5 辺境の山
鍛錬をはじめて数カ月がたった。
グレイは血豆が潰れたことに気づいた。
何度目か、もう数えていない。手のひらの皮膚は潰れては硬化し、硬化しては裂け、裂けてはまた潰れてを繰り返して、もはや岩石のような手になっていた。指の関節は太く、手の甲には浮き出た血管が走り、爪の際は古い血の痕で黒ずんでいる。
グレイは上半身裸で、崖の上に立っていた。
数ヶ月前とは別人のような体だった。無駄な肉が一切なく、筋肉の一本一本が表皮の下でくっきりと浮き出ている。肩から背中にかけての筋肉は獣のように盛り上がり、腹筋は板のように硬い。全身が汗と泥に塗れ、朝の冷たい風の中で湯気を上げていた。
手に握った鉄剣は、血と汗で黒光りしている。
振り下ろした。
ゴウッ、と空気が鳴った。剣先が描く軌道に沿って、目に見えるほどの空気の歪みが走った。
「遅い」
背後から、ダグラスの声。
「刃が降りてから体が追いかけとる。逆だ。体が先に沈み、刃が後から抜ける。呼吸が刃に乗っておらん」
グレイは黙って、もう一度構えた。崖の上は足場が悪く、風が吹くたびに体幹が揺さぶられる。だが、それも修行の一部だった。
振った。
百回。千回。一万回。
太陽が昇り、空が白くなり、また赤く染まる。その間、グレイは一歩も動かず、同じ場所で同じ動作を繰り返し続けた。
一万三千回を超えた頃、足場の岩が崩れた。
体が前に傾いた。崖の縁まであと半歩。下は、百尺はある谷底。
落ちる——と思った瞬間、グレイの体が動いた。
考えてはいなかった。崩れた姿勢のまま、腹筋と背筋を同時に締め、倒れかける体幹を無理やり垂直に戻し——そのまま、剣を振り抜いた。
空気が裂けた。
今度は、音が違った。
風切り音ではない。もっと鋭い、金属が高速で空間を抉るような——異音。
グレイの手が止まった。今の感覚。今の刃の通り方。何かが、変わった。
「……今のを、もう一度」
自分に言い聞かせるように呟き、構え直した。
ダグラスは崖の端に腰を下ろし、その背中を見ていた。白髪交じりの髪が風に揺れている。口元は結ばれたままだが——目が、見開かれていた。
◇
轟音が、世界を満たしていた。
山の奥深く。切り立った岩壁の間を、巨大な滝が落ちている。落差は十丈を超え、滝壺に叩きつけられた水は白い飛沫となって周囲を濡らしていた。
朝靄が立ち込める中、グレイは滝の真下に立っていた。
落ちてくる水量は凄まじく、肩や頭を叩く衝撃だけで立っているのがやっとだ。息ができない。水が顔を打ち、鼻と口を塞ぐ。視界はほとんど白い水飛沫に覆われている。
その中で、鉄剣を構えていた。
上段。頭上に掲げ、切っ先を天に向ける。水圧に押され、腕が震える。
滝を、斬る。
ダグラスが命じた修行。落ちてくる水の流れを、一振りの剣で物理的に切断する。
不可能だ、と最初は思った。水は液体だ。斬っても、すぐに元に戻る。刃を通しても、水は刃の隙間を流れ落ちるだけだ。
だが、ダグラスは言った。
「刃筋が完全に通れば、水は分かれる。力ではない。速さと、刃の入り方だ」
振った。
水が一瞬だけ乱れ、すぐに元通りに落ちてきた。
また振った。同じ結果。
百回。千回。一万回。
何日も通った。何週間も。
手が腫れ上がり、肩の筋肉が断裂し、膝が水圧に耐えきれず何度も岩に叩きつけられた。
今日も、振っている。
もう何回目か分からない。体力は限界に近い。視界が白く濁り始めている。水音が遠くなり、意識が薄れていく。
だが——その瞬間、何かが変わった。
力みが、消えた。
考えることを止めた。水を斬ろうとすることを止めた。ただ、最も自然な軌道で——何千万回と繰り返した、素振りの軌道を——極限の速度で、なぞった。
振り下ろした。
轟音が——止まった。
完全な、無音。
目を開けた。
滝が、割れていた。
落下する巨大な水の壁が、グレイの頭上で真っ二つに分かたれている。左右に分かれた水流が、グレイの両脇を通り過ぎて滝壺に落ちていく。まるで巨人が水の壁に切れ目を入れたように——いや、海が二つに分かれたように、水の柱が縦に裂けていた。
一秒。二秒。三秒。
その間、滝の轟音は完全に消えていた。辺境の森に、信じられないほどの静寂が降りた。
四秒目に、水流が元に戻った。轟音が再び世界を満たし、水がグレイの頭上に叩きつけられた。
だが、グレイは動かなかった。
剣を下ろし、水の中で目を閉じた。
滝壺の縁に座っていたダグラスが、立ち上がった。その目は——大きく見開かれ、そして——かつての自分の全盛期をも超えようとする何かを見た、戦慄の色を帯びていた。
◇
昼下がりの村は、穏やかだった。
辺境の山の麓にある小さな村。石造りの家が二十軒ほど、広場を囲むように並んでいる。市場には野菜や干し肉が並び、子供たちが走り回り、犬が日向で腹を見せて寝ていた。
グレイは麻袋を肩に担いで、市場を歩いていた。買い出しだ。干し肉と穀物と、塩。ダグラスの小屋には食料を買いに行ける者がグレイしかいない。
「グレイくん、今日もお疲れ様」
八百屋の老婆が、にこやかに声をかけた。
「ダグラス様は元気かい? 相変わらず山から降りてこないのかね」
「元気です。降りてきません」
素朴な会話。老婆が林檎をひとつ余計に袋に入れてくれた。グレイは小さく頭を下げた。
この村の人々は、グレイを温かく迎え入れてくれていた。山の老人に弟子入りした変わった青年。でも礼儀正しいし、力仕事も手伝ってくれる。それで十分だった。
「——ところでグレイくん、最近は妙な噂がないかい? 山のほうで、変な音がするって話を聞くんだけど」
「……音?」
「空気が裂けるような、ビリビリした音さ。ここまで聞こえることがあるんだよ」
グレイは少し考えて、曖昧に頷いた。おそらく、自分の素振りの音だ。
広場のベンチに座り、林檎を齧った。甘酸っぱい汁が口に広がる。頭上には青空が広がり、白い雲がゆっくりと流れている。
平和だった。
その時、風が変わった。
突然、突風が吹き荒れた。市場のテントが煽られ、野菜が地面に転がった。子供たちが悲鳴を上げ、犬が跳び起きて吠えた。
グレイは立ち上がった。
空を見た。
巨大な影が、太陽を遮っていた。
翼だった。革質の翼が広がり、村全体を影で覆っている。蛇のような長い首。鉤爪のついた四肢。鱗に覆われた体躯は、村の家屋よりも大きい。
ワイバーン。
飛竜。王国軍の一個中隊でも手を焼く、災害級の魔物。
咆哮が、空気を揺るがした。
村人たちがパニックに陥った。悲鳴。逃げ惑う足音。子供の泣き声。老婆が転び、荷物が散乱した。
グレイは動かなかった。
空を見上げたまま、顔色ひとつ変えなかった。
かつて——第一章で魔獣に囲まれた時、グレイは恐怖に震えていた。折れた剣を握りしめ、死を覚悟していた。
今は、違う。
右手が、背中に回った。
背負っていた鉄剣の柄を、静かに握った。
ワイバーンが旋回し、口を開いた。喉の奥に、赤い光が灯り始めている。
グレイは鉄剣を抜いた。
静かに。当たり前のように。まるで、毎朝の素振りを始める時と同じ所作で。




