合縁奇縁
「なんだか、前と雰囲気が違うな……」
屋敷を訪れたポルターは、中庭の練兵場を見て小さく呟いた。そこに集まり、陣形の訓練に励む兵士たちからは、一様にただならぬ殺気が漂っている。
「全員、整列!」
戦士長の野太い号令が響き渡ると、総勢200名ほどの兵士たちが一斉に隊列を整えた。
ほどなくして、屋敷の重厚な扉が開き、濃紺のドレスを身に纏い、顔をベールで覆った氷炎伯が姿を現した。
「敬聴せよ!」
再び戦士長の号令がかかり、兵士たちは居住まいを正す。氷炎伯は静かに列の前に進み出ると、凛とした声を響かせた。
「共和国との交渉の日は近い。だが、それに反発する蛮族どもが仕掛けてくることは、想像に難くない。国境を越えて侵入してくる者に容赦は不要だ。しかし、敵の挑発に乗ってこちらから国境を越えることなど、断じてまかりならん。諸君らは、己が蛮族とは違うということを肝に銘じ、事に当たれ」
「応!!」
地を震わせるような咆哮とともに、兵士たちは隊列を組んで次々と出発していった。ポルターは、かつて生きていた頃、その隊列に混じっていたかもしれない己の姿をぼんやりと想像しながら最後まで見送り、その後、氷炎伯の背を追うようにして屋敷へと足を踏み入れた。
屋敷の廊下を進みながら、氷炎伯は隣を歩く戦士長に問いかけた。
「戦士長、街道の警備に抜かりはないか?」
「はっ。すべて順調であります」
「よし。公爵からの報せはまだ届いていないが、いつ到着しても良いよう、万全の備えをしておけ」
「はっ、御意に」
「頼んだぞ」
―巌公の到着は、まだ先なのだろうか
ポルターが見守る中、氷炎伯は午前中を執務室での書類仕事に費やし、午後からは屋内の稽古場へ移動して戦士長と激しく剣を交えていた。
そこへ、執事が、そっと入ってきた。それに気づいた氷炎伯は、これが仕上げと言わんばかりに、愛剣エストックによる鋭い連撃を繰り出し、戦士長を鮮やかに打ち負かした。
息を切らせて床にへたり込む戦士長をよそに、氷炎伯は執事の差し出した小さな紙片を受け取り、目を落とした。そして、すぐに指示を飛ばす。
「公爵の馬車が国境を越えた。すぐに通りを封鎖……いや、今からでは間に合わんな。兵を並べて出迎えるだけで良い」
「はっ、ただちに」
「事前の報せもなしにここまで馬車を駆ってくるとは。どうやら、あまり良い話ではなさそうだな」
執事は主の言葉に同意するように深く頭を下げ、「こちらも急ぎお召し替えのご支度を」と言い残して下がっていった。氷炎伯はしばらくその場で素振りを続けていたが、やがて息が上がると、私室へと戻り侍女に湯浴みの支度を命じた。
「おっと、ぼんやり見ている場合じゃないな」
侍女たちが慌ただしく湯を運ぶ様子を見たポルターは、気まずさを覚えて部屋から退散した。そして、誰もいなくなった稽古場へと戻り、一人で剣を振るい始めた。
「やはり、鍛錬は良いな。気が引き締まる」
いまやポルターの剣筋は、かつてのような力任せのものではなかった。生前の高度な剣技を確かめるように、流れるような軌跡を描いていく。これも肉体が記憶している遺産なのだろうか。
ひとしきり技を確かめたポルターは、屋敷を出て通りへと降り、巌公の到着を待ち構えた。やがて、見張り塔の兵士が激しく旗を振り、接近を知らせる。速度を緩めることなく、砂塵を巻き上げて目抜き通りを駆け登ってきた騎士団と馬車が、ポルターの目の前を猛然と通過していった。
「事情は知っているが、ここまで焦りを隠さないとは……。巌公も心中穏やかではなさそうだな」
その様子を見るポルターの口調には、どこか達観した響きがあった。すでに巌公に対して、過度な期待を抱くのをやめてしまったかのようだった。
屋敷の前では、双方の文官たちが形式的な挨拶を交わしている。ポルターはその脇をすり抜け、貴賓室へと先回りした。室内では、通されたばかりの巌公と戦士長が挨拶を交わしていた。
「急な訪問となってしまいすまぬが、明日までよろしく頼む」
「閣下、お心遣い痛み入ります」
戦士長はその粗野な風貌に反して、非の打ち所がない礼儀作法を見せる。己の立場を弁え、余計な世間話には一切触れず、「すぐに湯の手配をいたします」と言い残して速やかに退出した。
しかし、巌公に付き従ってきた老執事は、去りゆく戦士長の背中を不愉快そうに見送ると、主の顔色を窺いながら不満を口にした。
「出迎えに主人が顔を見せぬとは、些か礼儀を欠いているように思われますな」
「うむ。だが、あやつとて意図して不義理を働いたわけではなかろう。ここは堪えよ」
「……承知いたしました」
「それよりも、共和国との交渉の根回しがどうなっているか、様子を見てこい。判断はお前に任せる」
「では、ただちに」
ポルターは、部屋を出る老執事の後に続いて会議室へと入った。
中では、双方の文官たちが共和国との合意条件を巡り、激しい議論を戦わせていた。
「金の問題ではないのだ! 我々が一方的に手を引いたと周囲に受け取られるのは、断じて承服できん!」
「しかし、今は国の大事にございます! 何卒、ここは怒りをお収めいただき、大局を見ていただきたい!」
「いいや、認めん! 不可侵条約など、向こうに足元を見られるだけに決まっている! 元はと言えば、あやつらが自領の蛮族どもを御しきれないから、このような事態になったのだぞ。ここは『次はない』と、我が国の威光を見せつけるべきだ!」
「うーむ……」
王女奪還のために一刻も早い合意を焦る巌公の立場と、領地の存亡に直結しかねない氷炎伯の立場。二つの間に横たわる利害の溝は、想像以上に深く、簡単には埋まりそうにない。
その後も、議論は平行線をたどったまま時間だけが過ぎていく。じっとその様子を観察していた巌公の老執事が、口を挟んだ。
「この場で議論を続けても、到底まとまりそうにございませんな。ひとまずここは休戦とし、明朝改めて仕切り直すというのは如何ですかな?」
氷炎伯側の文官の一人が、救われたと言わんばかりにすぐさま賛同の声をあげる。
「左様ですな。公爵様と我が主が直にお話しになれば、何か妙案が浮かぶやもしれません」
「仰る通りにございます。では、本日の軍議はここまでにいたしましょう」
老執事の鮮やかな手際に、この場の主導権を握ったつもりだった議長らしき男は、渋々といった様子で応じるしかなかった。
「……承知した。では、続きは明朝に」
席にいた全員が立ち上がり、会議は散会となった。
一連のやり取りを見ていたポルターは、この段階ではどちらの立場を支持すべきか決めかねていた。共和国に王女を留まらせたとして確実に保護し続けるという保証はなく、かと言って彼女を王都に帰還させたところで、待ち受けているのはさらなる乱世なのだ。
「氷炎伯はあくまで中立を保ちたいのか、姫様と面識が薄いのか、これっぽっちも関心を示していないし……一体どうしたものか」
ポルターは深い溜め息をつきながら広間へと移動し、晩餐の始まりを待つことにした。
やがて夜を迎え、豪奢な食卓を前に二人の主役が対面した。
「ようこそおいでくださいました、閣下。先ほどは出迎えに参上できず、大変な無礼をいたしました」
「構わん、気にするな」
「恐れ入ります。では、お席へどうぞ」
給仕の侍女たちを下がらせ、氷炎伯は自ら進み出て巌公の椅子を引いた。その一連の動作は、純粋に爵位の差を弁えた礼儀作法に過ぎず、二人の間に親密な情があるようには見えない。
氷炎伯が席に着くと、静かに飲み物が供された。食事の席では、お互いに毒にも薬にもならない当たり障りのない世間話に終始し、皿がすべて片付けられたところで、ようやく完全に人払いがなされた。
「それで……随分とお急ぎのご様子ですが、王都で何か不測の事態でも御座いましたか?」
「うむ。早速だが、そこから話さねばならん」
巌公は、貴族院での決議から王都を揺るがしている幽霊騒ぎに至るまでを包み隠さず語り、氷炎伯はそれを黙々と聞き入っていた。
一通りの話を終え、喉を潤すように盃を呷る巌公に対し、氷炎伯は静かに問いを投げかけた。
「幽霊騒ぎの話は、実に興味深いものです。閣下のお立場も十分に理解いたしました。それで……我は、何をお手伝いすればよろしいのでしょうか」
「うむ。何はさておき、まずは共和国との交渉をまとめ上げねばならん。先ほどの会議は物別れに終わったようだが、不可侵条約の件は取り下げよう。代わりに、こちらの兵をアルマダンに駐留させ、向こうの軍と共同で蛮族を監視するというのはどうだ?」
「閣下は、よほど共和国からの信頼が厚いのですね。その条件であれば異論はございません」
「そうか! 快諾してくれるか」
「今は何よりも、閣下の足元を固めることが最優先にございますから」
「うむ……ありがたい。それで、王女の件についても一つ、頼みがあるのだ」
「ほう。我が領地を通過されるだけであれば、好きにお通りください。一切の邪魔立てはいたしませんよ?」
「いや、そうではない。本格的な戦が始まるまでの間、王女をこの氷炎伯領で預かっていただきたいのだ」
「お断りいたします」
氷炎伯の冷徹な一言で、室内の空気が一瞬にして凍りついた。
「我は、此度の戦火に加わるつもりは毛頭ございません。閣下の頼みとはいえ、そこだけは譲れぬ一線にございます」
「待て待て、何も戦に加われと申しているわけではない。互いの布陣が整うまでの、ごく短い期間の話だ。王都の奴らは手段を選ばぬ。ゆえに、王女殿下の移動はギリギリまで控えたいのだ」
「だとしても、我が領で匿えば王太子とて遅かれ早かれ気づくはず。もし王家から正式に引き渡しを要求されれば、私は躊躇なく王女を向こうへ引き渡しますぞ?」
「……だからこそ、こうして頭を下げて頼んでおるのだ」
氷炎伯は不快げに視線を落とし、しばしの沈黙が部屋を支配した。やがて、彼女は静かに顔を上げた。
「王女殿下ご自身は、この戦をどうお考えなのですか?」
「これまでは国を憂い、ご自身の首を差し出してでも争いをお収めになろうとされていた。だが、それでも戦が避けられぬ状況であることを丁寧にお伝えし、ご納得いただくつもりだ」
「納得、ですか……」
「心配は要らん。我らの窮状をお伝えすれば、殿下は必ずや民のために立ってくださるはずだ」
「――それを、この我が目で直接見極めてもよろしいですか?」
「何だと?」
「先ほどの預かりの件にございます。我が王女殿下と直接お話をさせていただき、お覚悟が本物であると確信できれば、そのお役目、謹んで引き受けましょう。これなら如何ですか?」
「うーむ、しかしだな……」
「我ごときの揺さぶりに屈するようでは、そもそも一国の王など務まりますまい」
その言葉に、巌公はしばらく考え込んだ。
「氷炎伯による王の試練、ということか。良いだろう。こちらばかり要求を押し付けるのも業腹であろうから、その条件を呑もう。だが、決して殿下を脅かすような真似は控えてくれよ」
「もちろんです。我は、戦場に向かう覚悟を持つ者であれば、誰であれ鼓舞する性質ですので」
「そうだったな。ところで、風の噂で地竜とやり合ったと聞いたが、そのベールはそれが原因か?」
「ええ。いよいよもって、婿探しも難しくなりました」
「それはなかろうが……。しかし、そなたのお抱えの治癒師を以てしても、治せぬのか?」
「残念ながら、今のところは手立てがございません」
「実に気の毒なことだ。他の怪我は大事ないのか?」
「はい、おかげさまで体は万全です。ですが、このような顔で表舞台に出るのはまだ憚られますので、明日からの共和国との交渉の場は、すべて閣下にお任せしてもよろしいでしょうか」
「もちろんだとも。そうか、それほどの大怪我とは知らなんだ。さあ、長話も傷に障るだろう。今宵はここまでにしよう」
「温かいご配慮、痛み入ります」
「いや、こちらこそ急に押しかけて済まなんだ」
「では、滞りなきよう手配を申し付けておきますゆえ、閣下もどうぞご安心してお休みください」
「うむ、ではまた明日な」
二人が退室し、再び静まり返った広間で、ポルターは興奮を隠せない様子で独り言ちた。
「思わぬ機会が巡ってきたな! 姫様が氷炎伯に認められれば、当面の間だとしても確実な保護を受けられる。……しかし、あの傷が治せないというのは初耳だな。ここの治癒師でも駄目だなんて……ああっ!」
ポルターが思わず奇声をあげたのは、王都にいる一人の「変人」の顔を思い出したからだった。
「……いや、しかし、どうやって繋げたらいいんだ?」
妙案を思いついたのも束の間、ポルターはすぐに大きな壁にぶち当たることになった。
思い浮かべたその稀代のアルケミストは、店に看板すら掲げていない、ただの無名な平民なのだから。
続




