鷹視狼歩
―ゴトリ……
暗闇の中に静かに響いた物音に続き、ポルターが満足げに呟いた。
「よし。あと三日といったところか」
砦の片隅で謎の作業を終えたポルターは、樽から訓練用の模造剣を抜き放ち、虚空で振り始めた。実体を持たぬ身ゆえ、剣は宙に浮いているようにしか見えないが、これまでの鍛錬の成果か、今ではまるでその手で堅固に握っているかのように鋭く操ってみせる。
「記憶がほぼ戻ったおかげで、型の鍛錬が随分と捗るようになったな」
一心不乱に剣を振り、日の出の光が差し込むのを合図に、その日の鍛錬を終えた。
「本日より、王女に執務の見学を許す。特段の機密事項を除き、普段通りに報告を行え」
大広間に集められた使用人たちを前に、氷炎伯が厳かに宣言する。朝礼が終わると、王女は支給された文官の服に身を包み、執務室の脇に静かに控えた。
机に向かった氷炎伯が、ふと視線を上げて言う。
「別に、椅子に掛けていても構わんぞ」
「いえ。学ばせていただく機会を、僅かでも粗末にはできません」
「戦に勝たねば、これら全てが無駄になるのだぞ。そんなに学びたいのなら、戦士長から戦術でも教わったらどうだ」
「付け焼き刃の戦術など、誰も相手にしないでしょう。私に必要なのは氷炎伯のような、常に揺るぎない強い立ち振る舞いなのです」
「ふん、むず痒いことを言う。まあ、好きにせよ」
特に大きな波乱もないまま三日が過ぎた深夜、砦での支度を終えたポルターは、ひそかに王女の部屋へと向かった。
「姫様、どうかこれで察してください……」
寝静まる王女の枕元に、ギルドの封筒をそっと置く。中には、かつて手に入れたモエのカルテと、ポルターが目印として作った橙色の押し花が納められていた。
翌朝、ポルターは王女の劇的な反応を期待していたが、目論見は外れた。王女は封筒の中身を確認したものの、その後は何事もなかったかのように普段通り執務を見学し、午後には氷炎伯の鍛錬に同行した。
「剣は振れるか?」
「いえ……触ったこともありません」
「そうか」
氷炎伯が訓練場の一面にある引戸を開け放つと、弓の的がずらりと並ぶ中庭が姿を現した。
「まあ、一朝一夕で教えられることなどない。楽にしておれ」
氷炎伯は壁から長弓を手に取ると、流れるような動作で的を次々と射抜き始めた。その圧倒的な技量を前にあてられた王女は手近な短剣を手に取り、見よう見まねで戦士の真似事をしてみたが、扱いきれずにすぐ諦めたようだ。
「姫様、頑張れ……!」
もはや乳母を通り越し、孫の成長を見守る祖父のようになっているポルターの祈りは届かず、王女は小さくため息をついて、短剣をそっと壁のラックに戻した。
――ガタリ……。
突然、ポルターの背後で引戸が重苦しい音を立てた。
「ん?」
氷炎伯が構えた弓を下ろすと引戸の陰から、ぬっと這い出るようにカランが姿を現した。
「ひょ、うへん、はく……しゃま……」
「カラン、 なぜここへいる?」
「ひょうは……くしゅりの、ひにごじゃます……」
ずるずると足を引き摺りながら中へと入ってきたカランは、突然ガクンと膝を折って床に崩れ落ちた。
「おい!」
氷炎伯が弓を置き、手を貸そうと歩み寄ろうとした、その刹那。
カランは想像を超える速度で、鋭く腕を突き出した。
――カンッ!
鋭い音が響き、王女のすぐ背後の壁に、一本の暗器が深く突き刺さる。カランの明確な殺意が、その場に露わになった。
「くしょっ!」
次の暗器を構えるカランを見た氷炎伯は、王女の前に割って入り、鬼の形相でカランを睨みつける。
ポルターは、カランの忠臣ぶりを見くびっていた己の慢心を、激しく呪った。
「止めろ、カラン!」
氷炎伯の鋭い制止の声すら、今のカランの耳には届かない。怒りと狂気に身を焦がし、地を這うその姿は、ポルターがかつて対峙した魔獣『黒地竜』にも劣らぬ不気味な気配を放っていた。激しく呻きながら、爪で床を掻き王女に迫ろうとする。
「なじぇ……おおじょ……おおじょ!!」
ポルターは、最悪な光景に凍りついた。
王女を護るのは絶対だ。しかし、狂乱しているカランもまた、死なせてはならない救済の対象なのだ。
―ど、どうするんだよ、これ……!?
低く唸り声を上げるカランと、王女を庇って迂闊に動けない氷炎伯。
いつ爆ぜてもおかしくない極限の緊張感が全員の時間を止め、訓練場には、肺が潰れそうなほどに重苦しい沈黙が立ち込めた。
続




