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魔剣に選ばれなかった凡人剣士、辺境で『素振り』を極める  作者: 汐見 ゆゑ


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2/5

2 辺境へ

 荷馬車が揺れていた。


 粗末な木の荷台に座り、グレイは流れる景色を眺めていた。王都の石造りの建物が遠ざかり、畑が広がり、やがて畑も途切れて荒涼とした丘陵地帯に変わった。道は舗装から砂利に、砂利から土に。馬車の揺れが大きくなるにつれて、景色は寂しくなっていく。


 膝の上に、木剣を置いていた。


 柄を握った。手のひらの豆の痕が、使い慣れた木の感触を記憶している。


 目を閉じると、記憶が戻ってきた。


 ——六歳の頃。


 訓練場の隅で、誰よりも早く木剣を振っていた。朝日が昇る前から。他の子供たちが起き出す頃には、もう百回は振り終えていた。


 なぜ振るのか、理由は分からなかった。ただ、剣を振ることが好きだった。木剣が空気を切る音。手のひらに伝わる振動。腕が熱くなり、息が切れ、汗が地面に落ちる。その繰り返しの中に、言葉にできない何かがあった。


 ——十歳の頃。


 手の皮が裂けた。血が柄を伝い、木目に染み込んだ。痛みで剣を取り落としそうになったが、落とさなかった。歯を食いしばり、裂けた皮膚の上からさらに握り、振った。翌朝、手のひらは膨れ上がり、指を曲げるだけで激痛が走った。


 それでも振った。


 ——十三歳の頃。


 雨の日も振った。泥濘の中で足を滑らせ、何度も転んだ。雪の日も振った。手がかじかんで感覚がなくなっても、木剣は握り続けた。教官が「もういい、休め」と言っても、首を横に振った。


 千回振って、まだ足りないと思った。一万回振って、まだ何かが違うと感じた。十万回を超えた頃、木剣が三本目に変わった。


 ——十五歳の頃。


 骨が軋む音が聞こえた。手首の関節が、繰り返しの衝撃で悲鳴を上げていた。医務官に「このまま続ければ、手が使い物にならなくなる」と警告された。


 振った。


 翌日も、その翌日も。骨が軋み、筋が引き攣り、肘が腫れ上がっても。


 何も考えず、ただひたすらに振る。


 その時だけ、世界が静かになった。嘲笑も、同情も、自分の中の不安も——全てが消えて、ただ剣と自分だけが残った。


 ——そして、今。


 目を開けた。


 景色が変わっていた。丘陵地帯は終わり、深い森が道の両側に迫っている。木々の枝が空を覆い、午後だというのに薄暗い。空気が冷たく、湿っている。どこかで獣の遠吠えが聞こえた。


 御者が、馬の手綱を握る手に力を入れた。


「……兄さん、あの砦に行くのかい」


 初めて口を開いた御者が、ちらりと後ろを見た。


「噂じゃ、先月の駐屯兵は半分が帰って来なかったって話だ。無理に行くことは——」


「構わない」


 グレイは木剣の柄を握り直した。


 その時、馬が嘶いた。


 前足を高く上げ、荷馬車が大きく揺れた。グレイは荷台の縁を掴んで体を支えた。御者が手綱を引き絞り、馬車が急停車する。


 前方の道に、何かがいた。


 木々の間から這い出てきた、黒い影。二つ。三つ。いや、もっと。


 黄色い目が、暗闇の中で光っていた。


 獣の目だった。


 暗闇の中に、無数の黄色い光点が浮かんでいる。低い唸り声が地面を這い、空気を震わせた。


 御者が荷台から飛び降りた。


「化け物だ——!」


 馬の繋ぎを切り、そのまま来た道を走り去った。蹄の音と悲鳴が遠ざかり、すぐに森の闇に飲まれた。


 グレイは荷台に立ったまま、前方を見た。


 月明かりが木々の隙間から差し込み、影の輪郭を照らした。


 狼型の魔獣だった。通常の狼の二倍はある巨体。黒い毛皮は金属光沢を帯び、牙は鉄のように鈍く光っている。四体。いや——横から二体。後方からも気配。合わせて八体。


 包囲されている。


 グレイは荷台から降りた。腰の帯から——儀式用の白帯を外し、代わりに鞄から木剣を取り出そうとした。


 手が止まった。


 木剣では、魔獣の硬い毛皮は斬れない。


 荷台の隅に、支給品の鉄剣があった。赴任先で使うために渡された粗悪な量産品。刀身は薄く、刃は既に鈍っている。だが、木よりはましだ。


 鉄剣を抜いた。手に馴染まない重さ。バランスが悪い。柄が太すぎて、握り込むと小指が浮く。


 前方の魔獣が、一歩踏み出した。


 地面を引っ掻く爪の音。唸り声が、低く長く続いている。


 グレイは剣を構えた。正眼。足は肩幅。膝を僅かに曲げ、重心を落とす。何万回も繰り返した、基本の構え。


 最初の一体が跳んだ。


 速い。だが——軌道は読めた。


 右前足が先。体重は前に。跳躍の頂点で牙を剥き、喉を狙う。


 グレイは半歩横に出た。跳躍の軌道から外れ、すれ違いざまに鉄剣を振った。


 ——斬れた。


 刃が毛皮に食い込み、肩口から胴体の半ばまで裂いた。魔獣が悲鳴を上げて地面に転がる。


 だが、鉄剣を見て、グレイの顔が強張った。


 刃が、歪んでいた。


 一撃で、粗悪な鋼が魔獣の硬い毛皮に負けて曲がっている。次は——もう斬れない。


 二体目が左から。三体目が正面から。同時に来た。


 グレイは左の一体を蹴って突き放し、正面の一体に剣を叩きつけた。刺すのではなく、打つ。歪んだ刃が魔獣の顎を打ち、弾いた。


 手応えが、鈍い。刀身が限界だ。


 四体目が後方から跳んだ。


 振り返りざま、渾身の力で剣を振った。何万回と繰り返した素振りの軌道。腰の回転を肩に伝え、肘を支点に、手首のスナップで刃を走らせる。


 振り抜く速度だけは——異常だった。


 風切り音が鳴った。空気が裂けるような、鋭い音。


 だが。


 金属が悲鳴を上げた。


 鉄剣が——折れた。


 刀身の中ほどから、金属疲労を起こしたように断裂した。折れた刃が宙を舞い、月明かりを反射して消えた。


 手に残ったのは、柄と、わずかに残った刃の根元だけ。


 グレイの手が震えた。今度は、恐怖で。


 前方の砦が見えた。月明かりに照らされた石の壁。だが——壁は崩れていた。門は破壊され、見張り塔は倒壊し、中からは何の明かりも見えない。


 壊滅している。


 赴任先の砦は、既に魔獣の群れに潰されていた。


 背後で、新たな唸り声。左右からも。包囲が狭まっている。


 折れた剣を握り直した。柄だけの、もう何も斬れない鉄の棒。


 魔獣たちが、ゆっくりと距離を詰めてくる。八つの黄色い目が、獲物を値踏みするように光っていた。


 逃げ場は、ない。


 グレイは折れた剣を構えた。構えだけは——何万回と繰り返した、正しい構え。


 月が雲に隠れた。


 闇の中で、最初の一体が跳躍した。

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