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第2話 目覚める記憶と違和感.

 銀白色の髪が汗で額に貼りついている。彼はゆっくりと手を上げた。指が震える。掌を見つめる。細く、華奢な指だ。白雪空羽の指だ。


 心臓が鈍く打つ。ドクン、ドクン。音が頭蓋に響く。彼は左手首を握った。脈が速い。前世の傷跡はない。なめらかな皮膚だけだ。


 部屋を見渡す。ベッド、サイドテーブル、窓。全てが整然としている。だが、どこか違和感がある。この空間が、自分を拒んでいるように感じた。


 彼は無理に立ち上がった。足元がふらつく。視界が揺れる。すぐにテーブルに手をついた。木の冷たさが掌に伝わる。深呼吸を一つ。吸い込む空気が肺に刺さる。


「……焔城陽太」


 声に出した名前に、体が硬直した。胸の奥で何かが疼く。記憶の欠片が浮かび上がる。炎、叫び声、そして落下する感覚。彼は目を閉じた。瞼の裏に暗い色が渦巻く。


 目を開けると、サイドテーブルの上に焦げた木片が目に入った。手を伸ばす。指先が触れる。一瞬、温もりを感じた。すぐに冷たさに変わる。


 木片を握りしめる。爪が掌に食い込む。痛みが現実を引き戻す。ここは蓮華の里だ。彼は白雪空羽だ。瑞江湊に拾われた孤児だ。


 幼い記憶が、霧の向こうから現れる。汚れた服。空腹。そして、湊の手。温かく、柔らかい手の感触。彼の手を包み込む。


「これからは、ここが君の家だ」


 声が耳の奥でこだまする。空羽の眉がひそむ。その記憶は優しい。しかし、その優しさの裏に、何かが潜んでいる気がした。冷ややかな違和感。


 彼は窓辺に歩み寄った。足取りは重い。外を見る。里の屋根が朝日に照らされている。穏やかな風景だ。だが、彼の胸の中には波が立っていた。


 掌の木片が微かに震える。怨霊の気配ではない。何か別のもの。記憶を呼び覚ます鍵のようなもの。


「……思い出せ」


 彼は呟いた。目を凝らす。視界の端がちらつく。炎の色。黒い煙。そして、青い装束の人影。静雅だ。あの時、彼は何と言ったか。


「お前だけは……」


 声が詰まる。喉が熱くなる。感情が込み上げる。罪悪感、後悔、怒り。全てが渦巻く。彼はテーブルに凭れた。額に冷たい汗がにじむ。


 呼吸が荒くなる。心臓が暴れるように打つ。体が前世の記憶に抗っている。白雪空羽の肉体が、焔城陽太の魂を拒む。


「……無理か」


 彼は諦めず、もう一度目を閉じた。暗闇の中で記憶を探る。夷涼の地。荒廃した家屋。焦げた柱。そのそばで、彼は何を見たか。


 ぱちり、と瞼が開く。灰色の瞳に光が宿る。彼は木片をじっと見た。焦げ目が、何かの紋様に似ている。知っている紋だ。


「焔山……一族」


 言葉が零れる。同時に、頭が鋭く疼いた。彼はうずくまる。腕で頭を抱える。記憶の洪水が押し寄せる。断片的な映像、声、感情。


 やがて、痛みが引く。彼はゆっくりと体を起こした。呼吸が整っていく。胸の鼓動が落ち着く。


 手にした木片を、もう一度見つめる。今、それは単なる木片ではなかった。焔城陽太の過去への道標だ。


「……そうか」


 彼は立ち上がった。足元はしっかりしている。重さが消えていた。彼は窓の外を見つめた。青空が広がる。


「俺は、白雪空羽だ」


 声には確信があった。しかし、その奥に、別の決意が潜んでいた。彼は木片を懐にしまった。肌に触れる感触が、今は安心感を与えた。


「そして、焔城陽太でもある」


 呟きは誰にも聞こえなかった。部屋に静寂が戻る。朝の光が、彼の銀白色の髪を白く染めた。


 ***


 白雪空羽はベッドの端に腰掛けていた。朝の光が窓から差し込み、焦げた木片が枕元に置かれている。彼の指がそっとその表面を撫でる。肌に伝わるのは微かな温もりと、かすかな脈打ちのような気配だった。


「湊……」


 口をついて出た名前に、胸の奥が締めつけられる。幼い記憶が疼く。蓮華の里の門。差し伸べられた温かな手。『これからはここが君の家だ』という声。その全てが、今この木片の感触と重なる。


 彼は立ち上がった。足を運ぶ先は洗面所だ。鏡に映るのは細身の少年、銀髪、青みがかった灰色の瞳。だが、その奥に別の影がちらつく。集中した時、怒りの瞬間に浮かぶ、もう一つの面影。


 水を手ですくい、顔を洗う。冷たさが皮膚を刺す。それでも、胸の内の熱は鎮まらない。瑞江湊に会う。その事実だけが、頭の中で繰り返される。


 身支度は簡素だ。干し肉と硬パンを革袋に詰める。破れた布きれ数枚。懐には二十三霊銭と、焦げた木片をしまった。木片が肌に触れるたび、微かな震えが背筋を走る。安心と違和が混ざり合う感覚だ。


 玄関で草鞋を履きなおす時、彼の手が一瞬止まる。左手首を無意識に触っている。前世の傷跡は、この身体にはない。それでも、疼く。


「空羽として会う。……焔城陽太としてでもない」


 呟きは、自分への言い聞かせのようだった。ドアの取っ手に手をかける。金属の冷たさが掌に染みる。


 彼は一息ついた。胸を張る。振り返らずに、ドアを開けた。朝の外気が、部屋に流れ込んだ。


 ***


 朝の道は静まり返っていた。砂利が靴の下で軋む。夷涼の地の風が、銀銀髪を揺らす。空羽の胸には、焦げた木片が触れている。温もりと共に、かすかな疼きが伝わる。


 道脇に廃屋が見えた。屋根が崩れ、壁は煤けている。彼の足が止まる。目が、その焼け跡に釘付けになる。鼓動が速くなる。胸の内側で脈が響く。手足が急に重い。


「……ああ」


 ため息が漏れた。視界が揺らぐ。廃屋の向こうに、別の光景が重なる。炎。崩れ落ちる梁。泣き叫ぶ声。それは、彼のものではない記憶だ。焔城陽太の記憶だ。


 彼は顔を上げた。荒れ果てた畑が続く。枯れた茎が風に揺れる。その風景を見ていると、喉が詰まる。呼吸が浅くなる。肩に重みがのしかかる。


 歩き出す。一歩。また一歩。腰に疲労感が鈍く響く。まるで、この道を何度も歩いたかのようだ。前世で。孤児として。逃げるように。


 小川に架かった橋を渡る時、まぶたが重くなった。水音が、遠い日の音と重なる。蓮華の里の小川。湊と魚を取ったあの午後。笑い声が、耳の奥でこだまする。


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