第5話 闇の書斎の映像
その接触が、さらなる映像を呼び込む。暗い部屋。机の上の硯。梅の枝が窓から差し込む。
「…来たことが、ある」
彼は呟いた。確信なき言葉。記憶は形を持たない。感覚だけが、皮膚の下を這い回る。
左腕が震え始めた。肩から肘へ、微かな痙攣が走る。彼は左手首を右手で握りしめた。抑え込もうとする力が、逆に震えを強くした。
香りが濃くなる。梅と墨。その混ざった匂いが、胸の深くを刺す。彼は目を閉じた。まぶたの裏に、紅い花びらが散る。
足が後退りした。一歩。二歩。無意識に距離を取る。背中が冷たい壁に触れる。道沿いの塀だった。
彼の額に冷や汗が浮かぶ。呼吸はまだ乱れている。心臓は早鐘を打ち続ける。
「なぜ…思い出せない」
声は掠れていた。疑問が、胃の底に重く沈む。知っている。確かに知っているこの場所。なのに、記憶の扉は開かない。
彼はもう一度、門を見上げた。白亜の柱が、青空に静かに立っていた。何も語らない。何も答えない。
空羽の唇が、かすかに震えた。
***
左腕の震えが止まらない。空羽は右手でそれを押さえつけた。指が食い込む。それでも震えは骨の芯から伝わる。
道は緩やかな上り坂になっていた。両脇の梅の木が次第に増える。花はまだ咲いていない。枝だけが、妙にねじれた形で空を切り裂く。
胸が締め上げられる。呼吸が浅くなる。一歩踏み出すごとに、鎖で肋骨を絞められるような圧迫感。彼は足を止めた。左手を膝につく。前屈みになる。
「ここ…で」
声にならない言葉が喉をすり抜ける。視界の端が揺らぐ。耳の奥で蝉の声のような高音が鳴り続ける。
彼は顔を上げた。前方に門が見えた。白亜の柱。蓮の花弁を彫った冠木。蓮華の里の正門だ。知っている。知りすぎている。
足が重い。鉛を詰められたように動かない。地面が吸い付く。一歩を引きずるようにして前に出す。砂利が軋む音が、頭蓋に直接響く。
門が近づく。十歩。五歩。距離が縮まるほど、胸の鼓動が激しくなる。心臓が喉元まで上がってくる。吐き気が込み上げる。
彼は門柱に手を伸ばした。指先が冷たい石材に触れる。
その瞬間、視界が真っ白に染まった。門に触れた指先から、熱が走った。冷たい石材が突然、生きた肉のように温かい。
視界の白は薄れていく。代わりに、色の洪水が押し寄せる。紅い梅の花びら。黒い墨の染み。白い着物の裾。すべてが回転し、混ざり合う。
空羽の膝が折れた。地面に膝をつく。砂利が皮膚に食い込む。痛みは遠い。
「……空羽?」
声が聞こえる。少年の声だ。高い。透き通っている。どこからか。
彼は顔を上げた。門の向こうに、人影が見える。小柄な少年が立っている。銀髪。灰色の瞳。それは──自分だ。違う。着ているものも、表情も違う。白雪空羽ではない。
少年が笑っている。口元を緩めて。手を差し伸べている。
「早く、こっちへ」
鼓動が一瞬止まる。その声を知っている。喉の奥で、何かが軋む。
空羽は立ち上がろうとした。足がもつれる。前のめりになる。手で地面を押す。砂利が掌を切る。
視界が再び揺らぐ。人影が薄れる。消えていく。
「待て──」
叫び声が喉を裂く。しかし声は出ていない。ただ息が漏れるだけだ。
門の前には誰もいない。ただ風が、枯れた梅の枝を揺らしている。
胸の奥で、鈍い痛みが脈打つ。失った何か。取り戻せない何か。その形すら、わからない。
彼はゆっくりと立ち上がった。左手首を握る。皮膚の下で、何かが蠢く感覚。震えはもう収まっていた。代わりに、空虚が広がる。
「焔城…陽太」
名前を口にした。初めてだ。この場所で、この記憶の残響の中で。
門柱に刻まれた蓮の彫刻を見つめる。その花弁の一つが、欠けている。長い年月の傷。
空羽の指が、その欠けた部分を撫でた。
突然、耳朶に熱い吐息が触れる感触。誰かの囁き。
『──忘れるな』
振り向く。背後には誰もいない。道は静かなまま。
彼の背筋が凍る。その声は、自分の声だった。焔城陽太の声。
足が再び動き始める。門を通り過ぎる。蓮華の里の中へ、一歩、踏み入れる。
梅の香りが消える。墨の匂いも消える。ただ、冷たい石と土の気配だけが残る。
空羽は振り返らずに歩いた。背中に、見えない重みを感じながら。
***
石段は続く。一つずつ、足を上げる。重い。
胸の動悸が止まらない。鼓動が耳元で響く。息苦しい。
「……湊の家は、まだか」
空羽は呟いた。声は掠れていた。
左手首を無意識に触る。皮膚の下で、何かが脈打つ。違和感。
道端に咲く野草を見下ろす。紫色の小さな花。湊がよく摘んでいた。
記憶の糸が、ぷつりと繋がる。
──あの日も、こんな花が咲いていた。湊は笑っていた。陽太は、その横で。
足が止まる。筋肉がこわばる。疲労が骨に染みる。
「……ああ、そうか」
彼は目を閉じた。瞼の裏に、湊の涙が浮かぶ。誓った言葉が蘇る。
体が鉛のように重い。一歩を踏み出すのに、力が要る。
しかし、彼は歩き続けた。焦げた木片を懐で握りしめながら。
理由は一つだ。真実が、そこにあるから。 石段の先に、湊の家が見えた。屋根の瓦は幾枚か欠け、庭の梅の木だけが健気に葉を茂らせている。
空羽は息を整えた。胸の鼓動が耳朶を打つ。
「おう、湊。居るか」
声をかけると、障子が滑る音がした。湊の顔が現れる。目が一瞬、見開かれる。
「……空羽。どうした、こんな時に」
「用事がある。中に入れろ」
空羽はそう言い、勝手に上がり框を跨いだ。湊は慌てて道を空けた。
室内は質素だった。机の上には巻物が広げられ、墨の匂いが微かに漂う。
「茶でも淹れようか」
「結構だ。すぐに用件を言う」
空羽は座布団に腰を下ろした。筋肉がこわばる。湊は向かい側に座り、手をもじもじとさせた。
「……何か、まずいことでも?」




