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逹長と景直 〜洲本城陥落〜  作者: 熱田大
洲本城陥落
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16/30

第16話 逹長再び

(波の音。遠くで法螺貝)


天正十一年、仙石秀久が引田城を落とした二日前のこと。



阿波国、木津城。


城を取り囲む長宗我部軍の陣中では、戦支度が続いていた。


木津城に立て籠もるのは、三好氏の残党、篠原自遁(しのはらじとん)。


すでに城の海側は、ほぼ制圧されている。


その役目を担ったのが――


菅逹長であった。


長宗我部家は、陸の兵こそ強かった。


だが、水軍となれば話は別だった。


そこで、与力として長宗我部に加わっていた逹長に、土佐水軍の指揮も任せられていた。


(陣幕をくぐる音)


「逹長殿」


「親泰様」


長宗我部元親の弟、香宗我部親泰。


二人は陣幕の中で向かい合った。


「木津の海側は、ほぼ抑えたと聞いている」


「はい」


逹長は地図に目を落とした。


「城は、もう時間の問題でしょう」


「篠原も、ここまでよく持たせたものだ」


「ですが、逃げ道はほぼ塞いでおります」


逹長が地図の海側を指でなぞる。


「阿波の制海権は、こちらにあります」


「それが大きい」


親泰は頷いた。


「これで土佐から兵を送り込むことも容易になった」


「ええ」


逹長は淡々と答えた。


「海を押さえれば、阿波はさらに崩れます」


「そして――」


親泰が別の場所を指した。


「讃岐だ」


逹長は顔を上げた。


「仙石秀久」


「そうだ」


親泰が言う。


「二千ほどの兵を率いて、喜岡城を攻めたとのことだ」


「もう讃岐へ入ったか」


「先日、香西浦にも兵を出したらしい」


逹長は少し考えた。


「秀吉は、賤ヶ岳に兵を集めている」


「だからこそ、こちらも動かねばならぬ」


親泰が言った。


「秀吉が畿内に釘付けになっている今、四国を放置することはできぬ」


逹長は頷いた。


「仙石秀久は、牽制でしょう」


「そうだ」


「ですが――」


逹長は、地図の讃岐を見た。


「二千ならば、十分に相手になります」


親泰が笑う。


「戦うか?」


「まだです」


逹長は即答した。


「若い猪武者は、追えば追うほど前へ出る」


「ほう」


「ならば、こちらから無理に追う必要はありません」


逹長は地図を指で叩いた。


「二つ引いて、一つ返す」


「こちらが下がれば、向こうは進む」


「進ませれば、兵は伸びる」


「伸びれば――」


逹長が顔を上げた。


「叩けます」


親泰は黙って逹長を見た。


「秀久は、若い」


「戦に出れば、勝ちたくなる」


「一度勝てば、もう一度勝ちたくなる」


逹長は笑った。


「そのうち、自分から深みに入ってくるでしょう」


そして――


「その時に、潰せばよい」


(沈黙)


親泰は、ゆっくり頷いた。


「分かった」


逹長は筆を取った。


「では、長宗我部様に書面を」


「何と?」


「こう書いていただきたい」


逹長は、ゆっくりと言った。


「仙石秀久は若き猪武者なれば、二つ引いて一つ返すうちに、無理なく殲滅できる、と」


親泰が笑った。


「ずいぶん強気だな」


「兵を無駄に減らす必要はありません」


逹長は筆を置いた。


「秀久がこちらへ出てきたら、私はその退路へ水軍を回します」


「退路を断つか」


「はい」


逹長の目が鋭くなる。


「できれば、一人も逃がさぬつもりで」


親泰は、しばらく逹長を見た。


「その先は?」


「その先?」


「もし仙石の兵を潰せたなら」


逹長は、地図の海を見た。


そして――


淡路へ目を移した。


「……志知城」


親泰が眉を上げる。


「淡路か」


「ええ」


「取れると思うか?」


「分かりません」


逹長は答えた。


「ですが、仙石軍が崩れれば、淡路の守りにも隙が生まれる」


「長宗我部様の兵を、淡路へ回すこともできる」


「あるいは――」


逹長は親泰を見る。


「志知城を、こちらの手に入れることもできるかもしれません」


親泰は黙った。


「ならば、準備しておこう」


「お願いします」


逹長は立ち上がった。


「私は水軍を動かします」


(陣中のざわめき)


その日のうちに、土佐水軍へ命が下った。


船を整えよ。


兵を乗せよ。


武具を積め。


そして――


潮を待て。


(波の音)


逹長は海を見ていた。


仙石秀久が、いつ動くか。


そして、いつ長宗我部軍に追われるか。


それは、そう遠くない。


ならば――


こちらは潮に乗る。


阿波の港から鳴門を抜けるには、潮を読む必要がある。


満潮は、一日に二度。


朝。


そして夕方。


逹長は空を見上げた。


「夕刻だ」


「はっ」


「今から出る」


(船を動かす音)


夕焼けの海。


逹長の船団が、阿波を離れた。


二十艘ほどの船が、赤く染まった海を進んでいく。


目指すは鳴門。


(波が激しくなる)


やがて、海面が大きく渦を巻き始めた。


鳴門の潮。


巨大な渦潮が、船団の脇で白く泡立っている。


土佐の兵たちが、緊張した顔で海を見ていた。


逹長は、それを見て笑った。


「おい!」


「はっ!」


「渦に巻き込まれるなよ!」


「……」


「土佐の兵は、渦に負けるほど弱くはあるまい?」


兵たちから、苦笑が漏れる。


逹長は笑った。


「船を立てろ!」


「潮を読むぞ!」


船団は、渦の間を縫うように進んだ。


そして――


鳴門を抜ける。


(波が穏やかになる)


夕日は、すでに海の向こうへ沈みかけていた。


その先。


遠くに、引田城が見えた。


城の周囲に、いくつもの火。


兵の動き。


攻防の気配。


逹長は目を細めた。


「始まったか」


「引田城でしょうか?」


「ああ」


逹長は、船団を陸へ寄せた。


「今日はここで休む」


船を寄せ、兵を休ませる。


逹長自身も、海を眺めながら夜を待った。


今なら、引田の背後を突くこともできる。


だが――


逹長は動かなかった。


長宗我部の一領具足。


彼らの強さを知っている。


数だけではない。


戦に慣れている。


土地を知っている。


そして、強い。


仙石軍を追っている長宗我部軍を、今ここで背後から挟撃する必要はない。


「待つ」


逹長は言った。


「仙石が敗れるのを」


「敗走する時を待つ」


(夜の海)


夜が深くなる。


やがて――


新月の夜が、終わろうとしていた。


東の空が、ほんの少し白み始める。


「……船影!」


見張りの兵が叫んだ。


逹長が立ち上がる。


「どこだ」


「沖です!」


目を凝らす。


黒い海。


その上に、いくつもの船。


船団が、こちらへ向かってくる。


「仙石軍です!」


逹長は笑った。


「来たか」


兵たちに命じる。


「松明を焚け」


「はっ!」


「幟を立てろ」


船団の各所に、次々と火が灯る。


そして――


梅鉢の旗が、朝焼けの海に立ち上がった。


(松明が一斉に灯る)


敗走する仙石軍の船から、その光が見えた。


「何だ……?」


「前方に船団!」


「敵か!」


仙石秀久が顔を上げる。


その目に映ったのは――


二十艘ほどの船。


そして、梅鉢。


「……まさか」


船団の先頭。


鉾を手にした男が立っている。


風に髪をなびかせながら、こちらを見ている。


菅逹長。


逹長は笑った。


「これは――」


声が海上に響く。


「仙石秀久殿とお見受けした!」


仙石は答えない。


「お疲れのところ悪いが――」


逹長は鉾を掲げた。


「お命、頂戴いたすぞ!」


(兵たちの鬨の声)


仙石の顔から血の気が引いた。


「……逹長……」


誰かが呟いた。


仙石は、ふらりと立ち上がった。


目の前にいるのは敵。


そして――


その後ろには、淡路。


「……いや」


仙石は首を振った。


「まだだ」


兵たちを見る。


「志知城は、もう目の前だ!」


声を張り上げる。


「漕げ!」


「漕げ!」


「志知まで行けば、城がある!」


兵たちは必死に櫓を漕いだ。


だが――


逹長の船団が迫ってくる。


(船の激しい接近音)


「秀久殿!」


逹長が笑った。


船首から身を乗り出す。


「また、ひと勝負いかがか?」


鉾の柄で、仙石の船首を叩く。


ガンッ!


「どうした!」


ガンッ!


「あのときの威勢は、どこへ行かれた!」


仙石は答えない。


答える余裕もなかった。


ただ、前を見ている。


志知城。


そこへ辿り着く。


それだけを考えていた。


「放て!」


(弓弦を引く音)


一斉に矢が放たれる。


ヒュッ――


ヒュッ――


雨のような矢が仙石軍へ降り注いだ。


「うわっ!」


「負傷者!」


「船を寄せろ!」


「漕げ!」


次々と兵が倒れていく。


船の上に、沈黙が広がっていく。


逹長は前を見た。


「このまま――」


そして叫ぶ。


「志知城まで追い立てる!」


(緊張が極限まで高まる)


その瞬間だった。


東の空が明るくなった。


夜明けの霧が、少しずつ晴れていく。


そして――


逹長は、前方を見た。


「……何だ?」


海の奥。


入江の向こう。


何かが浮かび上がってくる。


城。


志知城。


しかし――


逹長の目が、次第に大きくなる。


「……」


志知城の両側。


まるで翼を広げるように伸びた城郭。


その左手に――


一つ。


松明が灯った。


(松明)


続いて――


その隣。


また一つ。


(松明)


さらに一つ。


右手でも――


一つ。


そして――


一つ。


次々と松明が灯っていく。


志知城の両翼が、朝の闇の中から浮かび上がってくる。


仙石も、目を見開いた。


「……何だ、あれは」


逹長は答えない。


ただ、凝視していた。


(静寂)


やがて――


左手の櫓から声が響いた。


「菅逹長殿とお見受けした!」


逹長の眉が動く。


「……」


「志知を攻めるとあらば――」


声が、海上を渡る。


「お相手いたすぞ!」


逹長の目が細くなった。


その声。


聞き覚えがある。


かつての志知城主。


淡路の国衆として何度となく共に戦った男。


志知城を追われて秀吉に与したと聞いていたが。


逹長は、小さく呟いた。


「……長宗殿」


野口長宗。


久方ぶりに見る志知城は――


もはや、かつての砦ではなかった。


要塞。


それも、海から攻める者を迎え撃つための城。


逹長の目が、左右の城郭を走る。


松明の数。


城の位置。


入江の幅。


弓を射る櫓。


もし左右から一斉に射られれば――


「……地獄だな」


逹長が呟いた。


船団が、自然と動きを止めた。


少し引いて、どこかへ上陸する。


その手もある。


だが――


それでは、当初の目的である仙石軍の殲滅から、あまりにも遠ざかる。


そして何より。


目の前にある志知城。


逹長は、わずかに目を細めた。


「いつの間に……」


侮っていた。


ほんの少しだけ。


そのことを、逹長は認めざるを得なかった。


そして――


この城を、ここまで形にした男。


野口長宗。


昔から変わらぬ。


手堅い。


地味だが、抜け目がない。


「……なるほど」


逹長の口元に、一瞬だけ笑みが浮かんだ。


しかし、その笑みはすぐに消えた。


淡路の国衆と、ここで戦う。


それは、避けたい。


だが――


土佐の兵たちは、今まさに自分の後ろにいる。


どうする。


一瞬。


本当に、一瞬の間だった。


逹長は判断した。


「これは――」


海を見つめる。


「長宗殿か……」


そして――


「引くぞ――!」


声が海上を走った。


「引けぇー!」


土佐水軍が一斉に船を返す。


その操船は見事だった。


船団は互いにぶつかることなく、次々と向きを変える。


逹長は、最後に一度だけ仙石の船を振り返った。


そして笑った。


「秀久殿!」


仙石が顔を上げる。


「また、お会いしよう!」


そう言い捨てると――


逹長の船団は、朝の海を滑るように進み始めた。


志知城から遠ざかる。


淡路から離れる。


そして――


鳴門の向こう。


四国へ。


(波の音)


仙石秀久は、呆然とその船団を見送っていた。


命を狙われた。


だが――


なぜか、助かった。


そしてその理由は――


まだ、理解できていなかった。

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