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第8話 約束のもとへ向かう

「……もちろん、そうだよ」


「そうか」


 空羽は笑う。冷たい笑み。彼は立ち上がる。足取りは固い。


「ごちそうさま。もう行く」


「え? でも……」


「静雅が待ってる。約束だから」


 彼は背を向ける。戸口へ歩く。左腕の疼きが強まる。木片が熱く脈打つ。


 記憶の断片が、まだ胸を掴んでいる。優しい手。温かい囲炉裏。


 そして、それが失われた瞬間の、絶望の冷たさ。


 彼は扉を開ける。外の光がまぶしい。一歩踏み出す。


「……思い出させてくれて、ありがとう」


 振り返らずに言う。声は震えていない。


 湊は何も言わなかった。ただ、見送るだけだった。


 空羽は石畳を歩く。足音が響く。胸の内側で、何かが確信に変わっていく。


 あの記憶は、彼のものだ。白雪空羽のものでも、焔城陽太のものでもない。


 第三の何かだ。


 彼は拳を握る。爪が掌に食い込む。疼きが快感に変わる。


「……探す」


 呟きが風に消える。次の目的地へ、歩幅を大きくする。


 めまいはもうない。体の重さも消えた。ただ、胸の熱だけが残る。


 懐かしい味の痕跡。それは、新たな謎の始まりだった。


 ***


 白雪空羽は湊の家を後にした。背中に視線を感じる。振り返らない。


 東の門を抜ける。人通りが途絶える。道は細くなる。


 胸の内側で、鼓動が早い。呼吸が浅い。肩に力が入る。


 足元がふらつく。地面が揺れる。彼は立ち止まる。目を閉じる。


 記憶の断片が、視界を掠める。炎の臭い。悲鳴の残響。


「……夷涼」


 声に出した言葉が、体を引き締める。歩き出す。


 道端に、焦げた木片が転がる。彼は拾う。掌で転がす。感触が鋭い。


 かつてここに何があったのか。誰が住んでいたのか。


 指が震える。冷えが指先から広がる。


 干し肉を齧る。硬い。顎が疲れる。しかし、噛むリズムが思考を整える。


 西日が傾く。影が長く伸びる。彼の影は、二重に揺れる。


 もう一つの影だ。記憶の亡霊が、彼にまとわりつく。


 突然、胸が締め付けられる。息が詰まる。彼はうずくまる。土の匂いが鼻を刺す。


 掌の木片が熱を持つ。微かに震える。怨霊の気配か。それとも――。


「焔城……陽太 白雪空羽は、湊の家の扉の前で立ち尽くした。足が地に根を下ろした。西日が背中を押すが、一歩も動けない。


 胸の奥で、何かが軋む。鼓動が速い。浅い息が喉を掠める。彼は左手首を握る。冷たい感触が皮膚に食い込む。


 焦げた木片が懐で重い。夷涼の地の記憶が、呼んでいる。昼食の光景が頭を過る。静雅の言葉が、耳の奥で響く。


 『信じるものが、違うだけだ』


 その一言が、躊躇を切り裂く。彼は背を向けた。湊の家を離れる。足取りは最初、重かった。次第に速くなる。


 道を北へ。人気が薄れる。建物が疎らになる。空気が冷たく澱む。


 彼は干し肉を齧りながら歩く。顎に力が入る。噛み砕く行為が、思考を一点に集める。夷涼の地。孤児だった場所。


 景色が荒れる。草は枯れ、土は露出する。遠くに焼け焦げた屋根の跡が見える。かつての集落だ。


 足が自然にそこへ向かう。心臓が高鳴る。これは空羽の恐怖か。それとも、陽太の期待か。


 焼け跡の中央に立つ。風が唸る。廃屋の影が、夕日に長く伸びる。彼の影と、もう一つの影が地面で重なる。


 懐の木片が熱を帯びる。ぴりぴりと震える。彼は取り出す。焦げ目が、目の前の廃屋の柱と一致する。


「……ここか」


 彼が幼き日に逃げ込んだ、焼け落ちた家。記憶の断片が、視界を歪める。熱さ。焦げ臭さ。悲鳴が聞こえるような気がする。


 彼は膝をつく。土を掴む。冷たい土の下から、微かな温もりが伝わる。怨霊の気配ではない。残り火のような、記憶の熱だ。


 掌の木片が、一瞬、強く光った。 木片が光る。その瞬きに、視界が歪む。


 焼け跡が消える。廃屋がよみがえる。柱や壁が組み上がる。夕日が朝日に変わる。煙の臭いが、粥の匂いになる。


 幼い陽太が、台所の隅にうずくまる。腹が鳴る。寒さが骨に染みる。外で大人の足音が行き交う。誰も彼を見ない。


 焔城陽太の記憶が、白雪空羽の五感を侵す。手のひらが小さくなる。布切れで包まれた指が震える。飢えが胃を締め付ける。


 足音が近づく。扉が開く。影が差し込む。少年が立っている。青い装束。腰に短剣。目が鋭い。


「おい、そこで何してる」


 少年は蹲る。幼い陽太を見下ろす。眉をひそめる。手を差し伸べる。掌に干し肉がある。


「食え。死んでたまるか」


 幼い陽太は警戒する。しかし飢えが勝つ。手を伸ばす。肉を掴む。噛み付く。


 少年は笑う。歯を見せる。


「俺は湊だ。瑞江湊。お前、名前は?」


 幼い陽太は首を振る。名前などない。孤児だ。


「そうか。じゃあ、俺が付けてやる。陽だ。太陽の陽。どうだ」


 幼い陽太は肉を噛みながら、頷く。涙がこぼれる。初めての名前に、胸が熱くなる。


 光がまた揺らぐ。景色が溶ける。


 今度は別の場所だ。広い講堂。机が並ぶ。若者たちが座る。皆、青い装束。陽太もその一人だ。背筋を伸ばす。しかし居心地が悪い。


 講師が話す。仙門の掟。正道のあり方。陽太は机の下で、指を軽く叩く。退屈だ。息苦しい。


 扉が開く。新しい講師が入る。白銀の髪。青みがかった瞳。静かに歩み寄る。視線が陽太に止まる。一瞬、目が合う。


 静雅が口を開く。声は凜としている。


「鬼道について、問おう」


 ざわめきが起こる。陽太の背筋が凍る。指の動きが止まる。


「その力は、何を求めるものか」


 静雅の目が、陽太を貫く。探るように。しかし非難ではなく。純粋な疑問だ。


 陽太は答える。喉が渇く。


「……自由です。縛られない力です」


 講堂が静まる。弟子たちが驚く。しかし静雅は微かに頷く。


「ならば、その自由が何を壊すか。考えよ」


 問いは投げかけられたまま、宙に浮く。陽太は答を出せない。ただ、その視線が忘れられない。見透かされるような、しかし温かい目。


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