3 剣鬼
牙が、眼前に迫っていた。
魔獣が跳躍し、グレイの喉を狙って鉄の牙を剥いた。月が雲に隠れ、闇の中に黄色い目だけが光っている。折れた剣の柄を握り締めたまま、体が動かなかった。
——ここで、死ぬのか。
その思考が頭を過ぎった瞬間。
風が吹いた。
風ではなかった。
空気が、裂けた。
グレイの左側面から、何かが通過した。音は——鳴らなかった。正確には、鳴ったのだが、音が追いつかなかったのだ。
一瞬の遅延の後に、爆発的な衝撃波が襲った。
地面が震えた。グレイの体が吹き飛ばされ、背中から地面に叩きつけられた。息が詰まる。目を開けたまま、何が起きたのか理解できなかった。
魔獣は——いなかった。
一体も。
正面の三体も、左右の二体も、背後から迫っていた個体も。全てが消えていた。
いや。消えたのではない。
周囲の木々と一緒に、存在していた場所ごと「抉られて」いた。
グレイが倒れた位置を中心に、左側面から扇状に、森が更地になっていた。幹の直径が一尺を超える大木が、根元から斬り飛ばされている。いや、斬り飛ばされたのではない。切断面すら残っていない。まるで巨人が地面ごと薙ぎ払ったように、木も、岩も、魔獣も、地形そのものが平坦に「消されて」いた。
光は、なかった。
魔法的な光も、炎も、雷光も。何もない。ただ、純粋な風圧と物理的な衝撃だけが、森を消し飛ばしていた。
月が雲から顔を出した。
更地の端に、人影が立っていた。
老人だった。
白髪交じりの乱れた髪。日に焼けた浅黒い肌。着古した麻の服。腰が僅かに曲がり、片手には——刃こぼれだらけの、何の変哲もない鉄剣を下げている。
魔力を帯びた光は、一切纏っていなかった。
老人は、鉄剣を無造作に肩に担いだ。
「騒がしい犬どもが。眠りを妨げやがって」
低い、しわがれた声。
グレイを見た。老人の目は鋭く、射貫くような視線だった。だが、すぐに興味を失ったように逸れた。
「……なんだ、人間か。死にかけのガキが一匹」
老人は踵を返した。森の奥——更地にならなかった方角へ、ゆっくりと歩き始めた。
グレイは仰向けに倒れたまま、その背中を見ていた。
老人の手に握られた鉄剣。魔力の光を帯びない、ただの鉄の塊。それが——森ごと魔獣を消し飛ばした。
魔剣ではない。
魔法でもない。
ただの、横薙ぎ。
意識が遠のいた。最後に見えたのは、老人の背中と、月明かりに鈍く光る刃こぼれだらけの鉄剣だった。
◇
温かかった。
意識が戻った時、最初に感じたのはそれだった。
硬い寝台。薄い毛布。木の天井。窓から朝日が差し込み、埃が金色に光って漂っている。
小屋だった。
粗末な山小屋。壁は丸太を積んだだけで、隙間から風が吹き込んでいる。家具は寝台と、小さな机と、暖炉だけ。暖炉の上では鍋がことこと音を立て、何かのスープの匂いがした。
だが、グレイの目を引いたのは、それではなかった。
壁。床。天井。
至るところに、削れた痕があった。
刃物で斬りつけたのではない。何か棒状のもので、何度も何度も何度も叩きつけたような、無数の凹みと削れ痕。木の壁の表面が、まるで彫刻のように抉れている場所もあった。
素振りの痕だ。
それも、常軌を逸した回数の。
暖炉の傍に、老人が座っていた。昨夜の老人。白髪交じりの髪を無造作にかき上げ、鉄剣を膝の上に置いて、刃を布で拭いている。
グレイは寝台から体を起こした。全身が痛んだ。吹き飛ばされた時の打撲だろう。だが、致命的な怪我はない。
「……あの」
「起きたか」
老人は鉄剣から目を離さなかった。
「スープがある。食ったら、麓の村まで下りろ。道は一本だ、迷わん」
淡泊な声。追い出す気だ。
グレイは寝台から降り、老人の前に立った。そして——膝をついた。額を床につけた。
「あなたに、剣を教えていただきたい」
老人の手が、一瞬だけ止まった。
すぐに、布を動かす音が再開した。
「帰れ。儂は弟子など取らん」
「お願いします」
「聞こえんかったか。帰れと言った」
「魔剣などいらない。あなたの剣が知りたい」
老人の手が、再び止まった。
沈黙が落ちた。暖炉の火が爆ぜる音だけが聞こえた。
老人がゆっくりと顔を上げた。初めて、グレイの目を正面から見た。
「お前には才能がない」
その言葉は——王都で何度も聞いた言葉と、同じだった。
「魔力の素養がゼロだというのは、見れば分かる。だがそれだけじゃない。骨格も、筋繊維の質も、反射速度も。剣士としての天賦は、お前にはない」
グレイは額を床につけたまま、動かなかった。
「この道は地獄だ。才能のない者が歩めば、体が壊れるだけだ。手が使い物にならなくなり、膝が砕け、最後には剣を握ることすらできなくなる。そうなった者を、儂は知っておる」
老人は立ち上がった。
「帰れ、小僧。麓の村で畑でも耕せ。そちらの方が、よほど長生きできる」
大きな手がグレイの襟首を掴み、持ち上げた。老人の腕力は見た目に反して桁外れで、グレイの体は軽々と宙に浮いた。
そのまま、小屋の外に放り出された。
扉が閉まった。
鍵がかかる音がした。




