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魔剣に選ばれなかった凡人剣士、辺境で『素振り』を極める  作者: 汐見 ゆゑ


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4/5

4 素振り

 扉を見つめた。


 閉ざされた木の扉。隙間から漏れる暖炉の光。


 グレイは立ち上がり、周囲を見回した。小屋の前に、小さな広場がある。踏み固められた土。木々に囲まれた、静かな空間。


 地面に、手頃な木の枝が落ちていた。


 腕の長さほどの、真っ直ぐな枝。太さは剣の柄とほぼ同じ。


 拾い上げた。


 右手で握った。左手を添えた。手のひらの豆の痕が、木の感触を受け止めた。


 構えた。正眼。足は肩幅。膝を僅かに曲げ、重心を落とす。


 振った。


 一回。


 木の枝が空気を切る、軽い音。物足りない。鉄剣の重さはない。だが、軌道は同じだ。肩から肘、肘から手首、手首から指先へと力を伝え、切っ先を走らせる。


 振った。


 二回。三回。十回。百回。


 朝日が昇り、空が白くなった。


 振った。


 千回を超えた頃、腕が痺れ始めた。肩の筋肉が熱を持ち、呼吸が荒くなった。汗が額から落ち、地面に黒い染みを作った。


 振った。


 昼を過ぎた。空腹が胃を絞った。水は飲んでいない。口の中が乾き、唇が割れた。


 振った。


 夕方になった。影が伸び、空が赤く染まった。腕はもう上がらないほど重い。だが、止まらなかった。体が覚えている。何万回と繰り返した動作を、筋肉が自動的に再生する。


 振った。


 夜が来た。月が出た。虫の声が聞こえた。


 振った。


 二日目。


 朝日が昇った時、グレイはまだ立っていた。目の下に隈ができ、唇は乾いて白くなっている。だが、木の枝を握る手は離れなかった。


 小屋の窓から、老人の気配がした。視線を感じた。だが、扉は開かなかった。


 振った。


 二日目の午後、雨が降り始めた。最初は小雨だった。やがて本降りになり、土砂降りに変わった。冷たい雨が全身を打ち、服が肌に張りつく。泥が跳ね、足元が滑る。


 振った。


 体温が奪われていく。指先の感覚がなくなった。視界が滲んだ。


 振った。


 三日目。


 豪雨の中、グレイは泥の中に立っていた。もう、何回振ったか数えていなかった。数える意識すら残っていない。体が勝手に動いている。肩が上がり、肘が伸び、手首が返り、枝が振り下ろされる。


 雨に打たれ、泥に塗れ、飢えと疲労で意識が朦朧としている。


 だが——型は崩れていなかった。


 足の位置は正しい。膝の角度は正しい。腰の回転は正しい。そして、振り下ろされた枝の先端は——正確に同じ位置で、ピタリと止まっていた。


 一ミリもブレていない。


 三日間、一度も。


 小屋の中で、老人がそれを見ていた。


 窓越しに、無表情の目が。やがて——その目が、僅かに見開かれた。


 グレイの意識が、限界を迎えた。


 膝が折れた。視界が白く飛んだ。泥の中に前のめりに倒れかけた——


 倒れる寸前、何かに支えられた。


 大きな手だった。


 グレイの肩を掴み、倒れかける体を引き留めている。乱暴だが——確かな温もりがあった。


「……馬鹿が」


 しわがれた声が、頭上から聞こえた。


 目を開けた。雨はいつの間にか上がっていた。雲間から朝日が差し込み、水滴が光っている。


 老人——ダグラスが、目の前に立っていた。


 グレイの肩を掴んだまま、その顔を覗き込んでいる。呆れたような、怒ったような、それでいて——どこか嬉しそうな。


「三日間、型が崩れんかった」


 ダグラスの声は低かった。


「飯も食わず、水も飲まず、雨に打たれて泥に沈みながら。それでも、剣先の位置が一ミリもブレなんだ」


 グレイは答えようとした。だが、声が出なかった。唇が動いたが、音にならなかった。


 ダグラスが手を離した。グレイの体が揺れたが、倒れなかった。膝に力を入れ、歯を食いしばって立っていた。


 ダグラスは小屋の裏手に回った。しばらくして戻ってきた時、その手には——一本の鉄剣が握られていた。


 分厚い刀身。幅広で、重そうな鋼の塊。刃は研がれているが装飾はなく、柄にも宝石や彫金は一切ない。黒ずんだ鉄の色をした、無骨な剣。


 ダグラスはそれを、グレイの足元に突き立てた。


 地面が裂けた。ずしん、という重い音がした。


「持ってみろ」


 グレイは右手を伸ばした。柄を握った。引き抜こうとした。


 ——重い。


 尋常ではない重さだった。通常の鉄剣の三倍はある。腕の筋肉が悲鳴を上げ、肩の関節がきしんだ。両手で握り、全身の力を込めて引き抜いた。


 鉄剣が、泥から抜けた。


 持ち上げるだけで、腕が震えた。


「一日十万回、死ぬ気で振れ」


 ダグラスの声。


「十……万……?」


 グレイの唇が、掠れた声を出した。


「聞こえんかったか。十万回だ。日が昇ってから沈むまで、振り続けろ。飯は振った後に食え。手の皮が裂けても止めるな。腕の骨が軋んでも止めるな。意識が飛んでも、体が覚えた型で振り続けろ」


 常軌を、逸していた。


 十万回。一振りに一秒かかるとして、約二十八時間。休みなく振り続けても、一日では終わらない。


 グレイは——笑った。


 それは、王都で見せていた暗い顔とは、まるで違う笑みだった。子供のように無邪気で、同時に、どこか獰猛な——獣のような笑み。


「……はい」


 鉄剣を構えた。重さで腕が震えている。だが、構えは正しかった。


 ダグラスは、その笑みを見た。


 しわだらけの顔が——僅かに、緩んだ。呆れたように首を振りながら、口元だけが笑っていた。


「狂っとる。お前は、完全に狂っとる」


 そう言って、背を向けた。


「今日から、儂が地獄の門番だ。覚悟しろ、小僧」


 朝日が、裏庭を金色に照らした。


 鉄剣を振る音が、山に響き始めた。







 歓声が、訓練場に響いていた。


「すごい! さすがガイウス様!」


「炎の魔剣の威力、相変わらず桁違いですな!」


 ガイウスは、訓練場の中央に立っていた。


 白銀の鎧は華美な装飾が施され、腰には『灼獄の牙』が赤銅色の光を放っている。その周囲を、取り巻きの騎士たちが囲み、口々に称賛を浴びせていた。


 訓練場の地面には、焼け焦げた跡が幾筋も走っている。模擬戦の相手——先輩騎士は、十歩以上後方に吹き飛ばされて倒れていた。鎧が赤熱し、立ち上がれずにいる。


「軽いな。もう少し歯応えのある相手はいないのか」


 ガイウスは余裕の笑みを浮かべ、魔剣を肩に担いだ。その所作は堂々としていたが——足の運びは、酷いものだった。


 踏み込みの軸が定まっていない。体重移動は雑で、剣を振る際に上半身だけが先行し、腰と足が置き去りになっている。先ほどの模擬戦でも、横薙ぎの際に大きく体勢を崩し、一瞬だけ完全な隙を晒していた。


 だが、それは問題にならなかった。


 体勢が崩れようが、足の運びが素人同然であろうが——魔剣を振れば、それだけで凄まじい炎が噴き出す。相手の鎧を溶かし、盾を砕き、地面を焼く。剣術の型など、必要ないのだ。魔剣が全てを補ってくれる。


「ガイウス様。次期騎士団長の声も高まっております」


 取り巻きの一人が、揉み手をしながら言った。


「当然だ」


 ガイウスは鼻で笑った。


 ふと、視線が訓練場の隅に止まった。木の人形が立っている。訓練用の素振り台。誰も使っていない。


 記憶が、一瞬だけ蘇った。


 毎朝誰よりも早く起き、あの素振り台の前で、飽きもせず木剣を振り続けていた男。手から血を流しながら、骨が軋む音を立てながら、ひたすらに。


「——あの案山子か」


 ガイウスは呟いた。取り巻きが怪訝そうな顔をした。


「いや、何でもない。素振りしかできない案山子のような真似をして何になる、と思っただけだ」


 笑い声が上がった。ガイウスも笑った。


 だが、その笑顔が消えた一瞬——ほんの一瞬だけ、ガイウスの目に、薄気味悪いものを見るような光が過ぎった。


 自分の手のひらを見た。傷一つない、白い手。


 すぐに、その光は消えた。

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