第19話 鬼将軍との対峙
「ふむ、陽太が迷ったその時も…君はこの言葉で彼を誘ったのか。」
鬼将軍は短く息を吐く。仮面の隙間から冷たい空気が漏れる。
「違う。彼は自分の影に気づいただけだ。」
仮面を外す音が鈍く響く。漆黒の鎧が軋む。仮面の下から現れたのは、青白くやつれた男の顔だった。その口元が歪んで笑う。
「仮面を外して高らかに笑う!」
静河玄は一歩踏み出した。痩せた手が震える。
「鬼将軍よ、その仮面の下には何が隠れている。白雪空羽に近づくのはやめよ。」
「仮面の下?ただの顔だよ。」
和泉優人の笑いがやがて消える。彼の目が、瓦礫の向こうに立つ空羽へと向かう。
「白雪空羽?…あの男は何も知らない。」
静河玄はため息をつく。白い息が夜霧に溶ける。
「なにも知らない、か。陽太も最初はそうだった。すべてを失って、初めて知る。」
白雪空羽は動かない。瓦礫の上に立ったまま、二人を見つめ続ける。冷たい風が銀白色の髪を揺らす。彼の胸の中で、二つの心臓が騒ぐ。
***
焼け残った家屋の跡で、焔刀の刃が鈍く唸る。白雪空羽の、否、焔城陽太の指先から黒い影が這い出す。それは焔山一族の残党へと襲いかかった。
「これで…終わりだ」
陽太がそう呟くより早く、足元の地面が微かに震えた。枯れ草が音もなく粉々に散焼け残った家屋の前。焔城陽太の操る黒い影が、最後の焔山一族の男を締め上げた。男の喉笛が軋み、がくりと首が垂れる。
足元の地面がまた震えた。今度は明らかだった。陽太の手首から滴り落ちる鬼気が土に触れるたび、地脈が痙攣する。周囲の木々の葉が、風もないのにざわめき、一斉に色を失った。青い蛍のように漂っていた自然霊が、逃げるように四方へ散った。
「…っ」
拒絶。土地そのものが、彼の力を嘔吐しようとしている。霊脈が軋み、彼の足裏から冷たい嫌悪が這い上がる。かつて育ったこの土が、今の彼を異物として排除する。
それでも陽太は指を閉じた。締め上げる影に、さらに力を込める。骨が折れる音が乾いた夜気に響く。
「俺は…やめられない」
復讐が完うその瞬間まで。たとえこの地に立つ資格を、削り取られても。 足元の震えが止まない。瓦礫の下から、冷たい手が白雪空羽の足首を掴もうとする。土地そのものが拒絶している。焔刀が軋み、刃文に走る黒い炎が己の意思で暴れ始めた。空羽は一歩、また一歩と後退した。
「ここは……まずい」
青柳静雅が声をかけるより先に、彼は振り返って走り出した。荒廃した集落の外れへ、夜の闇へと駆け込む。背中で焔刀の咆哮が追いすがる。
仙門百家の支配領域へと続く山道を、二人は駆け上がった。背後から、まるで地割れのような唸りが遠ざかる。空羽の左手首が熱い。袖の下で、脈打つように疼く。彼は無意識にその部分を右手で押さえた。
ふと走りを緩め、振り返る。夷涼の地は、闇をまとった瘡蓋のように谷間にへばりついていた。復讐は果たした。焔山の残党は消えた。しかし胸の内は、かえって空洞のように寒い。
「静雅」
声がかすれた。隣に並んだ静雅の顔を見る。真っ直ぐな視線が、答えを待っている。
「あの土地が、俺を吐き出した。鬼道の力も……制御が、難しい」
左手首をぎゅっと握る。皮膚の下で、異質な何かが蠢く感触がある。前よりも確かに、強くなっている。
「このままでは、まずい。わかっている。だが……」
言葉が詰まる。真意を打ち明けるべきか。己が焔城陽太であることを、この侵食を。信じられるのは彼女だけだ。しかし、それを口にすれば、また彼女を危険に巻き込む。
「お前を、巻き込みたくない」
夜風が、汗で冷たくなった頬を撫でる。静雅は何も言わず、ただ彼の顔を見つめ続けた。その沈黙が、答えよりも重くのしかかる。
***
焔城陽太は目を覚ました。ベッドの上に横たわり、天井を見つめていた。左手首の奥で、脈打つ熱が残っている。夜の記憶が、重い雲のように頭に漂う。静雅の沈黙。夷涼の地を呪った鬼道の疼き。
彼は起き上がった。足元がふらつく。体が冷たい。窓の外は、薄明るい朝だった。青柳静雅の家へ向かう。百二十分の道のり。その時間が、彼には必要なのだ。
玄関で靴を履く。懐に手をやる。白雪空羽の家の鍵が、金属の冷たさで存在していた。今、ここにいるのは誰なのか。指が鍵の形をなぞる。
戸を開けた。外気が顔を撫でる。街はまだ眠りから覚めきっていない。一歩、踏み出す。歩き始める。
「……信じられるのは、お前だけだ」
呟く声は、吐息に消えた。舗道を歩く足取りは重い。心臓が、肋骨の裏で速く打つ。
青柳静雅の屋敷は、仙門百家の支配領域の奥にあった。白亜の塀と青瓦の屋根。整然とした庭園の向こうに、主屋が静かに佇んでいる。白雪空羽――焔城陽太は、門前で足を止めた。胸の奥で、心臓が不規則に鼓動していた。手のひらが湿る。
彼は息を吸い込んだ。冷たい空気が肺を刺す青柳静雅の屋敷は、朝もやに霞んでいた。白雪空羽――焔城陽太は、白亜の塀の前に立つ。足が地に張り付く。彼は息を深く吸い、ゆっくりと吐いた。
「……静雅」
呼ぶ声は、思ったより掠れていた。手のひらの汗が冷たい。
応答はなかった。だが、玄関の格子戸が滑るように開いた。そこに立っていたのは、青柳静雅ではなかった。黄金光希だった。金色の髪が、薄明かりの中で鈍く光る。
「随分と早朝の訪問だな、空羽」
光希は口元を歪めた。細い目が、陽太の全身を這うように見つめる。陽太の喉が渇く。心臓が、肋骨の裏で暴れ出す。
「……静雅は?」
「不在さ。用事なら、俺に言え」
光希が一歩前に出る。距離が詰まる。陽太の背筋がぴんと張る。鬼道の疼きが、左手首の奥で脈打った。抑え込まねばならない。今は。
「静雅にしか話せないことだ」
言葉が硬い。胃の奥が重い。光希の瞳が微かに細まる。
「ふん。また秘密か」
光希は軽く笑った。笑い声に、鋭いものがある。陽太は黙った。無言が答えとなる。光希の表情が変わる。興味と苛立ちが混じる。




