臨戦態勢
翌日、早くも動きがあった。
市長が氷炎伯の指示通り評議会へ働きかけたのをマルヴァンテは見過ごさず、すぐさまその市長を使いとして送り返してきたのだ。
「……こちらを預かってまいりました」
市長は氷炎伯へ一通の封書を差し出すと、落ち着かない様子でその場に立っていた。
「鬱陶しい。座っておれ」
市長がすごすごと腰掛けたのを尻目に、氷炎伯は執事から受け取った書状へと鋭い視線を走らせた。
「読め。貴様の意見を聞いてみよう」
目の前に投げつけられた書状を、市長は何度も読み返しながら慎重に言葉を選んで口を開いた。
「『王女殿下の王位継承権放棄の宣誓書へ署名すること』が夫人の要求にございますな。交渉の場は沖合に停泊する船の上。応じれば王女殿下との和睦を保証する、と書かれておりますな」
「見せかけの茶番だ。王女殿下を船に誘い出し、そのまま船ごと沈めて証拠隠滅を図る気だ」
「いかがなさいますか?」
「王太子殿下には悪いが、断る」
「……はい?」
「貴様は戻って、王太子に仇は必ず討つから安心して死ねと伝えるよう、あの毒婦に話せ」
「ですが……っ!?」
「いいから、さっさと伝えてこい!!」
氷炎伯の一喝に跳び上がるほど動転した市長は、命からがら部屋から逃げ出していった。執事は逃げる男を見送ることなく、氷炎伯へ静かに声をかけた。
「……よろしかったのですか、閣下」
「こんなもの、組織側にもう後がないと分からせるための挑発だ。……間違いなく今日明日のうちに夜襲を仕掛けてくるぞ」
そこへ、慌ただしく伝令の兵が駆け込んできた。
「失礼いたします!」
「入れ」
「マルヴァンテ夫人が、船で港を離れたとの報告が入りました!」
「高みの見物か……。外の隊を集結させ、今夜の襲撃に備えよ。街の憲兵どもは信用するなよ」
「はっ!」
「では閣下、私は館の支配人に話を通しておきます」
執事は伝令と共に深く一礼して下がり、氷炎伯も自室へと戻ると、厚手の革の胸当てを身につけ、近衛剣士ロッドのもとへ向かった。
「直ちにモエを呼び戻し、部屋から出すな。カランには王女とモエをいつでも逃がせるよう準備させておけと伝えよ」
「はっ!」
そこから氷炎伯は部下たちを集め、次々と指示を飛ばしていった。
「デイル、奴らは館ごと火を放ってくるかもしれん。敵の討伐より撤退と王女の護衛を優先して立ち回れ。グリーンは先にセーフハウスへ向かい、周辺の警戒にあたれ」
「はっ!」
矢継ぎ早に指示を終えた頃、支配人との交渉を終えた執事が戻ってきた。
「一階の資材倉庫を空けさせました。あそこは厨房からしか入れず、すぐに裏口から逃走できる構造になっております」
「よし……ひとまず王女らをそこへ避難させるか」
氷炎伯が王女たちの部屋を訪ねると、モエと王女はハンターの旅装を整えていた。そしてカランは、先日買い求めた深い裾のドレスを身に纏い、暗器を仕込んだベルトに、あの不気味な小斧を引っかけていた。
「薬の準備は万全。いつでも怪我していい」
「…よし、まずは移動だ」
執事の案内で、すでに灯りの落とされた暗い厨房を通り抜け、一同は奥の資材倉庫へと移動した。頑丈な扉の前には、館の警備兵六人が陣取っていた。
「敵が動くまで、しばらくは様子見だな。どれ、腹ごしらえでもするか」
いつの間に用意したのか、氷炎伯は焼き立てのパンが詰まった籠を手にしていた。それを見て、王女が静かに微笑む。
「……本来なら恐ろしい出来事のはずですのに、不思議と胸の奥が熱くなってまいります」
「王女よ、それが『滾る』というやつだ」
王女の秘めたる芯の強さに安堵したポルターは、ひとまずその場を離れ、前日に街中や館のあちこちに仕込んでおいた得物の点検に向かった。
梁の上や鉢植えの陰などに隠したものは、館の手入れが行き届いているせいか撤去されてしまっていたが、廊下脇の用具倉庫に隠しておいた鋭利なナイフは無事だった。
「まあ、これだけありゃ十分だ。……とりあえず外で待ち伏せするとしよう」
静寂が支配する夜の闇の中。
哨戒に立つ氷炎伯の護衛たちの目を盗むようにして、宙に怪しく浮かび上がる何本ものナイフ。それらは静かに裏庭を通り抜け、闇に包まれた裏路地へと消えていった。
―さあ来い
続




