表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/21

第7話 呼吸を整えて静雅を想う

 繰り返す。吸う。吐く。吸う。吐く。鼓動が沈んでいく。手足の冷えが遠のく。


 額の汗が引く。視界が鮮明になる。机の木目。壁のひび。全てがくっきりする。


 彼は立ち上がる。足取りはまだ軽くない。だが、ふらつきは消えた。


 窓辺へ歩く。外を見る。仙門の町並みが続く。遠くに夷涼の地の山並み。


「……あの時、静雅は」


 言葉が途切れる。彼は窓枠に手を置く。指が白くなる。


 記憶がよみがえる。青柳の屋敷。論争。静雅の剣のような瞳。彼女の言葉が刺さる。


「規律が人を縛るなら、俺は縛られない」


 空羽の反論。静雅の眉が顰む。彼女の拳が握られる。しかし、目は輝いていた。


「……あなたは危険だ」


 静雅の声が低い。空羽は笑った。


「危険でいい。自由こそが真実だ」


 その時、彼女の口元が緩んだ。ほんの一瞬。共感の色。


 空羽は目を細める。窓に映る自分の顔。銀髪。灰の瞳。その奥に陽太が潜む。


「……お前は俺を止めようとした」


 呟きが窓ガラスに曇を描く。彼は背を向ける。


 机へ戻る。硬パンと干し肉を並べる。齧る。顎が動く。栄養が体に染み渡る。


 23霊銭を数える。硬い音。生きるための銭。探るための銭。


 彼は懐に銭をしまう。立ち上がる。呼吸は整った。体の重りは消えた。


「次は静雅の家へ」


 彼は戸口へ歩く。手を伸ばす。扉の取手に触れる。その時、左腕が疼く。


 焦げた木片が熱を持つ。怨念の気配が脈打つ。警告か。誘いか。




 扉の取手に触れた左腕が鋭く疼いた。脈打つように。空羽は歯を食いしばる。


「……っ」


 焦げた木片が懐の中で熱を帯びる。警告の熱。体が冷える。足元がふらつく。


 彼は扉に額を預ける。呼吸が浅い。鼓動が耳朶を打つ。胸の内側で何かが脈を跳ねる。


 静雅の顔が浮かぶ。緩んだ口元。共感の色。そして湊の言葉。言いかけの意味。


「夷涼には……行けないな」


 彼は呟く。体が言う。危険だと。一人になるなと。


 扉を引く。外の光が差し込む。仙門の道が静かに延びる。遠くに夷涼の山影。


 彼は一歩を踏み出す。足が重い。肩に力が入る。疲れが骨にこびりつく。


「湊の家まで……そう遠くない」


 歩き出す。石畳が続く。左腕の疼きは引かない。木片の熱は冷めない。


 道端の柳が揺れる。風の音。彼は眉を上げる。無意識の観察。


「……誰か?」


 振り返る。誰もいない。ただ風だけ。彼は舌打ち一つ。


「気のせいか」


 再び歩き始める。呼吸が乱れる。めまいがする。視界が揺らぐ。


「まずいな」


 彼は立ち止まる。壁に手をつく。冷たい石の感触。体の熱が奪われる。


「静雅との約束……湊との食事……」


 彼は目を閉じる。記憶の断片が走る。火の気配。焦げる音。誰かの泣き声。


「……っ!」


 目を見開く。冷汗が頬を伝う。彼は拳を握る。爪が掌に食い込む。


「行くぞ」


 彼は壁から離れる。一歩。また一歩。足を引きずるように。


 湊の家が見えてきた。屋根の瓦。煙突。昼餉の煙が細く立つ。


「……ああ」


 彼は息を吐く。懐の木片の熱が、微かに引いていく。


「間に合ったか」


 彼は戸口に手を伸ばす。指先が震える。触れる。扉が開く。


 中から、湊の声が聞こえる。 午後の光が食堂の床を切る。空羽は食卓につく。箸を持つ。ご飯と味噌汁。焼き魚の匂い。湊が向かいに座る。


「子供の頃、君はいつもこの料理が好きだった」


 湊が言う。何気なく。皿を置く音。空羽の箸が止まる。焼き魚を見下ろす。


 彼は箸を進める。魚肉を口に運ぶ。噛む。甘み。塩気。香ばしさ。


 その瞬間、胸の奥が熱くなる。脈が跳ねる。喉が詰まる。


 初めての味のはずだ。だが、懐かしい。あまりに懐かしい。


 視界が滲む。食堂の景色が揺らぐ。別の場所が重なる。暗い小屋。囲炉裏の火。


 幼い手。小さな箸。誰かが魚を取ってくれる。優しい手。


「……っ」


 空羽は箸を握りしめる。指の関節が白い。呼吸が浅くなる。


 記憶が断片的に蘇る。笑い声。温もり。安心感。そして、悲しみ。


 誰だ。それは誰だ。


 彼の額に汗がにじむ。鼓動が耳朶を打つ。胃が絞られる。


 湊が顔を上げる。気付く。目を見開く。


「空羽? どうした」


「……何でもない」


 空羽は答える。声が震える。彼はご飯を口に放り込む。嚙みしめる。


 味が広がる。懐かしさが増す。胸が疼く。目頭が熱い。


 彼は顔を伏せる。涙がこぼれそうになる。歯を食いしばる。


 なぜだ。白雪空羽の記憶に、そんな場面はない。孤児院の飯は違う。


 だとしたら――。


 焦げた木片が懐で微かに熱を持つ。左腕が疼く。警告の疼き。


 彼は箸を置く。手の平が汗で湿る。体が冷える。寒気が背を走る。


「……もう、いい」


「え? まだ半分も……」


「ありがとう、湊さん」


 空羽は立ち上がる。足元がふらつく。壁に手をつく。


 幼い記憶の残像が消えない。優しい手。温かな笑い声。


 それは誰の記憶なのか。焔城陽太のものか。それとも――。


 彼は目を閉じる。深呼吸する。胸の疼きが収まらない。


「顔色が悪いよ。無理するな」


 湊が心配そうに言う。空羽は首を振る。


「大丈夫。ただ、少し……思い出しただけ」


「思い出した?」


「うん。子供の頃の。誰かと……食べてたこと」


 言葉が喉でつかえる。空羽は顔を上げる。湊の目を見る。


 湊の瞳が微かに揺らぐ。何かを隠す色。空羽はそれを捉える。


「……そっか」


 湊はそれ以上、尋ねない。箸を動かす。沈黙が食卓を覆う。


 空羽はまた座る。体が重い。肩に力が入る。


 彼は焼き魚をもう一口、口に運ぶ。噛む。味が染み渡る。


 懐かしさが、今度は怒りに変わる。なぜ思い出せない。なぜ隠される。


「湊さん」


「ん?」


「僕は……白雪空羽で、いいんだよね」


 声が低い。鋭い。湊の箸が止まる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ