第15話 引田の戦い
(海鳴り)
天正十一年、四月。
淡路。
仙石秀久のもとに、羽柴秀吉からの命が届いた。
――四国へ出陣せよ。
長宗我部元親の勢力が、四国各地で急速に拡大していた。
とりわけ讃岐では、三好一族の十河存保が長宗我部の攻勢にさらされ、再三にわたって援軍を求めていた。
そして今――
賤ヶ岳で柴田勝家と戦う秀吉にとって、四国の情勢を放置することもできなかった。
秀吉は、仙石秀久に兵を預けた。
総勢――二千。
大軍とは言えない。
だが、四国の動きを牽制するには十分な兵力だった。
四国攻めにあたり、仙石秀久は一人の男から念を押されていた。
黒田官兵衛。
「仙石殿」
「何だ、官兵衛」
「兎にも角にも――」
官兵衛は、静かに言った。
「四国攻めにおいては兵を減らさぬことです」
仙石は眉を上げた。
「戦に出て、兵を減らすなとは難しいことを言う」
「勝つことよりも、まず兵を残す」
官兵衛は続けた。
「今の羽柴家には、あちらこちらに敵がおります」
「賤ヶ岳」
「紀州」
「そして四国」
「一つの戦で大きな損害を出せば、それだけ次の戦が苦しくなる」
仙石は、黙って聞いていた。
「取り分け四国攻めに充てられる兵の数には限りがある」
「ですから――」
官兵衛は仙石の目を見た。
「勝てる戦だけをしてください」
「……分かった」
仙石は頷いた。
「ならば、四国を見て参る」
(波の音)
讃岐。
仙石軍はまず、喜岡城――高松城へ圧力をかけた。
さらに香西浦にも兵を進める。
だが、無理な攻撃はしない。
敵の動きを探り、
兵を損なわず、
そして――
退く。
初戦は、上々だった。
大きな戦果はない。
だが、兵の損耗も少ない。
仙石は満足していた。
「どうだ」
「長宗我部も、そう簡単には出てきませんな」
「ならば、こちらから動く」
仙石は、次の標的を見定めた。
引田城。
守りは手薄。
ここを取れば、讃岐東部への足掛かりにもなる。
そして――
仙石軍は引田城を攻めた。
(鬨の声)
城兵は、十分な備えをしていなかった。
仙石軍は一気に攻め寄せた。
城門が破られる。
兵が雪崩れ込む。
そして――
落城。
「仙石様!」
「入ったか!」
「はい!」
仙石は笑った。
「よし!」
この日。
四月二十一日。
引田城が落ちたその日は――
近江でも、大きな戦が始まっていた。
賤ヶ岳。
羽柴秀吉と柴田勝家。
両軍が、ついに激突した日である。
(遠くで太鼓)
仙石は、そのことをまだ知らなかった。
だが、四国ではこの日を境に、戦の潮目が大きく変わり始めていた。
秀吉が賤ヶ岳で戦う。
ならば――
長宗我部も、今こそ四国を取る。
そう考えたのである。
(兵のざわめき)
引田城を手にした仙石軍は、さらに進んだ。
目指すは、十河氏が守る虎丸城。
「ここまで来たなら、一気に行くぞ」
仙石秀久は息巻いていた。
引田城を落とした勢い。
兵の士気も高い。
だが――
その先で待っていたものは、思っていた以上の敵だった。
「仙石様!」
「何だ!」
「敵です!」
「数は!」
「まだ分かりません!」
やがて、山間から姿を現した兵。
長宗我部軍。
仙石軍は、すぐに備えた。
だが――
「敵は、こちらを誘い込もうとしている」
そう見抜いた仙石は、逆に伏兵を置いた。
長宗我部軍が進んでくる。
その瞬間――
「今だ!」
(鬨の声)
伏兵が一斉に襲いかかった。
長宗我部軍は崩れた。
「勝ったぞ!」
仙石軍の兵たちが沸き立つ。
初戦は、仙石軍の快勝だった。
だが――
それは、長い戦いの始まりに過ぎなかった。
(低く、不穏な太鼓)
次々と現れる兵。
一隊。
二隊。
三隊。
そして――
さらにその後ろから、また兵が現れる。
「……何だ、あの数は」
仙石の顔から笑みが消えた。
長宗我部軍。
その数――
仙石軍の三倍近い。
二千の仙石軍に対して、六千近い兵が押し寄せてくる。
「押し返せ!」
「敵が多すぎます!」
「怯むな!」
仙石は叫んだ。
だが――
兵の数は、戦場の時間とともに重くなっていった。
一人倒れる。
また一人。
やがて、隊列に穴が開く。
「退け!」
「仙石様!」
「引田城まで戻る!」
(兵の足音)
仙石軍は退いた。
虎丸城から引田城までおよそ三里。
だが、長宗我部軍は追ってくる。
城へ逃げ込んだ仙石軍に対し、長宗我部軍は容赦なく攻め立てた。
矢が飛ぶ。
鉄砲が鳴る。
城壁に兵が取りつく。
「守れ!」
「門を閉めろ!」
「敵が入るぞ!」
(戦闘音)
兵が倒れる。
次々と倒れていく。
官兵衛の言葉が、仙石の頭をよぎった。
――兎にも角にも、兵を減らさぬことです。
だが。
もう、減っている。
それも――
あまりにも多く。
「仙石様!」
「何だ!」
「このままでは、一夜も持ちません!」
仙石は、城外を見た。
長宗我部軍の火。
無数の松明。
まるで、地上に星が降りたようだった。
「……船を出せ」
「しかし!」
「今夜、出る」
「はい!」
夜。
雲が月を隠していた。
(波の音)
仙石軍は、闇に紛れて引田城を抜けた。
兵たちは、足音を殺して海岸へ向かう。
そして、次々と船へ乗り込んだ。
「急げ!」
「音を立てるな!」
「敵に気づかれるぞ!」
仙石秀久も船に乗った。
引田城。
奪った城。
その城を、わずか一日で捨てることになるとは――
出陣したときには、思いもしなかった。
(櫓の燃える音、遠く)
海へ出る。
仙石軍は、ただひたすら淡路を目指した。
誰も口を開かなかった。
兵たちも。
将も。
ただ、櫓を漕ぐ音だけが聞こえている。
(櫓を漕ぐ音)
仙石は、船の上で俯いていた。
官兵衛の言葉が、何度も頭の中を巡る。
兵を減らすな。
勝てる戦だけをせよ。
だが――
自分は、そのどちらも守れなかった。
「……何ということだ」
仙石は、低く呟いた。
賤ヶ岳では、今も秀吉が戦っている。
自分は、その背後を守るつもりで四国へ来た。
だが、その自分が――
敗れた。
(海鳴り)
やがて――
東の空が、わずかに白み始めた。
「夜が明けるぞ」
誰かが呟いた。
仙石は顔を上げた。
そのときだった。
「……船影!」
「何?」
「前方に船!」
仙石は立ち上がった。
「何艘だ?」
「分かりません!」
「……数えろ!」
兵が目を凝らす。
「十……」
「十五!」
「二十ほど!」
仙石の顔が強張った。
敵か。
長宗我部か。
船団は、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
そして――
一斉に、松明へ火が灯された。
(松明に火がつく音)
朝焼けの空。
海面。
そして、無数の松明。
その光に照らされて――
船団の旗が浮かび上がった。
梅鉢。
仙石は、息を呑んだ。
「……梅鉢……?」
その旗の前に、一人の男が立っている。
風に髪をなびかせ、
静かにこちらを見つめている。
菅――
逹長。
…仙石秀久は、言葉を失った。
敗軍の船を前に――
梅鉢の旗が、夜明けの海に揺れていた。




