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逹長と景直 〜洲本城陥落〜  作者: 熱田大
四国の決戦
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第25話 紀州の形見

(波の音)

「……お父上に、助けられましたな」

声が聞こえた。

懐かしい声だった。

だが、誰の声なのか、すぐには分からなかった。

身体が重い。

胸の奥が、鈍く痛む。

目を開けようとすると、眩しい光が差し込んできた。

揺れている。

天井が、ゆっくりと左右に動いている。

船か。

それも、かなり大きな船らしい。

「……奥井?」

ようやく声が出た。

「おお!」

すぐ近くで、男が身を乗り出した。

「逹長様! お気がつかれましたか!」

奥井だった。

菅家に長く仕える家老。

父の代から菅家を支え、戦のことも、船のことも、そして薬のことも知っている。

「……何を騒いでおる」

逹長が言うと、奥井は大きく息を吐いた。

「騒ぎもいたします。丸一日、意識が戻られなかったのですぞ」

「一日……?」

逹長は眉を寄せた。

何があった。

そうだ。

大坂攻めだ。

紀州勢とともに大坂城へ迫り、木津川を遡った。

羽柴方の船を破り、三段の守りを抜けた。

そして――

「……忍び」

逹長が呟いた。

川岸に、兵に追われる男がいた。

人足の姿をしていた。

手傷を負っていた。

川へ飛び込んだ。

自分が手を差し伸べた。

船へ引き上げた。

そこまで思い出したところで、逹長は自分の胸に目を落とした。

厚く巻かれた布。

その下に、じわりと広がる痛み。

「……撃たれたのか」

奥井が頷いた。

「左様にございます」

「胸を?」

「はい」

逹長は、しばらく自分の胸を見つめていた。

「……そうか」

妙に落ち着いた声だった。

奥井は、そんな逹長を見て苦笑した。

「まったく、命が幾つあっても足りませぬな」

「傷は?」

「幸い、浅うございます」

「浅い?」

逹長が顔を上げる。

「胸を撃たれたのであろう?」

「そのはずでした」

奥井は、逹長の枕元へ手を伸ばした。

そこには、一振りの刀が置かれていた。

「これにございます」

逹長は目を細めた。

父の形見の刀だった。

幼い頃から、父が腰に差していた刀。

父の死後、逹長が受け継ぎ、戦場へ出る時には必ず身につけていた。

だが――

その鞘が、大きく割れていた。

「……これは」

「鉄砲の玉が、鞘に当たったのでございます」

奥井は、割れた鞘をそっと持ち上げた。

「腰に差しておられた刀が、たまたま胸の前へ回っていたのでしょう」

「玉は鞘を砕き、刀身に当たって逸れました」

「それでも肉を裂きましたが、深くは入りませなんだ」

逹長は刀を見つめた。

割れた鞘。

傷のついた刀身。

父が、いつも持っていた刀。

「……父上が」

奥井は頷いた。

「はい」

そして、少し笑った。

「お父上が、守ってくださったのでしょうな」

逹長は何も言わなかった。

ただ、刀へ手を伸ばした。

指先が、割れた鞘に触れる。

「……そうか」

それだけを呟いた。

奥井は、さらに何かを取り出した。

「それと、もう一つ」

「何だ」

「これのおかげでもあります」

差し出されたのは、干しダコだった。

逹長は目を丸くした。

「……蛸?」

「左様」

奥井は得意げに頷いた。

「懐の干しダコも弾除けに一役買ったようです。」

奥井は笑った。

「父上の刀と、干しダコ」

「なかなか頼もしい組み合わせでございましょう」

逹長は、しばらく奥井を見つめていた。

そして――

「……奥井」

「はい」

「わしは、蛸に命を救われたのか」

「左様にございますな」

逹長は、声を出して笑おうとした。

だが、胸が痛んだ。

「痛っ……!」

「お静かに!」

奥井が慌てる。

「笑ってはなりませぬ!」

「お主が笑わせたのであろうが……」

二人の間に、ようやく穏やかな空気が戻った。

(船板の軋む音)

逹長は、ふと奥井の向こうを見た。

そこに、知らぬ男が横たわっていた。

腕に布を巻き、顔色はまだ悪い。

だが、目は開いている。

逹長は、その男を見つめた。

「……忍びか」

男が身を起こそうとした。

奥井が制する。

「動かぬほうがよい」

だが男は、痛みをこらえながら頭を下げた。

「菅逹長殿」

「……うむ」

「助けていただき、感謝しております」

男は、もう一度深く頭を下げた。

「根来陣内(ねごろじんない)と申します」

「根来……」

「紀州の者にございます」

逹長は、ようやくその顔を思い出した。

川岸。

血を流しながら逃げていた男。

自分が船へ引き上げた男。

「……よかった」

逹長は小さく笑った。

「生き残ったか」

陣内は、しばらく言葉を失った。

自分を助けたために、この男は胸を撃たれた。

丸一日、意識を失っていたという。

それなのに――

目を覚まして最初に、自分の命を喜んでいる。

「……かたじけのうございます」

陣内は、もう一度頭を下げた。

逹長は頷いた。

そして、突然、顔色を変えた。

「……待て」

奥井が振り向く。

「いかがなされました?」

「大坂攻めはどうなった!」

逹長は起き上がろうとした。

「紀州勢は!」

「城はどうなった!」

「木津川は!」

「逹長様!」

奥井が慌てて肩を押さえた。

「まずはお静かに!」

「答えよ!」

奥井は、ようやく真顔になった。

「……紀州勢は、撤退いたしました」

逹長の動きが止まった。

「……撤退?」

「はい」

奥井は静かに続けた。

「昨日の昼過ぎまでは、戦は膠着していたようにございます」

「紀州勢の鉄砲隊もよく持ちこたえておりましたが、夕刻に近づくにつれ、羽柴方の騎馬隊が勢いを増したとのこと」

「紀州勢は、徐々に押され始めました」

「そして、日が傾く頃には、大きく兵を退いたようでございます」

逹長は、天井を見上げた。

「……そうか」

「我ら水軍も、木津川から海へ戻りました」

「船の損害は?」

「大きなものはございませぬ」

「兵は?」

「多少の負傷者はおりますが、幸い、大きな損害には至っておりませぬ」

逹長は、ゆっくりと息を吐いた。

「……それは、よかった」

本当に、よかったと思った。

兵を失わずに済んだ。

船も残った。

自分も、こうして生きている。

だが――

大坂城には届かなかった。

紀州勢も退いた。

せっかく木津川の三段の守りを破ったというのに、戦の流れを変えることはできなかった。

「……惜しかったな」

逹長が呟いた。

奥井は、何も言わなかった。

逹長は、しばらく天井を見つめていた。

そして、枕元の刀へ目を向けた。

父の形見。

割れた鞘。

「……生きておるだけ、よしとせねばな」

奥井が頷いた。

「左様にございます」

逹長は、目を閉じた。

「少し……休む」

「はい」

「起こすなよ」

「承知いたしました」

逹長は、再び眠りに落ちた。

(波の音)

奥井は、しばらくその寝顔を見つめていた。

そして、割れた鞘を静かに傍らへ置いた。

「……まだ、お父上に守られておられますな」

小さく呟いた。


岸和田合戦に始まった、紀州勢と四国水軍による大坂への侵攻。

その戦いは、ここで大きな転機を迎えた。

紀州勢は兵を退き、四国水軍も海へ戻った。

大坂城を脅かすほどの再侵攻は、もはや難しかった。

秀吉は大坂の危機を退けると、再び小牧・長久手の戦へ力を注いだ。

兵を送り、戦を続けた。

そして、およそ半年後。

羽柴秀吉と徳川家康の戦は、和睦へと向かっていった。

だが――

秀吉の戦は、終わらなかった。

むしろ、ここから新たな段階へ入ることになる。


(波の音)

天正十三年(一五八五年)春。

大坂湾。

前年の戦から、およそ一年が過ぎていた。

羽柴秀吉は、十万ともいわれる大軍をもって紀州へ攻め込んでいた。

前年、大坂を脅かした紀州勢。

雑賀衆。

根来衆。

そして、紀州の諸勢力。

秀吉は、そのすべてを押さえ込もうとしていた。

大坂湾には、毛利の船団が浮かんでいた。

秀吉の紀州攻めに加わった水軍である。

その総大将は――

小早川隆景。

毛利元就の三男にして、毛利家を支える智将だった。

(波の音)

隆景は、船上から紀州の方角を見つめていた。

「……十万か」

側近が頷く。

「秀吉殿は、早期に紀州を平定するおつもりのようです」

「うむ」

隆景は静かに答えた。

「それだけの兵を集めれば、紀州も長くは持つまい」

「左様にございますな」

「だが、紀州が終われば――」

隆景は、南の海を見た。

「次は、四国であろうな」

その時だった。

「小早川様!」

見張りの兵が声を上げた。

「小舟が近づいてまいります!」

隆景が振り向く。

「小舟?」

「漁船のようにございます」

「漁船が、なぜここへ?」

兵たちが警戒する。

一艘の小さな漁船が、毛利の大船へ近づいていた。

漁船には、数人の男が乗っている。

一人が、立ち上がった。

そして、大きな声を上げた。

「そちらの御大将は!」

「小早川様ではござりませぬか!」

隆景が眉を上げた。

漁船の男は、さらに声を張った。

「淡路のサワラが獲れましたので!」

「お召しになってくだせぇ!」

兵たちが顔を見合わせた。

「……何者だ?」

「漁師でしょうか」

「このようなところまで……」

だが、隆景だけは違った。

その声を聞いた瞬間、口元が緩んだ。

「……まさか」

漁船の男が、こちらを見上げている。

日に焼けた顔。

海風に乱れた髪。

そして、どこか人を食ったような笑み。

隆景は、思わず笑った。

「……逹長か!」

漁船の男が、大きく手を振った。

「おお!」

「小早川様!」

「ご無沙汰しておりまする!」

隆景は、声を上げて笑った。

「何をしておる!」

「そのような格好で!」

「魚を売りに参りました!」

「馬鹿を申せ!」

毛利の兵たちも、ようやく気づき始めた。

「菅逹長殿……?」

「淡路の菅殿か!」

「おお、あの菅殿!」

毛利家において、菅逹長の名を知らぬ者は少なかった。

かつて淡路で毛利と深く結び、岩屋城を預かり、瀬戸内の戦に加わった男。

今では長宗我部のもとで四国水軍を率いているが、毛利との親交は変わっていなかった。

隆景は笑いながら命じた。

「船を寄せよ!」

「逹長を上げてやれ!」

「サワラも忘れるな!」

(兵たちの笑い声)

毛利の大船。

逹長は、久しぶりに隆景と向かい合っていた。

「いや、相変わらずですな」

隆景が笑う。

「何がです?」

「お主のことだ」

「天下がどう動こうと、漁師のような格好で現れる」

逹長も笑った。

「漁師の真似ではございませぬ」

「今日は本当に魚を持ってまいりました」

「それは結構」

隆景は頷いた。

「では、ありがたくいただこう」

二人は笑った。

だが、しばらくすると、話は自然と戦のことへ移っていった。

「……紀州は、どうなりそうですか」

逹長が尋ねた。

隆景は、海の向こうを見た。

「秀吉殿は、本気だ」

「十万ともいわれる兵を集め、紀州を一気に押さえるつもりでおる」

「長く戦うつもりはないのでしょうな」

「うむ」

隆景は頷いた。

「早く終わらせ、次へ進むためだ」

逹長は、少し黙った。

その傍らには、根来陣内が座っていた。

前年、大坂城近くで逹長に助けられた忍びだった。

銃創はようやく癒えたものの、まだ本調子ではない。

陣内は、紀州の方角を見つめていた。

「……仲間が、おります」

静かな声だった。

隆景が振り向く。

「紀州の者か」

「はい」

「根来の者にございます」

陣内は、膝の上で拳を握った。

「今も、あちらで戦っている者がおります」

「助けに行きたい」

「ですが……」

言葉が途切れた。

逹長が、陣内を見る。

陣内は苦しげに続けた。

「たとえ今、戻ったところで……」

「わし一人に、何ができましょう」

「十万の軍勢を前に、何ができましょうか」

隆景は、しばらく黙っていた。

逹長も、すぐには答えなかった。

海の向こう。

紀州では、戦が続いている。

前年、大坂を攻めた者たちが、今度は自らの土地を守るために戦っている。

逹長は、ゆっくりと口を開いた。

「……陣内」

「はい」

「生きておれ」

陣内が顔を上げる。

「生きておれば、また何かできる」

「今は、それだけでもよい」

陣内は、深く頭を下げた。

「……はい」

隆景は、そのやり取りを静かに見ていた。

そして、逹長へ向き直った。

「逹長」

「はい」

「お主にも、言っておきたいことがある」

逹長は隆景を見る。

「何でしょう」

隆景は、少し声を落とした。

「……秀吉殿に降れ」

逹長は、すぐには答えなかった。

「……」

隆景は続けた。

「毛利も、すでに秀吉殿と手を結んでおる」

「紀州も、このままでは持つまい」

「そして、その次は四国だ」

逹長は、黙って聞いていた。

「長宗我部がどれほど強かろうと、秀吉殿の大軍を相手にするのは容易ではない」

「お主も、それは分かっておろう」

「……はい」

「ならば、早いうちに道を選べ」

隆景は、少し笑った。

「わしが間に入ってもよい」

「秀吉殿へ、お主のことを話してやる」

「お主ほど海を知る男がいれば、秀吉殿も助かるであろう」

逹長は、しばらく隆景を見つめていた。

「……ありがたいお話にございます」

「うむ」

「ですが――」

逹長は、海の向こうを見た。

「少し、考えさせてくだされ」

隆景は頷いた。

「よい」

「今すぐ答えを出せとは言わぬ」

「ただ、あまり時はないぞ」

逹長は、静かに頭を下げた。

「承知しております」

(波の音)

やがて、逹長たちは漁船へ戻った。

「では、小早川様!」

「サワラ、旨う召し上がってくだされ!」

隆景が笑う。

「分かった、分かった!」

「次は、もう少しまともな格好で来い!」

「それは、考えておきまする!」

兵たちの笑い声が、海に広がった。

漁船は、ゆっくりと毛利の大船から離れていく。

隆景は、その姿を見送っていた。

そして、小さく呟いた。

「……逹長」

「お主は、どうするつもりだ」

(波の音)

漁船の上。

逹長は、紀州の方角を見つめていた。

陣内が、隣に座る。

「……菅様」

「何だ」

「小早川様のお話、いかがなさるおつもりですか」

逹長は、すぐには答えなかった。

紀州攻め。

十万の軍勢。

そして、その次に来るであろう四国攻め。

長宗我部元親。

香宗我部親泰。

四国の国衆たち。

そして、自らが育てた四国水軍。

そのすべてが、これから大きな戦に巻き込まれていく。

「……陣内」

「はい」

「四国は、どうなると思う」

陣内は、少し考えた。

「……分かりませぬ」

「そうか」

「ですが、秀吉の大軍が来れば、苦しい戦になることだけは……」

逹長は頷いた。

「うむ」

しばらく、二人は黙っていた。

海は静かだった。

だが、逹長には分かっていた。

この静けさは、長くは続かない。

「……四国攻めは、そう遠くないな」

陣内が頷く。

「はい」

逹長は、海の向こうを見た。

何ができる。

勝ち目はあるのか。

そもそも、戦うべきなのか。

それとも――

別の道を探すべきなのか。

逹長は、静かに息を吐いた。

「……潮目が変わるな」

その言葉に、陣内は何も答えなかった。

漁船は、ゆっくりと海を進んでいく。

その先にあるのは、淡路か。

四国か。

それとも――

まだ誰も知らぬ、新たな戦場か。

逹長の目は、すでに次の戦いへ向いていた。

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