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魔剣に選ばれなかった凡人剣士、辺境で『素振り』を極める  作者: 汐見 ゆゑ


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6 ワイバーン

 ワイバーンの咆哮が、空気を震わせた。


 村の広場には、逃げ遅れた人々がいた。老婆が転んだまま立ち上がれずにいる。その隣で、小さな女の子が老婆の腕にしがみつき、泣いていた。


 ワイバーンが翼を広げたまま、上空を旋回している。蛇のような目が地上を舐め回し、獲物を品定めしていた。高度は三十歩ほど。地上からの攻撃は届かず、翼を持たない人間にとっては絶対的な優位だった。


 グレイは老婆と少女の前に立った。


「動くな。伏せていろ」


 短い指示を出し、鉄剣を構えた。正眼。足は肩幅。いつもの構え。


 ワイバーンが見下ろしている。蛇のような瞳孔が、地上の小さな人間を捉えた。取るに足りない獲物。牙も、魔力も持たない、ただの人間。


 ワイバーンは翼を畳み、急降下した。地面すれすれを滑空し、鉤爪を広げて——広場の端にあった石の防壁を掠めるように通過した。


 防壁が爆ぜた。


 石造りの壁が、翼の風圧だけで粉々に砕け散った。破片が広場に降り注ぎ、砂塵が舞い上がる。


 ワイバーンは再び高度を上げ、旋回した。口を開いた。


 喉の奥に、光が灯った。赤。橙。白。温度が上がるにつれて色が変わり、やがて小さな太陽のような輝きが凝縮していく。


 炎のブレス。


 チャージしている。口腔内のエネルギーが膨れ上がり、熱気が上空から地上に伝わってきた。空気が揺らぎ、砂塵が蒸発する。


 村ごと、焼き払うつもりだ。


 老婆が悲鳴を上げた。少女が泣き叫んだ。広場の隅に避難していた村人たちが、恐怖に顔を歪めた。


 グレイだけが、動かなかった。


 空を見上げていた。ワイバーンの口の中で膨れ上がる炎を、冷静に観察していた。


 魔法の炎。魔力によって生成されたエネルギーの塊。


 だが——それは空間に顕現した現象だ。水が流れるように、炎もまた物理的な存在として空間を占めている。


 滝を斬った時と、同じだ。


 ワイバーンの口が、限界まで開いた。


 白熱した炎の奔流が、地上に向かって吐き出された。


 グレイは逃げなかった。


 鉄剣を上段に構え、大きく踏み込んだ。地面を蹴る足が、石畳を砕いた。


 炎が、眼前に迫っていた。


 白熱した光の壁。空気が焦げ、石畳が溶ける温度。直撃すれば、人間の体など一瞬で灰になる。


 グレイは目を閉じなかった。


 炎の中心線を見ていた。流れの最も密度が高い部分。エネルギーが最も集中している一点。滝を斬った時に学んだ。流体の中心を正確に捉え、最も自然な角度で刃を入れる。


 力ではない。速さと、刃筋。


 何千万回と繰り返した、ただの袈裟斬り。


 振り下ろした。


 鉄の刃が、炎に触れた。


 ——裂けた。


 白熱した炎の奔流が、刃の軌道に沿って真っ二つに分かたれた。左右に分かれた炎がグレイの両脇を通り過ぎ、背後の地面を焼き焦がした。熱風が顔を掠め、髪の毛の先が焦げた。


 だが、グレイの体には傷一つなかった。


 炎が裂けた一瞬——ワイバーンの目が、驚愕に見開かれた。


 自分のブレスが、地上の小さな人間に「物理的に切断された」という、理解不能な現実。口を開けたまま、硬直した。


 その隙を、グレイは見逃さなかった。


 地面を蹴った。


 跳躍した。高く。人間の脚力の限界を超えた、しかし魔法ではない、純粋な筋力と体幹のバネによる跳躍。ワイバーンの首の高さまで——届いた。


 鉄剣を振り抜いた。


 袈裟斬り。右肩から左腰へ。何千万回と繰り返した、最も基本的な一振り。


 技名はない。叫びもない。ただの、素振りの延長。


 鉄の刃が、ワイバーンの分厚い鱗に触れた。


 ——斬れた。


 鱗が。肉が。骨が。


 巨大な飛竜の体が、首の付け根から胴体の半ばまで、対角線に両断された。


 血が噴き出す前に、グレイは地面に着地していた。膝を曲げて衝撃を吸収し、静かに立ち上がる。


 背後で、ワイバーンの巨体が崩れた。


 二つに分かれた体が地面を揺るがし、砂塵が舞い上がった。翼がだらりと広がり、蛇のような首がゆっくりと倒れた。


 グレイは鉄剣の血を払い、腰に収めた。


 静寂が訪れた。


 広場に残っていた村人たちは、声も出せずに呆然としていた。炎が裂け、飛竜が斬られ、全てが終わった。


 老婆が、震える声で呟いた。


「あの子……今……火を……斬った……?」


 少女は老婆にしがみついたまま、大きな目でグレイの背中を見ていた。


 グレイは振り返らなかった。小さく息を吐き、空を見上げた。


 抜けるような青空が、広がっていた。





 薄暗い空間に、水晶の球が浮かんでいた。


 球の中に映っているのは、辺境の村。ワイバーンの残骸と、焦げた石畳。そして——腰に鉄剣を差した一人の青年の、後ろ姿。


 玉座に座る影が、水晶球を覗き込んだ。


 巨大な体躯。角が二本、額から天を突くように伸びている。灰色の肌は甲殻類のような外骨格で覆われ、目は深紅に燃えていた。


 大魔族。名をザルヴァドルク。


「……ありえん」


 低い声が、玉座の間に響いた。


「ワイバーンが死んだ。それ自体は珍しくもない。人間の魔剣使いなら、上位の者であればワイバーン程度は仕留められよう」


 ザルヴァドルクの指が、水晶球の表面を撫でた。映像が変わった。ワイバーンの死骸の切断面が拡大される。


「だが——これは何だ」


 切断面は、滑らかだった。火傷の痕も、魔力の残滓もない。純粋に物理的な力で、物質として切断されている。


「魔力の痕跡がない。魔法が使われた形跡がない。ワイバーンの鱗は上位の魔法でなければ傷つけられぬはず。それが——魔力の波長を一切伴わずに、両断されている」


 ザルヴァドルクは水晶球から手を離し、背もたれに体を預けた。


「魔力を伴わない攻撃など、落石か倒木でも当たったとしか思えん」


 だが、落石や倒木ではワイバーンを両断などできない。


 困惑していた。


 人間界の動向は、常に監視している。人間どもが「魔剣」と呼ぶ玩具に依存し、純粋な身体技術を退化させていることは把握していた。それこそが、ザルヴァドルクの計画の核心だった。


 『魔力封じ(アンチマジック)』の結界。


 広域に展開すれば、人間の魔剣は全て無力化される。魔力による筋力補助も消え、魔法的な防護も解ける。残るのは、基礎体力すら鍛えていない、ただのひ弱な人間の群れだ。


 計画は完璧なはずだった。


 だが——この「得体の知れない現象」が引っかかる。


「……予定を早める」


 ザルヴァドルクは立ち上がった。


「全軍に伝えよ。人間界への侵攻を開始する。アンチマジックの結界で魔剣使いどもを炙り出し——皆殺しにせよ」


 玉座の間に、複数の影が蠢いた。配下の魔族たちが、無言で頭を垂れた。


 水晶球の中で、辺境の青年が歩き去っていく。その背中を、ザルヴァドルクは深紅の目で見つめていた。


 ——ただの人間に、何ができる。


 そう結論づけて、視線を外した。

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