第22話 大坂城戦前夜
天正十二年三月二十五日。
(大坂城普請の音)
普請途上の大坂城。
城内では、槌の音が絶え間なく響いていた。
石を運ぶ者。
材木を担ぐ者。
堀を掘る者。
まだ完成には遠い。
だが――
その城はすでに、容易には攻め落とせぬ姿を見せ始めていた。
(遠くで法螺貝)
その一室。
秀吉を中心に、評定が開かれていた。
黒田官兵衛。
生駒親正ら十人ほどの武将が並ぶ。
末席には船越景直も控えている。
秀吉が口を開いた。
「岸和田は、まだ落ちてはおらぬか」
官兵衛が答える。
「はい」
「紀州勢は城を囲んだままです」
「そして、そのうち一万五千ほどが北へ進み――」
「天王寺へ迫っております」
秀吉は地図を見る。
「大坂城へ向かっている」
「はい」
「こちらの兵は二万弱」
「小牧長久手へ主力を出しておりますゆえ」
秀吉は黙った。
「小牧からも援軍を求められておる」
「しかし――」
官兵衛が続ける。
「岸和田を放置するわけにもいきません」
「このまま両方に兵を置けば、どちらも中途半端になる」
秀吉が眉を寄せる。
「では、どうする?」
官兵衛は地図を広げた。
「引き離します」
「紀州勢を?」
「はい」
「岸和田から、できるだけ遠くへ」
官兵衛の指が北へ動く。
「大坂城を狙わせ…」
「城へ近づけば近づくほど、敵は攻めることに意識を向ける」
「そこで――」
官兵衛は左右から指を回した。
「騎馬隊を回します」
「鉄砲隊は、騎馬に弱い」
生駒が頷く。
「鉄砲を撃つには、構えて狙わねばならぬ」
「騎馬に左右から回り込まれれば、隊列を崩される」
「その隙に――」
「潰す」
秀吉が地図を見つめる。
「城を使いながら、崩すということか」
「はい」
「城へ向かわせる」
「こちらは城を盾にする」
「敵の勢いが止まったところへ騎馬を入れる」
官兵衛は淡々と説明する。
「鉄砲隊を、鉄砲の使いにくい距離まで引き込む」
「そこから一気に崩します」
秀吉がしばらく考える。
そして――
「よし」
「それでいこう」
部屋の空気が張り詰めた。
「二日だ」
秀吉が言った。
「二日のうちに決着をつけたい」
官兵衛が頷く。
「承知しました」
「ここで紀州勢を叩いておけば――」
「岸和田へ回す兵も不要になる」
「そして、小牧へ援軍を送れる」
「その通りです」
秀吉は地図の上に手を置いた。
「ならば、岸和田も動かす」
景直が顔を上げる。
官兵衛が続ける。
「隠密を使いましょう」
「岸和田城へ、こちらが挟撃を考えていると伝える」
「内から兵を出せれば、紀州勢を挟めます」
秀吉が頷く。
「やれるか?」
「試みます」
官兵衛は答えた。
「ただし――」
「包囲されている城です」
「簡単には動けぬと思っていただきたい」
「伝わればよい」
秀吉はそう言った。
「動ければ儲けもの」
「動けなくても、こちらの策は変わらぬ」
景直は黙って聞いていた。
――隠密。
その言葉を聞いた瞬間。
景直の脳裏に、紀州の兵が浮かんだ。
雑賀衆。
鉄砲。
そして――
忍び。
「……」
紀州勢のほうこそ、そういう術を得意としている。
もし敵もこちらへ忍びを入れていたなら――
すでに大坂城の中にも、何者かが紛れ込んでいるのではないか。
そんな考えが、ふと頭をよぎった。
「景直」
「はっ」
秀吉の声で我に返る。
「何か思うところがあるか?」
「いえ……」
景直は一瞬迷い、
「紀州の忍びのことを考えておりました」
官兵衛が見る。
「忍びか…」
「はい」
「紀州勢は、鉄砲だけではありません」
「忍びも使うと聞いております」
官兵衛は静かに頷いた。
「その通りです」
秀吉が苦笑する。
「厄介な連中だな」
「だからこそ――」
官兵衛は地図から目を離さなかった。
「こちらも、使えるものはすべて使う」
(短い間)
秀吉が話題を変える。
「ところで――」
「海はどうだ?」
室内の空気が、わずかに変わった。
官兵衛が答える。
「四国水軍が動いております」
「指揮は?」
一瞬の間。
「菅逹長です」
秀吉の表情が止まった。
「……逹長か」
景直は、その横顔を見た。
複雑な表情。
怒りとも。
警戒とも。
そして――
どこか面白がっているようにも見える。
秀吉は小さく息を吐いた。
「また、あの男か」
官兵衛は地図を見る。
「水軍は大坂城へ直接攻め込むことは難しいでしょう」
「ですが――」
指が木津川へ向かう。
「木津川を上がってくる可能性があります」
「城の背後へ回られれば厄介です」
「ならば、どうする?」
「河川に三段構えで守りを置きます」
官兵衛が指を三か所に置く。
「第一陣」
「第二陣」
「第三陣」
「船を分けて配置し、水軍を一気に上げさせない」
「どこか一つが破られても、次で止める」
秀吉が頷く。
「よし」
「水軍が見えたら知らせよ」
「そして――」
官兵衛が少し笑う。
「紀州勢が崩れた時は、勝鬨を上げさせます」
「勝鬨?」
「はい」
「紀州勢を撃てば、四国水軍も引くはずです」
「その時――」
官兵衛は景直を見る。
「勝鬨を連呼させる」
「海まで届くように」
景直が頷く。
「承知しました」
秀吉が景直を見る。
「お主は城内だ」
「弓隊と鉄砲隊を率いよ」
「敵が城へ迫れば、近づけさせるな」
「はっ」
「無理に出る必要はない」
「城を使え」
「敵が疲れたところを撃て」
景直は頭を下げた。
「承知いたしました」
(遠くで槌の音)
秀吉は、完成途上の大坂城を見渡した。
まだ工事の途中。
石垣も。
堀も。
城郭も。
すべてが完成したわけではない。
それでも――
「ここまで来たか」
秀吉が呟く。
大坂城。
その目の前まで、
敵が迫っている。
「紀州勢一万五千」
「四国水軍」
「そして――」
秀吉の目が鋭くなる。
「逹長」
(風の音)
景直は秀吉の横顔を見ていた。
二年前。
洲本城を落とした男。
そして今――
その男が、
大坂城のすぐ近くまで来ている。
「……」
景直は、胸の内で呟いた。
逹長…
今度はいったい、
何を見ておるのか。
(法螺貝)
城外から兵の声が聞こえる。
「敵、天王寺へ!」
評定の者たちが一斉に立ち上がった。
秀吉も立つ。
「来たか」
官兵衛が地図を畳む。
「参りましょう」
秀吉が頷いた。
「うむ」
景直も立ち上がる。
弓隊。
鉄砲隊。
そして――
大坂城。
(太鼓)
城外では、紀州勢の軍勢が動き始めていた。
その背後には、
四国水軍。
海から迫る逹長。
陸から迫る紀州勢。
迎え撃つ秀吉。
三つ巴の戦が――
いよいよ始まろうとしていた。




