4 素振り
扉を見つめた。
閉ざされた木の扉。隙間から漏れる暖炉の光。
グレイは立ち上がり、周囲を見回した。小屋の前に、小さな広場がある。踏み固められた土。木々に囲まれた、静かな空間。
地面に、手頃な木の枝が落ちていた。
腕の長さほどの、真っ直ぐな枝。太さは剣の柄とほぼ同じ。
拾い上げた。
右手で握った。左手を添えた。手のひらの豆の痕が、木の感触を受け止めた。
構えた。正眼。足は肩幅。膝を僅かに曲げ、重心を落とす。
振った。
一回。
木の枝が空気を切る、軽い音。物足りない。鉄剣の重さはない。だが、軌道は同じだ。肩から肘、肘から手首、手首から指先へと力を伝え、切っ先を走らせる。
振った。
二回。三回。十回。百回。
朝日が昇り、空が白くなった。
振った。
千回を超えた頃、腕が痺れ始めた。肩の筋肉が熱を持ち、呼吸が荒くなった。汗が額から落ち、地面に黒い染みを作った。
振った。
昼を過ぎた。空腹が胃を絞った。水は飲んでいない。口の中が乾き、唇が割れた。
振った。
夕方になった。影が伸び、空が赤く染まった。腕はもう上がらないほど重い。だが、止まらなかった。体が覚えている。何万回と繰り返した動作を、筋肉が自動的に再生する。
振った。
夜が来た。月が出た。虫の声が聞こえた。
振った。
二日目。
朝日が昇った時、グレイはまだ立っていた。目の下に隈ができ、唇は乾いて白くなっている。だが、木の枝を握る手は離れなかった。
小屋の窓から、老人の気配がした。視線を感じた。だが、扉は開かなかった。
振った。
二日目の午後、雨が降り始めた。最初は小雨だった。やがて本降りになり、土砂降りに変わった。冷たい雨が全身を打ち、服が肌に張りつく。泥が跳ね、足元が滑る。
振った。
体温が奪われていく。指先の感覚がなくなった。視界が滲んだ。
振った。
三日目。
豪雨の中、グレイは泥の中に立っていた。もう、何回振ったか数えていなかった。数える意識すら残っていない。体が勝手に動いている。肩が上がり、肘が伸び、手首が返り、枝が振り下ろされる。
雨に打たれ、泥に塗れ、飢えと疲労で意識が朦朧としている。
だが——型は崩れていなかった。
足の位置は正しい。膝の角度は正しい。腰の回転は正しい。そして、振り下ろされた枝の先端は——正確に同じ位置で、ピタリと止まっていた。
一ミリもブレていない。
三日間、一度も。
小屋の中で、老人がそれを見ていた。
窓越しに、無表情の目が。やがて——その目が、僅かに見開かれた。
グレイの意識が、限界を迎えた。
膝が折れた。視界が白く飛んだ。泥の中に前のめりに倒れかけた——
倒れる寸前、何かに支えられた。
大きな手だった。
グレイの肩を掴み、倒れかける体を引き留めている。乱暴だが——確かな温もりがあった。
「……馬鹿が」
しわがれた声が、頭上から聞こえた。
目を開けた。雨はいつの間にか上がっていた。雲間から朝日が差し込み、水滴が光っている。
老人——ダグラスが、目の前に立っていた。
グレイの肩を掴んだまま、その顔を覗き込んでいる。呆れたような、怒ったような、それでいて——どこか嬉しそうな。
「三日間、型が崩れんかった」
ダグラスの声は低かった。
「飯も食わず、水も飲まず、雨に打たれて泥に沈みながら。それでも、剣先の位置が一ミリもブレなんだ」
グレイは答えようとした。だが、声が出なかった。唇が動いたが、音にならなかった。
ダグラスが手を離した。グレイの体が揺れたが、倒れなかった。膝に力を入れ、歯を食いしばって立っていた。
ダグラスは小屋の裏手に回った。しばらくして戻ってきた時、その手には——一本の鉄剣が握られていた。
分厚い刀身。幅広で、重そうな鋼の塊。刃は研がれているが装飾はなく、柄にも宝石や彫金は一切ない。黒ずんだ鉄の色をした、無骨な剣。
ダグラスはそれを、グレイの足元に突き立てた。
地面が裂けた。ずしん、という重い音がした。
「持ってみろ」
グレイは右手を伸ばした。柄を握った。引き抜こうとした。
——重い。
尋常ではない重さだった。通常の鉄剣の三倍はある。腕の筋肉が悲鳴を上げ、肩の関節がきしんだ。両手で握り、全身の力を込めて引き抜いた。
鉄剣が、泥から抜けた。
持ち上げるだけで、腕が震えた。
「一日十万回、死ぬ気で振れ」
ダグラスの声。
「十……万……?」
グレイの唇が、掠れた声を出した。
「聞こえんかったか。十万回だ。日が昇ってから沈むまで、振り続けろ。飯は振った後に食え。手の皮が裂けても止めるな。腕の骨が軋んでも止めるな。意識が飛んでも、体が覚えた型で振り続けろ」
常軌を、逸していた。
十万回。一振りに一秒かかるとして、約二十八時間。休みなく振り続けても、一日では終わらない。
グレイは——笑った。
それは、王都で見せていた暗い顔とは、まるで違う笑みだった。子供のように無邪気で、同時に、どこか獰猛な——獣のような笑み。
「……はい」
鉄剣を構えた。重さで腕が震えている。だが、構えは正しかった。
ダグラスは、その笑みを見た。
しわだらけの顔が——僅かに、緩んだ。呆れたように首を振りながら、口元だけが笑っていた。
「狂っとる。お前は、完全に狂っとる」
そう言って、背を向けた。
「今日から、儂が地獄の門番だ。覚悟しろ、小僧」
朝日が、裏庭を金色に照らした。
鉄剣を振る音が、山に響き始めた。
◇
歓声が、訓練場に響いていた。
「すごい! さすがガイウス様!」
「炎の魔剣の威力、相変わらず桁違いですな!」
ガイウスは、訓練場の中央に立っていた。
白銀の鎧は華美な装飾が施され、腰には『灼獄の牙』が赤銅色の光を放っている。その周囲を、取り巻きの騎士たちが囲み、口々に称賛を浴びせていた。
訓練場の地面には、焼け焦げた跡が幾筋も走っている。模擬戦の相手——先輩騎士は、十歩以上後方に吹き飛ばされて倒れていた。鎧が赤熱し、立ち上がれずにいる。
「軽いな。もう少し歯応えのある相手はいないのか」
ガイウスは余裕の笑みを浮かべ、魔剣を肩に担いだ。その所作は堂々としていたが——足の運びは、酷いものだった。
踏み込みの軸が定まっていない。体重移動は雑で、剣を振る際に上半身だけが先行し、腰と足が置き去りになっている。先ほどの模擬戦でも、横薙ぎの際に大きく体勢を崩し、一瞬だけ完全な隙を晒していた。
だが、それは問題にならなかった。
体勢が崩れようが、足の運びが素人同然であろうが——魔剣を振れば、それだけで凄まじい炎が噴き出す。相手の鎧を溶かし、盾を砕き、地面を焼く。剣術の型など、必要ないのだ。魔剣が全てを補ってくれる。
「ガイウス様。次期騎士団長の声も高まっております」
取り巻きの一人が、揉み手をしながら言った。
「当然だ」
ガイウスは鼻で笑った。
ふと、視線が訓練場の隅に止まった。木の人形が立っている。訓練用の素振り台。誰も使っていない。
記憶が、一瞬だけ蘇った。
毎朝誰よりも早く起き、あの素振り台の前で、飽きもせず木剣を振り続けていた男。手から血を流しながら、骨が軋む音を立てながら、ひたすらに。
「——あの案山子か」
ガイウスは呟いた。取り巻きが怪訝そうな顔をした。
「いや、何でもない。素振りしかできない案山子のような真似をして何になる、と思っただけだ」
笑い声が上がった。ガイウスも笑った。
だが、その笑顔が消えた一瞬——ほんの一瞬だけ、ガイウスの目に、薄気味悪いものを見るような光が過ぎった。
自分の手のひらを見た。傷一つない、白い手。
すぐに、その光は消えた。




