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第4話 人喰い峠への決意

「人喰い峠の調査は、まだ早いか」


 「いや」


 空羽は布団から立ち上がる。足元は少しふらつくが、踏みとどまる。胸の空洞が、冷たい決意で満たされていく。


 「行ける。今なら」


 静雅の眉が微かに動く。彼は湊を見る。湊が黙って頷く。


 「ならば準備だ。必要な物は揃えているか」


 「ああ。足りないものは、道で調達する」


 空羽は懐の木片に触れる。焦げた感触が、今は冷たく固い。彼は湊を見た。


 「湊。ありとな」


 「……気をつけて行け。兄弟よ」


 湊の言葉が背中を押す。空羽は頷く。静雅が庭へと歩き出す。彼の後を追う。草鞋が砂利を軋ませる。


 門を出る時、空羽は振り返らない。胸の痛みは消えていない。だが、今は歩ける。記憶と共に。


 ***


 門を出た砂利道が、夷涼の地へと続く。空羽の左足が一歩、地面を離す。その瞬間、胸の奥で何かが軋む。


 「……っ」


 息が詰まる。心臓が肋骨を叩く。速い、重い。右腕が自然と胸を押さえる。焦げた木片の感触が、懐の内側で疼く。


 「空羽」


 静雅の声が背から来る。遠い。耳の奥で、別の音が響く。砂利を踏む音。子供の足音。走る音。――湊か?


 視界の端が揺らぐ。今の道が、過去の道に重なる。銀髪が汗で頬に貼りつく。空羽は目を瞑る。瞼の裏に、赤い炎が走る。


 「大丈夫か」


 「……ああ」


 返事は出た。しかし声は掠れている。空羽は目を開ける。道は一本。夷涼の中心部へ続くその道が、かつての焔山への道に似ていた。


 右手の指が無意識に動く。術式を組む時の癖だ。彼は拳を握る。爪が掌を刺す。痛みで、今に戻る。


 歩き出す。一歩。また一歩。草鞋の裏が、熱い地面を感じる。静雅の足音が、一定の間隔で後ろに響く。それだけが、今を保つ錨だった。


 「記憶か」


 静雅が問う。問いだけだ。押し付けない。


 「……ああ。湊の家を出る時、同じだった」


 空羽は答える。言葉にすると、胸の圧が少し和らぐ。道の両脇に、枯れた霊草が続く。かつては青かった。


 「戻るか」


 「戻れるか」


 空羽の返答は短い。それ以上はない。彼は前方を見据える。夷涼の中心部が、遠い丘の向こうに霞んでいる。霊樹が立つ場所だ。


 左手首が疼く。あの時、縄で縛られた感触がよみがえる。彼は歩調を速める。疼きを、歩みで振り切ろうとする。


 「静雅」


 「何だ」


 「お前は、あの時もいたな。焔山で」


 静雅の足音が一瞬、乱れる。砂利が跳ねる音。


 「……いた」


 「なぜ止めなかった」


 問いが、空羽の口を突いて出る。彼自身が予期していない。呼吸が浅くなる。


 「止められたと思うか」


 静雅の声に、棘がある。初めてだ。空羽は振り返らない。彼の背中が、その棘をすべて受け止める。


 「……思わん」


 「それで良い」


 道が曲がる。枯れ木の陰から、風が吹き抜ける。その風が、空羽の銀髪を揺らす。同時に、懐の木片が温かくなる。


 「感じるか」


 「ああ。怨霊の気配だ。近い」


 空羽の目が、灰色から薄い青へと変わる。焔城陽太の瞳だ。彼は足を止める。前方の道脇に、黒く焦げた切り株が見える。


 「霊樹の……破片か」


 「調査対象だ。行くぞ」


 静雅が先に歩き出す。空羽は一呼吸置く。胸の鼓動が、ようやく落ち着き始めている。記憶の洪水が、少し引いた。


 彼は焦げた木片を取り出す。掌の上のそれは、切り株と同じ色をしていた。繋がっている。過去と今が。


 「……待てよ、静雅」


 「?」


 「この道、おかしい」


 空羽が指差す。道の先に、同じ枯れ木が三本。同じ間隔で立っている。彼は目を細める。


 「迷陣だ。仙門の仕掛けだな」


 「突破できるか」


 「できるさ。だって――」


 空羽の指が動く。空中に、幽かな青い線が浮かぶ。鬼道の術式だ。


 「俺は、焔城陽太だからな」


 彼が笑う。笑い声は、少しだけ前世に似ていた。


 ***


 迷陣を抜けた先が、蓮華の里への道だった。空羽の足は次第に重くなった。地面が靴の底に吸い付く。一歩ごとに胸が軋む。心臓が肋骨を内側から叩く。


 「……ここは」


 彼の視線が、遠くに聳える里の門を捉える。白亜の門柱が、青空に切り立っていた。知っている。確かに知っている風景だ。それなのに、喉の奥が熱くなる。息が浅く、すぐに切れる。


 道端に咲く蓮の花。水の気配。すべてが記憶を呼び覚ます。空羽は左手首を無意識に押さえた。震えが止まらない。かつてここを通った。違う体で、違う名で。焔城陽太として。


 門が近づく。距離が縮まるほど、胸の内側が締め上げられる。重い鉛が臓腑に詰まったようだ。視界の端がちらつく。過去の残像が、今の風景に重なる。


 「……」


 彼は歩みを止めた。もう一歩も前に出られない。足元がふらつく。肩の力が一気に抜けた。この場所が、何かを決定的に失った現場だと、身体が覚えていた。 空羽は門の五歩手前で立ち止まった。石段の冷たさが足の裏から伝わる。風が吹く。その風が、微かな香りを運んできた。


 梅の木の香り。それに墨の気配。二つが混ざり、一つの匂いになる。空羽の眉がわずかに動いた。


 「…っ」


 胸の奥が締めつけられた。心臓の鼓動が一瞬、速くなる。彼は無意識に口を開けた。浅い息が漏れる。


 目が門柱を見つめる。白い漆喰の表面。細かいひび割れ。それらが、知らないはずの記憶を呼び起こす。頭の内側が微かに疼く。


 一歩、前に出す。左足が石段を踏む。その瞬間、足首に重さを感じた。筋肉が張りつめる。体が前へ進むのを拒む。


 視界が揺らぐ。門の向こうに、別の光景が重なって見えた。小柄な少年の背中。走り去る足音。笑い声。


 空羽の右手が胸に当たる。指先が上衣の布地を抓む。呼吸が浅く、短くなる。喉が詰まる感じがする。


 「ここに…」


 声が出ない。言葉が喉の奥で潰れる。彼はゆっくりと首を振った。


 もう一歩。右足を引き寄せる。今度はめまいが襲った。地面が傾く感覚。彼は慌てて門柱に手を伸ばす。掌が冷たい石に触れた。


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