第10話 襲来の予感と静雅への報せ
「狙われている。何かが、ここに向かっている」
彼の声は確信に満ちていた。体の芯が冷えていく。しかし、頭は冴える。静雅の顔がちらつく。あの冷たい瞳。
「静雅に知らせる必要がある」
「青柳静雅を?…だが」
「彼女だけは、違う」
空羽は言い切る。胸の痛みが、確かな根拠になった。雲隠れの里での講学。あの時、彼女だけが違った。
湊はため息をつく。うなずく。
「…わかった。だが、急げ。次は、蓮華の里かもしれん」
空羽は絵をもう一度見た。幼い日の蓮華の里。その平和が、今、炎に包まれようとしている。
彼は立ち上がる。足元のふらつきはない。ただ、決意の重さが、全身を鉛のように沈ませる。
「行く」
書斎を出る。廊下の闇が深い。彼の背中に、湊の声が追う。
「気をつけろ、空羽」
彼は振り向かない。拳を握りしめた。冷たい木片が、掌に痕を刻む。
外はもう暗い。星一つない夜空。彼は東の方角を見つめた。鏡水湖。消えた村。
「…待っていろ、静雅」
呟きは風に消える。彼は足を踏み出した。闇の中へ。記憶の炎を背負い、陰謀の渦へと。
***
夕闇が街道を覆う。空羽は湊の家を離れ、東へ向かっていた。鏡水湖へ続く道だ。足取りは速い。だが、胸の内側で脈が響く。焦げた木片を握る掌が、熱を帯び始める。
「…来たか」
彼は歩みを止める。視界の端が揺らぐ。鼓動が速く胸を打つ。周囲の気配が変わる。草木のざわめきが、怨嗟の囁きに変わる。
路傍の祠が目に入る。扉は半壊している。中から、黒い影が這い出る。小さな手。子供の形をした影だ。その影は、空羽の方を見た。
「兄さん…」
か細い声が風に乗る。空羽の背筋が凍る。その声は、蓮華の里の童謡と同じ節回しだ。
「静かに」
彼は呼吸を整える。力が抜けていく感覚。鬼道の力が目覚めようとする。引き込まれる。だが、彼は目を見開いた。
影は近づく。一歩。二歩。三歩で消えた。祠の前に、小さな草履が一足残る。それは、焦げていた。
「鏡水湖まで、あと三里」
空羽は草履を見つめる。胸の痛みが鋭くなる。これは警告か。それとも、誘いか。
彼は再び歩き出す。足元がふらつく。だが、止まれない。静雅が待つ。真相が待つ。 空羽は鏡水湖へ向かう街道を進む。足元の草履が焦げ跡を残す祠を過ぎた。東三里。胸の鼓動が重い。握りしめた木片の熱が、掌の皮を焼く。
夕暮れの色が褪せた。空は鉛色に濁る。風が止む。木々の葉音が、忽然と消える。
「…あ」
空羽の足が止まる。視界の端が滲む。周囲の空気が粘る。冷たい何かが、背筋を這い上がる。
路傍の柳が、微かに震える。枝が無風に揺れる。その影が、地面で蠢く。人間の形を失い、長く伸びる。
彼の喉が乾く。息が浅い。心臓が速く打つ。幼い頃、孤児院の裏庭で感じたあの感触。見えない誰かが、背中を見つめる感覚。
「…まだ、いる」
彼は呟く。声が掠れる。左腕が痺れる。かつて鬼道を操ったその腕が、今、震える。転生したこの体に、力の残滓が疼く。
柳の影が、ゆっくりと彼の方へ伸びる。夕闇の中で、影だけが濃くなる。土の匂いが、腐敗の甘さに変わる。
「離れろ」
空羽が低く言う。反射だった。かつての焔城陽太が、怨霊を斥ける時の口調だ。
影が止まる。そして、一気に後退する。柳の幹に吸い込まれるように消える。残ったのは、微かな泣き声のような風の音。
空羽は立ち尽くす。手足が冷たい。だが、胸の内側に、熱いものが滾る。恐怖ではない。馴染み深い、危険な興奮だ。
「…この力、まだ残っていたか」
彼は左手を見つめる。細い指が、微かに震えている。幼少期、夷涼の地で感じたあの「気配」を感知する感覚。それが転生後も、この体に刻まれていた。
遠くで犬が吠える。現実の音が、彼を引き戻す。空羽は深く息を吸う。冷たい空気が肺を刺す。
「鬼道の片鱗…か」
呟きは、恐怖と覚悟を滲ませる。だが、足は再び前へ踏み出す。震えながらも、確かに東へ向かう。
周囲の闇が、以前よりも深く見えた。見えない気配が、今や確かな感覚として肌を撫でる。空羽はその感覚を背負い、鏡水湖へと歩を進めた。 夕闇の街道を三里、空羽は鏡水湖の畔へ辿り着いた。湊の家は湖の東側、松林に囲まれていた。板戸を叩くと、中から慌ただしい足音が近づく。
戸が開く。湊の顔が見えた。眼鏡の奥の目が、空羽の様子を一瞬で読み取る。
「中へ。夕飯が冷める」
空羽は黙って入った。土間の冷たさが足底から這い上がる。食堂へ通される。椀と箸が並ぶ。湯気が揺れる。
「湖の村、消えた」
空羽は席に着きながら言った。声は乾いていた。
「聞いた。山火事だと伝令は言うが」
湊が膳を運ぶ。焼き魚、煮物、味噌汁。質素だが温かそうだ。
「あの祠で、気配を感じた」
空羽は箸を取らずに言う。左腕の痺れが残っている。
湊の手が止まる。彼は空羽の顔をじっと見る。
「…何を見た?」
「子供の影だ。声も聞こえた。蓮華の里の節回しで」
空羽は言い、懐から焦げた木片を取り出した。掌の上で、微かに温かい。
「それで?」
「柳の影が蠢いた。俺が一言で退けた」
空羽の声が低くなる。恐怖より、確信に近い響きだ。
湊は黙って膳を置く。湯気が二人の間を揺らす。
「鬼道の力が、目覚めつつある」
湊が言う。宣告のように。
「わかっている」
空羽は目を伏せる。左手の震えが止まらない。体中の血が、冷たいようで熱い。
「転生した体だ。前世の力が残るはずがない。だが、感じる。孤児院の裏庭で感じたのと同じ気配を」
彼は握りしめた拳を開く。木片の焦げ跡が、掌の皺に重なる。
「あの祠の草履も、焦げていた。鏡水湖の村も、山火事で消えた」
湊が息を吐く。白い息が、灯りの下で広がる。
「繋がっている。蓮華の里、夷涼の地、そして鏡水湖。全てに『火』の気配が付きまとう」
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