第24話 大坂城の裏門
(川の流れる音)
天正十二年三月二十六日。
大坂・木津川。
羽柴方が設けた三段の水上防衛線は、すでに突破されていた。
その防衛線を抜けた四国水軍のうち、十艘ほどがさらに川を遡っていた。
目指すは、大坂城。
川を進む船団の先頭には、菅逹長の姿があった。
「……見えてきたな」
遠くに、大坂城が見える。
普請の途中とはいえ、その威容はすでに相当なものだった。
「城まで、あと一里もありませぬな」
側近が言う。
「いや、もう少し近い」
逹長は目を細めた。
「一町、二町と詰めていけば、向こうも黙ってはおるまい」
船団は、大坂城からおよそ一キロほどのところまで迫っていた。
だが、逹長はそれ以上の前進を命じなかった。
「ここで構えるぞ」
「上陸はなさらぬので?」
「十艘ほどで大坂城を攻めるつもりか?」
逹長が笑う。
「それこそ、秀吉殿に笑われるわ」
側近も苦笑した。
「では、紀州勢を待ちますか」
「うむ」
逹長は城の方角を見た。
「紀州勢がどこまで進んでおるか。それによっては、こちらも動く」
「我らがここにおるだけでも、城の守りは割かれる」
「城から目を離さず、紀州勢の動きも見ておけ」
「はっ」
四国水軍は川面に船を浮かべたまま、静かに構えた。
(遠くで鉄砲の音)
紀州勢の鉄砲が、断続的に響いている。
だが、その音とは別に――
ほどなく、近くから銃声が聞こえ始めた。
(鉄砲、一発)
逹長が振り向く。
「……む?」
(さらに一発)
「近いな」
側近が川岸を見る。
「我らを狙っておりますか?」
「そのつもりかもしれぬ」
逹長は船の盾に身を寄せた。
「姿が見えぬうちは、こちらも撃つな」
「はっ」
(鉄砲)
また一発。
音は近い。
だが、弾が船に当たる様子はない。
「……妙だな」
逹長は呟いた。
「我らを撃つには、少々狙いが定まらぬ」
「城からの威嚇でしょうか」
「さあな」
逹長は盾の陰から、川岸を見つめた。
(遠くで鉄砲の音)
同じ頃。
大坂城。
船越景直は、城の守りについていた。
紀州勢の進軍は、思うように進んでいない。
羽柴方の騎馬隊が左右から揺さぶりをかけ、紀州勢も鉄砲を構えて応じている。
戦は続いていた。
だが、城内の弓隊と鉄砲隊には、まだ出番がなかった。
景直は城外を見渡していた。
その時だった。
「……船?」
木津川の方角。
川面に、幾つもの船影が見えた。
景直は目を凝らした。
十艘ほど。
船には、見覚えのある旗が立っている。
「……梅鉢?」
景直の表情が変わった。
「まさか……」
側近が駆け寄る。
「いかがなされました?」
「木津川だ」
景直が指を差す。
「敵の水軍が、あそこまで上がってきておる」
側近が驚く。
「何と!」
「川には三段の守りを置いたはずでは?」
「……わしも、それを考えておる」
景直は川を見つめた。
防衛線はどうした。
破られたのか。
それとも、敵が別の水路を通ったのか。
だが、考えている時間はなかった。
このまま船団が上陸すれば、城の守りはさらに厄介になる。
城内で迎え撃つか。
それとも――
上陸する前に、こちらから出るか。
景直は振り向いた。
「弓隊、鉄砲隊から、足の速い者を選べ」
「二十名ほどだ」
「はっ」
「盾持ちも連れてこい」
側近が少し驚いた。
「盾持ちも、ですか?」
「うむ」
「使うつもりはなかったが、川岸まで出るなら必要だ」
景直は、もう一度城外を見る。
先ほど忍びを追わせた兵たちも、まだ戻っていない。
紀州勢の進軍も遅い。
今なら、こちらが動ける。
「わしが出る」
「殿自ら?」
「船が上陸する前に、様子を見ておきたい」
景直は弓を手に取った。
「行くぞ」
(駆ける足音)
城門を出た一行は、木津川へ向かった。
大坂城から川岸までは、相応の距離がある。
景直は兵を急がせた。
やがて、川面が見える平地へ出る。
遠くに船団が見えた。
「……あれか」
景直は足を止めた。
十艘ほど。
船には梅鉢の旗が見える。
「菅の旗……」
景直は小さく呟いた。
その時だった。
(鉄砲)
近くで銃声が響いた。
景直が振り向く。
「何事だ!」
前方の木立の陰。
数人の兵が鉄砲を構えていた。
先ほど、城内から逃げた忍びを追っていた者たちだった。
「景直様!」
兵の一人が駆け寄る。
「曲者を追っておりました!」
「どこだ!」
「あちらの木陰に!」
景直が目を凝らす。
木の陰に、人影が見えた。
人足のような身なり。
片腕を押さえている。
その袖は、赤く染まっていた。
「手傷を負っておるのか」
「はい!」
「先ほど撃ちましたが、まだ逃げようとしております!」
景直は眉を寄せた。
「捕らえられぬのか」
「近づけば、すぐに身を隠します」
「足も速く、なかなか……」
景直は川岸を見た。
忍びは、川の方角へ逃げようとしている。
その先には――
四国水軍。
「……なるほどな」
景直は兵たちへ指示した。
「囲め」
「川へ逃がすな」
「はっ!」
兵たちが動き始めた。
(川の流れる音)
四国水軍。
逹長は、ようやく川岸の様子を捉えていた。
「……なるほど」
側近が尋ねる。
「何か見えましたか?」
「兵が出てきておる」
逹長は川岸を指した。
「鉄砲隊だな」
「弓兵もおる」
「我らを迎えに来たらしい」
側近が盾を構える。
「撃ちますか?」
「いや、待て」
逹長の目が、少し手前の木立に止まった。
「……あれは何だ?」
川岸に、人足のような身なりの者がいた。
兵たちに追われている。
片腕を押さえ、時折よろめきながらも、川へ向かっていた。
「内輪揉めでしょうか」
側近が言う。
「いや……」
逹長は少し考えた。
「紀州の忍びかもしれぬな」
「忍び?」
「うむ」
「大坂城へ入り込んで、見つかったのであろう」
「ならば、助けますか?」
逹長は頷いた。
「船を寄せよ」
「しかし、敵の鉄砲隊がおります!」
「分かっておる」
逹長は盾の陰から身を乗り出した。
「少しでよい」
「岸へ寄せよ」
船が、ゆっくりと岸へ近づく。
逹長は立ち上がった。
そして――
大きく息を吸った。
「我こそは!」
川岸に声が響く。
「四国水軍の長!」
「菅逹長なり!」
(風の音)
敵に名乗りを上げたような声だった。
川岸の羽柴方の兵たちが、一瞬動きを止める。
だが、その声に最も早く反応したのは――
木陰の人足だった。
人足が顔を上げる。
川を見る。
梅鉢の旗。
そして、船上に立つ逹長。
人足は一瞬、何かを確かめるように目を細めた。
そして――
兵たちの隙を見て、川へ飛び込んだ。
(水音)
「飛び込んだぞ!」
羽柴方の兵が叫ぶ。
「追え!」
だが、人足は水中へ身を沈めた。
やがて、少し離れた水面に顔を出す。
血が、川面に漂っていた。
「……手傷は本物か」
逹長は呟いた。
人足は片腕を使わず、静かに水を掻いている。
大きな水音も立てない。
傷を負っているにもかかわらず、その泳ぎには無駄がなかった。
「なかなかの手練れだな」
逹長は船べりへ近づいた。
「もう少し寄せよ!」
「はっ!」
船が川岸へ寄る。
人足が近づいてくる。
逹長は、自ら手を差し出した。
「掴まれ!」
人足が、その手を掴む。
逹長は力を込めて引き上げた。
(船板の軋む音)
人足が、船上へ倒れ込む。
「大丈夫か!」
逹長が声を掛ける。
人足は荒い息をついていた。
「……かたじけない」
「紀州の手の者か?」
逹長が尋ねる。
人足は頷いた。
「……いかにも」
そして、苦しげに笑った。
「助かり申した……」
逹長も笑った。
「よくぞ逃げ延びた」
その時だった。
(遠くで鉄砲の音)
川岸。
船越景直は、兵たちを前へ進ませていた。
「川へ逃がすな!」
だが、すでに遅かった。
人足は川へ飛び込み、四国水軍の船へ向かっていた。
「……逃げられたか」
景直は、船団へ目を向けた。
梅鉢の旗。
船首に立つ男。
先ほど、何か大声で名乗っていたようだった。
だが、景直は兵への指示に気を取られ、その言葉を聞き取っていなかった。
そして今――
その男が、人足へ手を差し伸べている。
景直は目を凝らした。
「……」
見覚えのある姿だった。
肩の形。
立ち方。
人へ手を差し伸べる、その動き。
「……まさか」
景直の足が止まった。
船上の男が、人足を引き上げる。
その横顔が見えた。
「……逹長?」
景直は、息を呑んだ。
二年前。
洲本城を巡る戦の後。
別々の道を歩み始めた、あの男。
菅逹長。
幼い頃から知る、弟分のような男。
その姿が、今――
敵の船にある。
景直は、一度目を閉じた。
撃つのか。
あの男を。
わしが。
逹長と、撃ち合うのか。
頭の中で、何度も問いが繰り返された。
今は戦だ。
敵だ。
分かっておる。
だが――
本当に、あの男へ鉄砲を向けるのか。
(短い沈黙)
景直は、目を開けようとした。
その時だった。
(鉄砲、一発)
「……!」
景直の目が開いた。
味方の銃声だった。
誰かが撃った。
景直の命令ではない。
(鉄砲、二発)
さらに二発。
(鉄砲、三発)
銃声が続く。
「待て!」
景直が叫んだ。
「撃つな!」
だが――
その声は、間に合わなかった。
船上。
逹長が、人足を引き上げた直後だった。
(銃声)
逹長の身体が、大きく揺れた。
胸を撃たれた。
そのまま――
後ろへ倒れ込む。
(無音)
景直は、動かなかった。
目の前で。
逹長が倒れた。
ただ、それだけだった。
世界から、音が消えた。
川の音も。
鉄砲の音も。
兵たちの声も。
何も聞こえない。
景直は、船を見つめていた。
あれは――
本当に逹長だったのか。
見間違いではないのか。
似た男ではないのか。
いや。
あれは、逹長だ。
だが。
本当に――
今のは、逹長だったのか。
同じ問いが、頭の中で繰り返される。
景直は、自分がどこに立っているのかさえ分からなくなっていた。
何をしていたのか。
何を命じたのか。
これから何をすべきなのか。
何も考えられない。
「景直様!」
声がした。
遠くから。
「景直様!」
誰かが呼んでいる。
「いかがいたしますか!」
景直は答えなかった。
ただ、川を見ていた。
(船板を踏む足音)
四国水軍。
「逹長様!」
「逹長様!」
船上に叫び声が響いた。
逹長は倒れたまま、動かない。
「胸を撃たれたぞ!」
「盾を!」
「早く隠せ!」
兵たちが逹長の周囲へ集まる。
誰かが身体を抱き起こそうとする。
「動かすな!」
別の兵が叫んだ。
「まず、船を退けよ!」
(櫂の音)
船が大きく向きを変える。
川下へ。
来た道を戻る。
「後退だ!」
「全船、下がれ!」
他の船も、それに続いた。
船上には、先ほど助けた紀州の忍びもいた。
片腕から血を流しながら、倒れた逹長を見つめている。
「……わしを、助けたばかりに……」
誰にも聞こえぬほど、小さな声だった。
「逹長様!」
側近が呼び掛ける。
返事はない。
「しっかりなされませ!」
逹長の顔から、血の気が失われていた。
「奥井様のもとへ!」
誰かが叫んだ。
「奥井様なら、医の心得がある!」
「海まで戻せ!」
「奥井様の船へ急げ!」
(櫂を漕ぐ音)
四国水軍は、川を下っていった。
川岸。
景直は、まだ動けずにいた。
船団が遠ざかっていく。
梅鉢の旗が、小さくなっていく。
「景直様!」
側近が、もう一度呼び掛けた。
「敵船が退いております!」
「追撃いたしますか!」
景直は、ゆっくりと顔を上げた。
川面には、もう逹長の姿は見えなかった。
ただ、船団が下流へ遠ざかっていく。
「……」
景直は口を開いた。
だが、言葉が出なかった。
しばらくして――
ようやく声が出た。
「……よくやった」
兵たちが顔を見合わせる。
「敵を退けた」
景直は、誰に言うでもなく呟いた。
そして、兵たちへ向き直る。
「城へ戻るぞ」
「はっ!」
兵たちが動き始める。
景直は、最後にもう一度だけ川を見た。
あれは、逹長だったのか。
答えは、もう分かっている。
だが――
その答えを、認めることができなかった。
(風の音)
景直は、ゆっくりと歩き始めた。
(川の流れる音)
木津川を下る船。
その船上では、兵たちが逹長を囲んでいた。
「逹長様!」
「お目を開けてくだされ!」
返事はない。
「血が出ている!」
「布を!」
「早く!」
紀州の忍びは、船の隅で腕を押さえていた。
血が、船板へ滴っている。
だが、その目は逹長から離れなかった。
自分を助けようとして――
この男は撃たれた。
それだけは、分かっていた。
「……どうか」
忍びは小さく呟いた。
「どうか、生きてくだされ……」
(櫂の音が速くなる)
「奥井様の船は、まだか!」
「もう少しです!」
「急げ!」
船は川を下る。
大坂城が、少しずつ遠ざかっていく。
その城の方角からは、なおも鉄砲の音が響いていた。
だが、船上の者たちには、もはや戦の行方など見えていなかった。
ただ一つ。
菅逹長を、生かすこと。
それだけだった。
(波の音)
「逹長様……」
側近が、もう一度呼び掛ける。
「どうか……」
返事はなかった。
四国水軍を率いてきた男は、目を閉じたまま動かない。
船は、奥井の待つ海へ向かっていた。




