第11話 鬼道の火と再会の約束
「…焔城陽太の、火か?」
空羽が呟く。自分で言って、背筋が凍る。
「否」
湊が首を振る。眼鏡のレンズが光る。
「お前の鬼道の火は、もっと冷たい。これは…違う。何か別のものが燃やしている」
空羽は椀を手に取る。湯気が顔に当たる。だが、温もりを感じない。体内から冷えが湧く。
「静雅に連絡したか?」
「途中で伝令鳥を飛ばした。明日、ここで落ち合う」
湊が答える。箸で魚の身をほぐす。
「彼女は知っているはずだ。仙門百家の裏で動くものの正体を」
空羽は味噌汁を一口飲む。塩気が、渇いた喉を刺す。胃が重い。
「お前はどうする?」
湊が問う。目を離さない。
「行く」
空羽は即答する。椀を置く音が硬い。
「例え鬼道の力が目覚めようと、関係ない。消えた村の真相を知る。それだけだ」
「力が暴走するかもしれんぞ?」
「暴走したら、止めてくれ」
空羽が湊を見る。青みがかった瞳に、一瞬、焔城陽太の影が揺らぐ。
「お前が止められなければ、静雅が止める。それが…前世の約束だ」
湊は黙った。そして、ゆっくりと頷く。
「わかった。だが、一つ言っておく」
彼は膳を押しのけ、身を乗り出す。
「お前は白雪空羽だ。焔城陽太ではない。その体に何が残っていようと、忘れるな」
空羽の息が詰まる。胸の奥で、二つの鼓動が鳴る。一つは今の自分。一つは過去の亡霊。
「…ああ」
彼は答える。声は掠れていた。
灯りの芯が、ぱちりと弾ける。影が壁で跳ねる。二人は黙って膳を囲む。箸の音だけが、重い空気を切り裂く。
外では、湖の水が岸を打つ。波の音が、遠くの泣き声のように聞こえた。 焦げた木片は書斎の机の上に置かれていた。灯りの下で、炭化した表面が不気味な光沢を帯びる。空羽はその前に座り、幾冊もの古記録を広げていた。湊との夕食後、彼は急ぎ自宅へ戻った。鏡水湖への調査は明日。その前に、知る必要があった。
彼の指が、一枚の紙面を撫でる。『夷涼異聞録』と題された私撰の記録だ。筆跡は湊のもの。ページをめくる音だけが部屋に響く。
「…ここか」
空羽の声が低く漏れる。夷涼の地における「気配」の記述が、そこにあった。日付は十三年前。彼が焔城陽太として死んだ、まさにその秋。
記録にはこうあった。『夷涼西郊にて、黄昏時、無形の哭き声を聴く。草木皆枯れ、土は焦臭し。足跡なく、されど人の気配消えず。七夜続き、八日目に驟雨、跡形もなく散る』
空羽の左腕が疼く。微かな痺れが、肘から指先へ走る。彼は無意識に腕を押さえた。
「同じ…だ」
彼は呟く。今日、街道で感じたあの気配。柳の影が蠢く、あの重く粘る空気。記録の描写と寸分違わない。
彼は次のページを開く。今度は別の筆跡。達筆で冷たい字だ。『仙門百家、秘録第七』とある。所属は伏せられている。
『青蘭一族滅ぶ。其の地、夷涼に近し。原因は「業火」と称す。然れど、遺体に焼損なし。魂魄のみ消散せり。怪しむに足る』
空羽の息が止まる。胸の鼓動が速くなる。頭蓋の内側で、血の流れる音がうなる。
「青蘭…」
彼の声が震える。静雅の一族の名だ。彼女が語らなかった悲劇の詳細が、ここに記されていた。
彼は机の引出しを開ける。中から、別の紙束を取り出す。それは彼自身が、蓮華の里で暮らし始めてから、ふと覚える「既視感」を走り書きしたメモだ。
一枚を手に取る。『里の東の丘。夕焼けの時、胸が痛む。誰かが、そこで消えた気がする』日付は五年前。
別の一枚。『夢を見る。火の中に立つ人影。背が高い。手を差し伸べてくるが、触れると灰になる』三年前。
最新のメモは、一ヶ月前。『左手が時々痺れる。特に、湊の話を聞いている時。彼が青蘭の名を口にした時、疼いた』
空羽はメモを机に広げる。そして、湊の記録と、仙門の秘録を並べる。
三つの記述が、一点で交わる。夷涼の地。十三年前。青蘭一族の滅び。そして、彼自身の死。
「…繋がっている」
彼の喉が渇く。冷たい汗が背中を伝う。部屋の空気が、急に重くなる。
灯りの炎が、ぱちりと揺れる。机の上の影が、微かに伸びる。焦げた木片が、かすかに温もりを放つ。
空羽は左手を木片に近づける。指先が触れる瞬間──
視界が歪む。机も書物も消える。暗闇が広がる。その中で、炎が揺らめく。人影が立っている。背の高い男だ。その男が振り返る。顔は見えない。だが、口元だけが微かに動く。
『…陽太』
声が聞こえる。耳ではなく、頭蓋の内側に直接響く呼び声。
空羽の体が跳ねる。椅子からずり落ち、床に膝をつく。息が荒い。胸が痛い。左手の痺れが、今や激しい疼きに変わる。
「…あの声は」
彼が喘ぐ。暗闇は消え、書斎の風景が戻っている。だが、耳鳴りが残る。あの呼び声の残響だ。
彼はよろめき立ち上がる。机に手を付く。指先が、仙門百家の秘録を押さえる。その記述の最後に、小さな印があった。鳥の羽を図案化した紋だ。
「…鳳鳴閣」
空羽が声に出す。仙門百家の中でも、古くから記録と検証を司る一族の紋章。
彼の頭が騒ぐ。記憶の破片が、無理やり組み合わさる。焔城陽太として死ぬ直前。炎に包まれる視界。その炎の向こうに、立っていた人影。その袖口に、微かに光る紋章。
「あの時…鳳鳴閣の者が…いた?」
声が掠れる。彼は机に寄りかかる。足が震える。体内が冷たい。だが、脳裏は熱に灼かれる。
彼は焦げた木片を掴む。握りしめる。木片の角が、掌に食い込む。
「…そうか。俺の死も、青蘭の滅びも、夷涼の気配も」
彼は目を見開く。瞳の奥に、青白い炎が一瞬、灯る。
「全て、仙門百家の闇が繋いでいたのか」
灯りがまた揺れる。壁に映る彼の影が、大きくうねる。まるで、背中に別の影が重なっているように。
空羽は深く息を吸う。冷たい空気が肺を満たす。震えが少しずつ収まる。
彼は記録を集め、順に重ねる。湊の異聞録。仙門の秘録。自身のメモ。そして、焦げた木片を一番上に置く。




