第1話 焦げた木片と二十三霊銭
夷涼の地の西端、白雪空羽の家はまだ闇に沈んでいた。窓の隙間から漏れる薄明かりだけが、人がいることを示していた。
空羽は玄関の敷居を跨いだ。肩に掛けた布きれの袋が軽く軋んだ。中身は干し肉と硬パン、焦げた木片、わずか二十三霊銭だけだ。
「ただいま」
声は誰にも届かない。応答はなかった。彼は袋を床に下ろし、左手首を無意識に触った。青みがかった灰色の瞳が部屋を見渡す。ベッド、テーブル、全てが整然としすぎていた。ここは彼の家ではない。少なくとも、焔城陽太の家ではない。
彼はテーブルに近づいた。指先が表面を撫でる。つやつやと磨かれた木目に、夷涼で見た焦げた柱の肌触りが重なった。呼吸が一瞬乱れる。
「…まだ、慣れんな」
呟きは冷たい空気に吸い込まれた。彼は袋から焦げた木片を取り出した。掌に載せると、微かに温もりを感じた。怨霊の気配ではなく、単なる木の記憶だ。彼は眉を上げた。
ベッドの傍らに行き、銀白色の頭髪をかき上げた。窓の外、夜明け前の闇が色を変え始めていた。蓮華の里が目覚める刻が近い。
「動くか」
彼は袋を再び肩に掛けた。二十三霊銭がかすかに鳴った。目的は一つ。里の外れで起きたという夜襲の報告を確かめる。瑞江湊が嗅ぎつけた「人喰い峠」の怪異。
玄関の戸を開けた。冷気が流れ込む。彼は一歩を外に踏み出した。背後の家が、再び静寂に包まれる。
「焔城陽太でも、白雪空羽でもねえ」
歩き出す足取りは軽かった。だが、目には決意の色が宿っていた。 暗闇の中、白雪空羽は微かに動いた。銀白色の髪が枕に散らばる。呼吸は浅く、規則的だった。
夢が始まった。霧の向こうに、蓮華の里の門が立っている。朱塗りの柱、瓦葺きの屋根。全てが霞んでいた。
幼い男の子が一人、門の前に立っていた。痩せた肩、汚れた服。それは夷涼の地の孤児だった。かつての空羽だ。
男の子の隣に、一人の女性が現れた。瑞江湊だ。彼女はしゃがみ込むと、男の子の手を取った。手は温かかった。男の子の頬に触れる指先は柔らかく、埃を拭う。
「これからは、ここが君の家だ」
湊の声は優しかった。霧が微かに揺れる。男の子は顔を上げた。湊は微笑んだ。その笑顔には、救いがあった。
彼女は立ち上がり、男の子の手を引いた。二人は朱塗りの門をくぐった。中には、広い庭が見えた。桜の木が何本も立っている。
手の温もりが、夢の中の空羽に伝わってきた。皮膚の感触、力の入れ具合。全てが鮮明だった。
ベッドの上の空羽が、指をわずかに動かした。彼の眉がひそむ。顔の筋肉が微かに痙攣する。
夢の景色が次第に薄れる。霧が濃くなり、湊の姿が霞んでいく。手の温もりだけが、しっかりと残っていた。それが消えることはなかった。
空羽の瞼がぱちりと動いた。灰色の瞳が暗闇を見開く。天井の木目が、ぼんやりと見える。
彼はゆっくりと起き上がった。左手を自分の目の前に掲げた。指先を見つめる。何もない。しかし、掌にはまだ温もりが残っているように感じられた。湊の手の感触が、皮膚に焼き付いていた。
彼は拳を握った。爪が掌に食い込む。現実が戻ってきた。ここは蓮華の里の、白雪家の屋敷だ。彼の「家」である。
窓の外がほの明るくなり始めている。鳥の声が遠くから聞こえる。
空羽はベッドから降りた。足の裏が畳に触れる。冷たい。夢の温もりとは対照的だった。
彼はサイドテーブルの上の焦げた木片に手を伸ばした。木片を持ち上げ、掌に載せる。微かな温もりを感じた。しかし、それは夢の記憶とは違う。単なる物体の熱だった。
「……」
彼は口を開かなかった。ただ、木片を握りしめた。握力が強くなる。前世の記憶と、今の感覚が混ざり合う。焔城陽太の罪と、白雪空羽の安らぎ。
彼は窓辺に歩み寄った。外を眺める。里の屋根が並び、静かに朝を待っている。
掌の温もりは、少しずつ消えていった。現実の冷たさに取って代わられる。 朝の光が窓から差し込み、畳の縁を金色に縁取った。白雪空羽はテーブルに向かい、硬パンを割る手を止めた。玄関の戸が叩かれる音が鋭く響く。
足音が近づく。慌ただしい。空羽の眉が微かに動いた。指が無意識にテーブルを叩く。前世の癖だ。
「空羽様、おられますか!」
若い男の声だ。里の見回り役のものだ。空羽は立ち上がり、玄関へ向かった。戸を開ける。
外には、息を切らした青年が立っていた。額に汗が光る。瞳が揺らいでいる。
「北東五里の集落が……昨夜、襲われました」
空羽の呼吸が一瞬止まった。左手首に触れる指が力を増した。
「瓦礫だけが残っている。生きている者は……一人もいないとの報告です」
青年の声が震えた。空羽はその顔をじっと見た。恐怖が張り付いている。彼の喉が乾く。
「何が襲った?」
空羽の声は低く、平たんだった。青年は首を振る。
「分かりません。痕跡が……普通ではないそうです。まるで、地べたが飲み込んだように」
不気味な予感が空羽の背筋を這った。夷涼の地で感じたものに似ている。怨霊の気配ではなく、何か別のものが蠢く感覚。
「湊さんには報告したか?」
「はい。ただ、湊様は既に里を発たれて……」
空羽の灰色の瞳が細くなる。掌に焦げた木片の感触が蘇る。微かな温もりが、今は冷たく感じた。
「わかった。行く」
彼は玄関を出た。朝の光が急に鋭く刺すように思えた。集落の方向を見る。空は青いが、その先に闇が潜んでいる気がした。
青年が去っていく足音が遠ざかる。空羽は一人、門前に立った。風が銀白色の髪を揺らす。
「人喰い峠……か」
呟きは風に消えた。彼は胸の奥で、何かが軋む音を感じた。焔城陽太の記憶が、警告を鳴らしている。 ベッドの上、空羽は目を開けた。視界がぼやける。天井の木目が二重に見えた。頭が重い。思考が鈍く回る。
「……ここは」
彼は体を起こそうとした。腕に力が入らない。筋肉が鉛のように沈む。呼吸が浅く、胸の奥が息苦しい。床に下ろした足の裏が冷たい。畳の感触が皮膚に張り付く。
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