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第3話 覚束ない足取りと記憶の洪水

 彼は欄干に手を置いた。木の感触が冷たい。今ここにいるのは白雪空羽だ。そう言い聞かせても、体が覚えている。別の人生。別の痛み。


 道はゆるやかな坂を上る。頂上に立つと、視界が開けた。遠くに瑞江家の屋根が見える。瓦が朝日にきらめく。


 その瞬間、胸が締めつけられる。鋭い痛みが走った。彼は膝をついた。砂利が掌を刺す。額に汗がにじむ。記憶の洪水が、一気に押し寄せてくる。


「……っ」


 歯を食いしばる。目を閉じる。瞼の裏に、湊の顔が浮かぶ。少年の頃の湊。優しく微笑む湊。そして、最後に見た、悲しみに歪んだ湊の顔。


 痛みが引いていく。ゆっくりと。呼吸が深くなる。彼は立ち上がった。足元がふらつくが、踏みとどまる。


「会いに行く。今度は……ちゃんと」


 呟きは風に消えた。彼は坂を下り始めた。瑞江家の門が、次第に近づく。 瑞江家の門前に立った時、左手首が疼いた。空羽は一息つき、門扉を押した。木の軋みが庭に響く。奥の縁側に、一人の男が坐っていた。瑞江湊だ。三十を過ぎた今も、少年の面影を残している。その目が空羽を見つめる。微かに震えた。


「……来たか」


 湊の声は渇いていた。彼は立ち上がり、ゆっくりと近づく。二歩、三歩。足が止まる。視線が空羽の銀髪、灰色の瞳を舐める。唇がわずかに震える。


「あの木片、持っているな」


 空羽の懐が温かい。焦げた木片が鼓動に合わせて脈打つ。


「ああ。ずっと」


「……そうか」


 湊は顔を背けた。肩が一度、小さく揺れた。再び振り向いた時、目尻が赤い。


「中へ入れ。話がある」


 縁側に上がる。板の間が冷たく響く。湊は茶器を並べ始めた。手つきは丁寧だが、指先が微かに震えている。湯を注ぐ音だけが、重い空気を切り裂く。


「お前が……戻ってきたことは知っていた」


 湊は茶碗を差し出さず、自分の膝の上に置いた。


「蓮華の里に迎えた日、お前は一言も喋らなかった。痩せこけていて、目だけがぎらぎらしていた。まるで……傷ついた獣のようでな」


 彼の視線は遠くを見つめている。庭の石灯籠の向こうに、過去が広がっているようだ。


「父上がお前を引き取った時、皆は反対した。夷涼の孤児に、何の価値があるかと。だが、お前は一ヶ月で基礎の術を修めた。三ヶ月で俺を追い越した」


 湊の拳が膝の上で硬くなる。


「嫉妬した。正直に言おう。あの奔放さ、あの無鉄砲な才能が……腹立たしかった」


 茶碗がかすかに鳴る。手の震えが止まらない。


「でもな」


 彼はゆっくりと顔を上げた。目に涙が溜まっている。


「あの時、お前が屋根の上で笛を吹いていた夜を、今でも覚えている。月明かりに照らされて……妙に寂しそうだった。その時、思った。こいつは俺の兄弟なんだ、と」


 空羽の胸が熱くなる。喉が詰まる。言葉が出ない。


「だから、お前があの道を選んだ時……俺は」


 湊の声が途切れる。彼は目を閉じた。涙が一筋、頬を伝う。


「裏切られたと思った。苦しかった。だが……それ以上に、お前を止められなかった自分が、情けなかった」


「湊……」


 声がかすれて出る。空羽の手が自然と伸びた。湊の肩に触れる。温もりが伝わる。


「今、こうして……お前が戻ってきた」


 湊は空羽の手を掴んだ。握る力が強い。


「空羽としてでも、陽太としてでも構わん。お前は……俺の兄弟だ。それだけは、忘れるな」


 庭の風が梢を揺らす。葉ずれの音が、遠い日の笑い声と重なる。 瑞江家の縁側で、空羽の左手首が疼いた。疼きは脈打ち、胸の奥へと鋭く刺さる。彼は息を詰めた。指が湊の手から滑り落ちる。


「……っ」


 額に汗が噴く。視界が波打つ。縁側の板目、茶碗の縁、湊の心配そうな顔が、二重三重に揺れて見える。鼓動が耳の中で暴れる。胸骨の内側で、心臓が暴れ馬のように跳ねる。


 空羽は脇にうつ伏せた。肘が茶器に当たり、音を立てる。呼吸が浅く、早い。肺が空気を追いかけられない。筋肉が背中で硬直する。鉛の重みが全身を押しつける。


「空羽!」


 湊の声が遠い。記憶の破片が洪水のように押し寄せる。炎。崩れる梁。泣き叫ぶ声。それら全てが、焔城陽太のものだ。この身体にはない傷跡が、内側から疼き出す。


 彼は目を閉じた。瞼の裏に、青柳静雅の顔が浮かぶ。剣を構える静雅。冷たい目。だが、その奥に一瞬よぎる動揺。


「……静……雅……」


 名前が喘ぎと共に零れる。疼きが少しずつ引いていく。呼吸が深くなる。筋肉の緊張が解ける。重みが消える。


 ゆっくりと体を起こした。湊が支える。彼の手が空羽の背中にあり、微かに震えている。


「大丈夫か」


「……ああ。少し、休め」


 湊が頷く。彼は空羽を縁側に寄りかからせ、立ち上がる。茶器を片付け、新しい布団を押入れから出す。手つきは慌てている。


 空羽は布団にもたれた。天井の木目を見つめる。呼吸が整う。心拍が落ち着く。だが、胸の内に空洞が開いた感覚が残る。記憶の洪水が通り過ぎた跡だ。


 しばらくして、湊が戻る。湯気の立つ椀を持っている。


「霊草を煎じた。落ち着ける」


 空羽は椀を受け取る。温もりが手に染みる。匂いは苦い。一口含む。熱さと苦味が喉を通る。体の芯から温まる。


「ありがとう、湊」


「構うな。お前はここで休め。青柳のことは、俺が連絡する」


 湊は縁側を下り、庭へと歩いていく。彼の背中は、少年の頃よりも少し縮んでいるように見える。


 空羽は椀を両手で包んだ。湯気が顔を撫でる。目を閉じる。意識を内側に向ける。呼吸を数える。一。二。三。


 記憶の残滓が静まっていく。焔城陽太の疼きが、白雪空羽の鼓動の中に沈黙する。


 時が過ぎる。庭の影が傾く。足音が聞こえる。二組だ。湊と、もう一人。


 空羽は目を開けた。縁側の向こうに、青柳静雅が立っている。白い装束。刀を腰に。表情は硬いが、目が空羽の様子を探る。


「随分と無茶をしたようだな、白雪」


 静雅の声は平然としている。だが、足が一歩、縁側へと近づく。


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