二律背反
カランは冷たい床に這いつくばっていた。少し離れて立つ侍女頭のアルテマは、手を差し伸べるでもなく、ただ黙ってその姿を見下ろしている。
「ふぅ、ふぅ……」
カランは傍らのチェストにしがみつき、必死に身体を起こそうとする。しかし、どうしても立ち上がることができず、悔しさにまみれた目で天井を睨みつけた。
「あなたが失意のあまり、おかしな気を起こさないように見張れと殿下から仰せつかっていましたが……どうやら杞憂でしたね」
「だまりぇ、アルテマ……」
「その不屈の生き甲斐を邪魔するのは心苦しいのですが、一度ベッドに戻りましょう」
「うるしゃい」
「いいから。私は早急にあなたのためのマスクを作るよう、殿下から直々に命じられているのです」
アルテマが今度こそ手を差し伸べたが、カランはその手を荒々しく払いのけた。するとアルテマは、勢い余って再び床に突っ伏したカランの両脇を容赦なく掴み――「よいしょ」と軽い掛け声とともに担ぎ上げ、ベッドへと放り投げた。
「侍女頭さん、すげえな……」
傍から様子を窺っていたポルターは、その予想外の怪力に我が目を疑った。
「わ、わたひに……しゃわるな!」
「ダメです。殿下が、見苦しい口元を見たくないと仰っているのが分からないのですか?」
「なっ……!」
「カラン。殿下のために己の価値を取り戻そうと、必死に足掻いているのは理解できます。ですが、元通りを目指したところで、無理なものは無理なのです」
「……きしゃま……何が言いたい」
「殿下は、あなたが負い目から無茶をすることに、深く心を痛めておられるのです」
「うしょだ!」
「『王ではなく城に仕えよ』――」
アルテマの口から出た言葉に、カランは怪訝な表情を浮かべた。
「……?」
「私達使用人は道具であり、主従という高尚な関係ですらない。要するに、城の中で何を見聞きしようが、道具風情が余計な関わりを持つなということです。そして、勤めを果たせなくなれば、本当に無価値な存在として切り捨てられる」
「しょれが、なんだと云うのら?」
「そんな私たちと違って、本物の主従の間には、真の友のような『絆』が生まれるのだそうです。無論、人には恋慕や情欲もありますから、全てが綺麗なものとは限りませんが……殿下は、あなたとの間にある絆を信じておられます」
「……分かりゃない」
「馬鹿ですね。今のあなたは、忠義という言葉で自分を誤魔化しながら、ただ『捨てられたくない』という恐怖から逃げ回っているだけです。裏を返せば、それは殿下との絆を信じていないということですよ」
「しょんな……ありえない……」
「殿下はあなたに、できるだけ健やかに回復してほしいと願っている。従者としてではなく、大切な人間として。馬鹿ならせめて、素直になって殿下の想いに応えなさい」
「アルテマ……おまえは……本当に口が悪い……」
「口はともかく、これでも優しいと評判なのよ? 私もあなたの友人として、まずは元気になってほしいと思っているわ」
「ばかは、取り消せ……」
侍女頭はニッと悪戯っぽく微笑むと、型紙でカランの口元をぴたりと塞ぎ、手際よく採寸の仕事を始めた。
―カランは果たして、本当に『悪』なのだろうか?
これまでは、王太子を討つべき仇敵とし、その傍らに従うカランも同類の悪党と見なしてきた。しかし、目の前のカランは、自分と同じように己の忠義に必死に生きようとしているだけに過ぎないのではないか。
「正義とは相反するが……王太子が姫様に執着するのさえ止めてくれれば、俺だって使命のためにあいつを支援してやるのにな」
※ ※ ※
ポルターは胸の奥に澱のように溜まるモヤモヤを抱えたまま、城を後にした。
いつもの土手に寝そべり、流れる雲をぼんやりと眺める。
このところ、かつては関わるはずもなかった政治の世界や、王太子とカランが持つ人間性を垣間見るうちに、いつの間にかそれらに毒され、物事を達観し始めている自分に気づいていた。その変化が、ポルターにはたまらなく不安だった。
「正義と忠義は、両立できない、か」
為政者がいかに高潔な志を抱こうとも、支持を得られなければ何も成し遂げられない。妥協は避けて通れないのだ。現に氷炎伯は高潔な人物だが、先王の暗殺に対してあえて無関心を貫くことで、自領に火の粉が及ばぬよう立ち回っていた。事を荒立ててまで貫こうとする普遍的な正義など、結局のところ、どこまでも自己満足に過ぎないのかもしれない。
「不敬極まりないが……もし仮に姫様が何か道に外れた企みをしたとして、俺は己の正義のために姫様を咎めることができるだろうか。……いや、できないな」
その思考がいかに危ういか、ポルター自身も痛いほど理解していた。
都合よく正義の天秤を折り曲げる自分が、他人の悪事を咎めることなど不義理の極みだ。
「そこが矛盾してしまうから、俺は王太子を『絶対悪』として割り切れないんだ」
しかし、王女の身の安全ばかりを優先し、名誉を蔑ろにしている今の状況はどうなのだ。
―それは果たして、真の『忠義』と呼べるのだろうか…
「ダメだ、ダメだ! もう一度、最初から前提を練り直しだ!」
使命を果たすためには王女の敗北が必要であり、しかし王女の名誉を回復するためには王太子の敗北が必要である。
この相容れない二律背反と、使命失敗の恐怖がポルターを再び出口のない迷路へと引きずり込み、彼は長い時間、そこから身動きを取ることができなくなっていた。
続




