第9話 焼け跡に座し己を問う
光が乱れる。記憶が混濁する。
白雪空羽が焼け跡に倒れる。膝をつく。土を掴む。胸が激しく波打つ。二つの記憶が脳裏で暴れる。
幼い陽太の飢え。湊との出会い。初めての名前。講堂の緊張。静雅の問い。全てが今の彼を形作る。
「俺は……どっちだ」
空羽としての十七年。陽太としての二十一年。どちらが本当か。鼓動が耳を打つ。心臓が二つあるように疼く。
焦げた木片が、まだ熱い。彼はそれを見つめる。鬼道の力が、ここから始まった。怨霊の気配を感じ取る感覚。あの日、この焼け跡で目覚めた。
「静雅……」
名を呟く。胸が締め付ける。複雑な感情が渦巻く。あの講師は敵だった。青蘭一族の者だ。しかし、あの眼差しだけは違った。
彼は立ち上がる。足元がふらつく。しかし、決意が固まる。
「どちらも、俺だ。空羽でもあり、陽太でもある」
西日が沈みかける。影が一つになる。二重の影が、一つに収束する。
彼は懐に木片を収める。熱が冷める。震えが止まる。
「鬼道の力も、静雅への思いも、逃げずに向き合う」
風が吹く。焼け跡の埃が舞う。彼は背を向ける。足取りは重いが、確かだ。
夷涼の地を後にする。二つの記憶を胸に、一人の人間として。
道を戻る。湊の家が見える。窓に灯りがつく。夕食の準備だ。
彼は立ち止まる。深呼吸する。冷たい空気が肺を満たす。
「まずは、湊に話そう。全てを」
歩き出す。一歩。また一歩。重い足が、前に進む。
記憶はまだ疼く。しかし、もう迷わない。過去と今を背負って、彼は歩き続ける。
***
湊の家の書斎に立つ。窓から漏れる夕光が、埃を黄金に染める。彼の胸の内側で脈が響く。鼓動が早い。
彼は机の上の巻物に手を伸ばす。指先が触れる。冷たい。体が冷える。寒気がまとわりつく。
「…静雅」
彼は目を閉じる。瞼の裏に、青い衣の影が揺らめく。雲隠れの里の講学。冷たい瞳。初めての言葉。
足元がふらつく。記憶が、今の視界を押し潰す。孤児だった頃の飢え。焦げた木片の感触。湊の温もり。
彼は机に手をつく。深呼吸する。肺が冷たい空気で痺れる。手足が重い。
「境界が、溶ける」
書斎の匂い。埃と古い紙。夷涼の地の焦げ臭。二つが混ざる。鼻の奥が疼く。
彼は巻物を広げる。『人喰い峠』の記述が、くっきりと浮かぶ。だが文字が揺らぐ。記憶の声が重なる。
「鬼道は…罪だ。だが、力は…必要だ」
彼は懐の木片を握る。熱くない。冷たいまま。体に疲れがたまる。めまいがする。
窓の外、灯りが揺れる。湊の姿が通り過ぎる。現実の足音。
彼は目を見開く。書斎に、自分がいる。今、ここに。しかし、心は二つの場所を同時に見ている。
「…空羽だ。今は、空羽だ」
彼は巻物をしまう。手が震えないよう、ゆっくりと。書斎の隅。空羽は高い棚の本を探していた。指先が埃っぽい箱に触れた。箱は滑り落ちた。
中身が散らばる。古い巻物。硯。そして一枚の紙。
彼は紙を拾い上げた。色あせた絵だ。蓮華の里の風景。幼い筆跡。胸が締めつけられる。
絵の端に文字がある。『湊兄さんと』。子供の字だ。読むと、心臓が早鐘を打った。
彼はその絵を見つめた。手足が鉛のように重い。頭がぼんやりする。記憶の底から何かが湧き上がる。
絵の中の橋。実際に渡った橋だ。湊の手を握って。その時の温もりが、今の冷たい指先に甦る。
胸の奥が疼く。脈が響く。絵から目を離せない。
「…なぜ」
声にならない。彼は絵を握りしめた。紙が皺になる。冷たい汗が背中を伝う。
足元がふらつく。書斎の床が揺らぐ。今と過去が、この一枚の紙で溶け合う。
彼は絵を見下ろしたまま、動けない。ただ、胸の痛みだけが、確かな現実だった。 湊の書斎。紙の皺が指に食い込む。白雪空羽は色あせた絵を見つめていた。鼓動が耳朶を打つ。胸の内側が締めつけられる。足元が床に溶け込むようだ。
窓の外、慌ただしい足音が響く。書斎の扉が勢いよく開かれた。湊の息が切れている。顔色が青白い。
「空羽!…急報だ」
空羽はゆっくりと顔を上げた。湊の表情に、冷たいものが背筋を走る。絵を握る手に力が入る。紙が軋む。
「夷涼から東二十里。鏡水湖畔の村が…」
湊の声が途切れる。喉を鳴らす。空羽は動かない。ただ、湊の唇の震えを見つめる。
「山火事だ。一晩で…跡形もない。村ごと、消えた」
書斎の空気が凍りつく。埃の粒子が光の中に静止する。空羽の胸中で、記憶の炎がゆらめいた。夷涼の焦げ跡。焦げた木片の感触。
「…火は?」
「不自然だ、と言う。風もない夜に、湖の畔で」
湊は机に手をつく。膝がわずかに震えている。空羽は絵を机の上に置いた。ゆっくりと。指先が冷たい。
「人喰い峠。それから、夷涼。今度は鏡水湖」
空羽の声は低い。喉の奥が乾く。めまいが頭の奥をかすめる。連なる。点と点が、一本の線で結ばれていく。
「偶然か?」
「…有り得ん」
湊が言い切る。目に険しい光が浮かぶ。空羽は窓の外を見た。夕闇が迫る。遠くの山肌が黒いシルエットを刻む。
心臓が重い音を打つ。人喰い峠の怨霊。夷涼の荒廃。そして、村の消失。すべてが、大きな何かの一部だ。
「仙門百家」
空羽が呟く。言葉が書斎に落ちる。湊の息が止まる。互いの疑念が、言葉にならないまま交錯する。
「陽太…お前はどう思う?」
湊が前世の名で呼んだ。空羽の体が微かに硬直する。寒気が皮膚を這う。しかし、彼は首を振らない。
「陰謀の匂いがする。あまりに…都合が良すぎる」
彼は懐に手をやる。焦げた木片に触れる。冷たい感触が、夷涼の記憶を呼び覚ます。怨霊の気配。火の気配。
「鏡水湖の村。何があった?」
「分からん。報告は混乱している。ただ…」
湊は俯く。拳を握りしめる。
「生存者は、一人も確認されていない」
沈黙が深まる。書斎の灯りが、二人の影を壁に大きく映し出す。空羽は自分の影を見つめた。細く、歪んだ影だ。




