくつもの船が停泊していた。

「……見えたな」

逹長が呟いた。

「はい」

「まだ、こちらには気づいておらぬようです」

逹長は頷いた。

「よし」

「火矢を用意せよ」

(弓を引く音)

船上で弓兵が動く。

「狙いは、岸に近い船だ」

「一艘燃えれば、隣も騒ぐ」

「火が広がれば、陸の兵も動かねばならぬ」

「それだけでも、木津城を囲む兵の気を散らせる」

側近が頷いた。

「承知しました」

逹長は、右手を上げた。

「……撃て」

(火矢の飛ぶ音)

闇の中を、赤い光が走った。

一本。

二本。

そして、次々と。

羽柴方の船に火がついた。

(炎の音)

「火事だ!」

「船が燃えておる!」

「敵襲!」

羽柴方の兵たちが叫ぶ。

船から船へ、慌ただしく兵が走る。

火を消そうとする者。

縄を解いて船を離そうとする者。

岸から水を運ぶ者。

夜の海が、赤く染まった。

「……よし」

逹長が頷いた。

「退くぞ」

側近が驚く。

「もう退くのですか?」

「うむ」

「これ以上近づけば、こちらも見つかる」

「今夜は、火をつければ十分だ」

逹長は、燃える船を見つめた。

「敵が一晩でも眠れねば、それでよい」

(櫂の音)

四国水軍は、闇の中へ消えていった。


翌朝。

羽柴方の船の守りは、一変していた。

停泊する船の間隔は広げられ、岸には見張りが増えた。

兵糧船には、武装した船が付き添っている。

その数も、昨日までとは違っていた。

「……随分と増やしたな」

逹長が呟いた。

側近が頷く。

「護衛だけで、我らの船団に匹敵するほどです」

「うむ」

「夜討ちを警戒しているのでしょう」

逹長は、しばらく船団を見つめていた。

「……もう一度、夜を狙いますか」

側近が尋ねる。

逹長は首を振った。

「同じ手は通じぬ」

「ならば、別の場所を?」

「それも考えた」

逹長は、海の向こうを見た。

羽柴方の船は、次々と兵糧を運んでいる。

それぞれに護衛がつき、見張りも厳しい。

小さな船団を狙っても、すぐに応援が来る。

大きな船団へ近づけば、こちらが包囲される。

「……手がないな」

逹長は、静かに言った。

その言葉に、側近は驚いた。

逹長が、そう口にするのは珍しかった。

「逹長様……」

「いや」

逹長は苦笑した。

「手がないというより、今ある手では届かぬ、ということだ」

「敵の船を幾つ沈めても、六万の兵は止まらぬ」

「兵糧を少し焼いても、すぐに次が来る」

「……数が違いすぎる」

逹長は、黙って海を見た。


それから、幾日かが過ぎた。

木津城の包囲は続いていた。

羽柴方の兵糧輸送も、途切れない。

四国水軍は何度か機会を探ったが、護衛の厚さは変わらなかった。

船を出せば、敵の見張りに捕捉される。

夜を待てば、今度は敵も灯りを落とし、警戒を強める。

思うように動けないまま、日だけが過ぎていった。

逹長は、船上で地図を眺めていた。

木津城。

鳴門。

洲本。

「……陣内」

逹長が声を掛けた。

根来陣内が、すぐに近づいた。

「はっ」

「一つ、頼みがある」

「何なりと」

逹長は、地図を指した。

「羽柴方の陣へ入れるか」

陣内の目が細くなる。

「……敵陣へ?」

「うむ」

「調べてほしいことがある」

「何でございましょう」

逹長は、静かに言った。

「秀吉が、どこにおるかだ」

陣内は、しばらく逹長を見つめた。

「……承知いたしました」

「無理はするな」

逹長が言う。

「見つかりそうなら、すぐに引け」

陣内は、少し笑った。

「菅様」

「何だ」

「わしは、忍びにございます」

「それは知っておる」

「見つからぬことが、仕事にございます」

逹長は笑った。

「……頼もしいな」

陣内は、静かに頭を下げた。

そして、その夜。

羽柴方の陣へ向かった。


二日後。

陣内が戻ってきた。

その顔には、疲れが見えていた。

だが、目は鋭かった。

「……菅様」

逹長が振り向く。

「戻ったか」

「はい」

「どうだった」

陣内は、声を落とした。

「……分かりました」

逹長は、黙って続きを待った。

「阿波へ渡った六万の軍勢」

「その総大将は――」

一呼吸。

「羽柴秀吉ではございませぬ」

逹長の眉が動いた。

「……何?」

「羽柴秀長にございます」

「秀長……」

「はい」

「秀吉の弟、秀長が総大将として兵を率いております」

逹長は、しばらく黙っていた。

そして、ゆっくりと息を吐いた。

「……そういうことか」

側近が尋ねる。

「では、秀吉はどこに?」

陣内は答えた。

「兵庫にございます」

逹長が顔を上げる。

「……兵庫?」

「はい」

「秀吉は兵庫に本陣を構え、四国攻めの全軍を指揮しております」

「讃岐へも、阿波へも渡っておりませぬ」

逹長は、地図を見た。

兵庫。

淡路の向こう。

瀬戸内の東の端。

四国から見れば、海の向こうだった。

「……なるほどな。岸和田城でもなく…か」

逹長は、小さく笑った。

「秀吉め」

「最初から、四国へ渡るつもりはなかったな」

陣内が頷く。

「そのように見えます」

「本陣の守りは?」

逹長が尋ねる。

陣内は、少し考えた。

「そこまでは、まだ分かりませぬ」

「ですが、阿波の軍勢には、秀吉本人がおらぬことは確かにございます」

逹長は、しばらく地図を見つめていた。

やがて、静かに言った。

「……陣内」

「はい」

「よく調べてくれた」

陣内は、頭を下げた。

「恐れ入ります」

逹長は、地図を畳んだ。

「それともう一つ。木津城攻めは水の手を絶つ策のようです。」

「そうか…力攻めではない…急ぐ必要はない。ということか…」

逹長は何かを考え始めた様子だった。

「うむ。今夜は休め」

「菅様は?」

「少し、考える」

そう言って、逹長は一人、船室へ入っていった。


(夜の波音)

その夜。

逹長は、ほとんど眠らなかった。

船室に灯りを置き、地図を広げていた。

阿波。

讃岐。

伊予。

そして、兵庫。

秀吉の軍勢は、三方から四国へ迫っている。

讃岐では、城々が落ちた。

阿波では、木津城が包囲されている。

伊予にも、やがて兵が入るだろう。

長宗我部軍は四万。

秀吉軍は十万を超える。

兵力差は、三倍近い。

陸で戦えば、少しずつ押される。

海で戦えば、数で包囲される。

敵の兵糧を断とうにも、護衛が厚い。

船を焼こうにも、警戒が厳しい。

何度考えても、同じところへ戻ってくる。

――このままでは、勝てぬ。

逹長は、地図の上に手を置いた。

兵庫。

そこに、秀吉がいる。

秀吉は、四国へ渡っていない。

ならば――

四国の戦場から離れた場所に、総大将がいるということだ。

「……油断しておるかもしれぬな」

逹長が呟いた。

もちろん、守りはあるだろう。

だが、十万の兵を四国へ送り出した後。

兵庫に残る兵は、どれほどか。

何より、秀吉は自らの本陣へ敵が来るとは考えていないかもしれない。

逹長は、しばらく目を閉じた。

思い浮かぶのは、長宗我部元親の顔だった。

香宗我部親泰。

四国の国衆たち。

そして、自らが育てた水軍の兵たち。

このまま戦が続けば、いずれ降伏することになる。

それは、避けられぬかもしれない。

だが――

まだ、一つだけ手がある。

逹長は、目を開いた。

「……やるか」

小さく呟いた。

その声に、迷いはなかった。


翌朝。

四国水軍の大船。

逹長は、副将の池頼和を呼んだ。

その傍らには、奥井もいた。

「頼和」

「はっ」

「しばらく、水軍の指揮を頼む」

頼和が顔を上げた。

「……何と?」

逹長は、静かに続けた。

「わしは、兵庫へ向かう」

「兵庫?」

「うむ」

「陣内とともに、秀吉の首を取りに行く」

一瞬、船室が静まり返った。

頼和が、思わず声を上げた。

「……秀吉の首を?」

「そうだ」

「お待ちくだされ!」

奥井が口を挟んだ。

「逹長様!」

「それは、あまりに無謀ではございませぬか!」

逹長は、奥井を見た。

「無謀か」

「無謀に決まっております!」

奥井は、珍しく声を荒らげた。

「相手は羽柴秀吉ですぞ!」

「十万の軍勢を動かす男です!」

「その本陣へ、わずかな人数で忍び込むなど――」

「奥井」

逹長が、静かに言った。

奥井は口を閉じた。

「わしも、一晩考えた」

「何度もな」

逹長は、地図を指した。

「このまま戦えば、長宗我部軍はいずれ降る」

「それは、もはや時間の問題だ」

「兵の数が違いすぎる」

「水軍だけが戦い続けても、何も変わらぬ」

頼和は、黙って聞いていた。

「だが、秀吉が討たれれば――」

逹長は、少し間を置いた。

「戦は変わる」

「十万の軍勢も、総大将を失えば動揺する」

「少なくとも、今の勢いでは攻められまい」

奥井が首を振った。

「しかし、秀吉の守りは堅いはずです」

「うむ」

逹長は頷いた。

「それも分かっておる」

「だから、陣内を連れていく」

「陣内は、敵の懐へ入り込むことに長けておる」

「わし一人では無理でも、あやつとならば、届くかもしれぬ」

頼和が尋ねた。

「……もし、届かなかったら?」

逹長は、少し笑った。

「その時は、諦めて戻る」

奥井が、驚いた顔をした。

「戻る……?」

「うむ」

「守りが堅ければ、無理はせぬ」

「生きて戻ることも、策のうちだ」

逹長は、奥井を見た。

「その時は、許してくれ」

奥井は、しばらく逹長を見つめていた。

「……本当に、戻られますな?」

逹長は、少しだけ目を細めた。

「努力はする」

「逹長様!」

奥井が声を上げる。

逹長は笑った。

「冗談だ」

「……まったく」

奥井は、深くため息をついた。

頼和が、静かに尋ねた。

「では、水軍は?」

逹長は、真顔に戻った。

「わしが戻るまでは、お主が率いよ」

「敵の大船団とは、まともに戦うな」

「船と兵を失わぬことを第一とせよ」

「そして――」

逹長は、頼和をまっすぐ見た。

「長宗我部軍が降伏したならば、水軍も降れ」

頼和の目が揺れた。

「……降伏を?」

「うむ」

「わしが戻らぬとしても、戦い続けてはならぬ」

「兵を生かせ」

「船を残せ」

「それが、お主に頼む最後の仕事だ」

頼和は、しばらく黙っていた。

やがて、深く頭を下げた。

「……承知いたしました」

奥井は、何も言わなかった。

ただ、逹長を見つめていた。

その目には、父の代から菅家を支えてきた者だけが持つ、深い心配が浮かんでいた。

逹長は、奥井へ向き直った。

「奥井」

「……はい」

「わしが留守の間、頼和を頼む」

奥井は、静かに頷いた。

「承知しております」

そして、少し間を置いた。

「……お父上に、叱られますぞ」

逹長は、思わず笑った。

「もう叱られた」

「何と?」

逹長は、腰の刀に手を添えた。

割れた鞘は、新しく直されていた。

だが、中の刀には、あの時の傷が残っている。

「大坂で、命を救われた」

「次は、もう少し考えて動けと言われた気がする」

奥井は、苦笑した。

「……ならば、なおさらです」

逹長は頷いた。

「分かっておる」

「今度は、無駄に撃たれたりせぬ」

奥井は、何も答えなかった。

ただ、深く頭を下げた。


(波の音)

その日の午後。

一艘の漁船が、阿波の海岸を離れた。

乗っているのは、四人。

菅逹長。

根来陣内。

そして、逹長が選んだ二人の兵。

いずれも、漁師のような身なりだった。

武具は、船底へ隠してある。

旗もない。

甲冑もない。

ただの漁船にしか見えなかった。

「……本当に、これで兵庫へ?」

一人の兵が尋ねた。

逹長は頷いた。

「うむ」

「大船で行けば、すぐに見つかる」

「漁船ならば、誰も気に留めぬ」

陣内が、少し笑った。

「菅様は、漁師の姿がお似合いですな」

「そうか?」

「はい」

「先日の小早川様のところでも、随分と自然でございました」

逹長は笑った。

「では、これからは漁師で食っていくか」

「それもよろしいかと」

二人は笑った。

だが、笑いが収まると、自然と口数が減っていった。

海は穏やかだった。

漁船は、ゆっくりと北へ進む。

やがて――

淡路島が見えてきた。

逹長は、その島影を見つめた。

岩屋城。

白巣城。

洲本城。

庄田城。

かつて、自分が戦った場所。

かつて、仲間とともに海を眺めた場所。

そして――

船越景直がいるはずの島。

逹長は、しばらく黙っていた。

陣内が尋ねる。

「……菅様」

「何だ」

「淡路へ寄られますか」

逹長は、ゆっくりと首を振った。

「いや」

「今は、寄らぬ」

陣内は頷いた。

「承知しました」

逹長は、淡路の山並みを見つめていた。

故郷は、すぐそこにある。

だが、今の自分には、帰る場所ではなかった。

「……景直」

逹長は、小さく呟いた。

誰にも聞こえぬほどの声だった。

二年前。

大坂城の近くで、自分は鉄砲に撃たれた。

誰が撃ったのかは、分からない。

だが、あの城には景直がいたかもしれない。

逹長は、目を細めた。

「……まさかな」

そう呟くと、再び前を向いた。

漁船は、淡路島を横目に進んでいく。

向かう先は、兵庫。

羽柴秀吉の本陣。

十万の軍勢を動かす男の首を、わずか四人で狙う。

誰が聞いても、無謀な策だった。

だが――

逹長には、それ以外の勝ち筋が見えなかった。

「……陣内」

「はい」

「兵庫へ着いたら、まず秀吉の居場所を探る」

「承知しております」

「守りが堅ければ、引く」

「はい」

「だが、隙があれば――」

逹長は、海の向こうを見た。

「逃さぬ」

陣内は、静かに頷いた。

「お任せくだされ」

(波の音)

淡路島の山並みが、ゆっくりと後方へ流れていく。

その向こうには、兵庫の海がある。

そして、羽柴秀吉がいる。

逹長は、腰の刀に手を添えた。

父の形見。

一度、自分の命を救った刀。

「……父上」

小さく呟いた。

「今度は、わしが動きます」

漁船は、静かに北へ進んでいった。

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