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第18話 優人の忠告と禁断の力

「警告する。鬼道に頼れば、戻れない。俺がそうだった」


 優人の声に、わずかな震えが混じる。空羽は顔を上げる。黒ずんだ木々の向こうに、峠の輪郭が見え始めていた。


「戻れないのは知っている。それでも…」


 吐き気が喉をよじ登る。空羽は拳を握り締めた。爪が掌に食い込む。


「彼女を救う。それだけだ」


「…ふん」


 優人は深く息を吐いた。仮面の向こうで、何かが嗤っているように感じた。


「ならば、行くがいい。だが覚えておけ。峠では、お前の過去も待っている」


 言葉が終わるより早く、鎧の影が霧の中に溶けた。残された冷気が、空羽の肌を刺す。


 彼は再び歩き出した。足取りは重い。峠までの道のりが、果てしなく遠く感じられた。


 ***


 黄金光希との約束の時間が近づく。夜の九時半、白雪空羽は自宅を出た。月のない闇が彼を包む。目的地は古代遺跡だ。


 息が浅い。吸っても吸っても、肺の奥まで届かない。足元の小石を蹴った。その音だけが、重い沈黙を切り裂く。


「…っ」


 胸の内側で心臓が早鐘を打つ。耳元で脈が響く。禁術の覚書が懐で重くのしかかる。焔城一族の遺品は、肌に触れる部分だけが異様に冷たい。


 歩くたびに、胃の底が重くうごめく。むかつきが喉元まで上がってくる。彼は顎を引き、呑み込んだ。唾ですら、砂のように喉を軋ませた。


 道は夷涼の地へと続く。焼け残った家屋の輪郭が闇に浮かぶ。瓦礫の山が、歪んだ牙のように見えた。冷たい霧が足首を舐める。


「…行くしかない」


 声は掠れていた。拳を握る。肩の力が抜けない。筋肉が鉄のように固まっている。疲れが骨の髄まで染みついている感覚だ。


 ふと、足を止める。かつて湊が立っていた広場の跡だ。色あせた鞠の残骸が、闇の中で微かに白く光っている。


 彼は目を逸らした。再び歩き出す 白雪空羽は瓦礫の上を歩いていた。闇の中で視界はぼやける。遠く、古代遺跡の黒い輪郭が見え始める。


 鼓動が耳の中で暴れる。息を吸うたび、肋骨が軋む。懐の焔城一族の遺品が熱を持った。皮膚に焼き付くような疼きだ。


「…はあ」


 吐息が白く翳った。すぐに闇に消える。足を取られる。緩んだ土が靴の下で崩れる。よろめく。左手首を無意識に押さえる。


 遺跡の入口が近づく。石積みの隙間から、鈍い黄金色の光が漏れている。光希が待つ合図だ。


 胃が攣る。むかつきが口の中に溢れる。彼は顎を食いしばった。唾を飲み込む。喉が焼けるように痛い。


 最後の数歩。足が鉛のように重い。肩の力が入りすぎて、震えがくる。


「…湊を、救う」


 嗄れた声が闇に消える。彼は光の中へ、足を踏み入れた。


 ***


 瓦礫の上を歩く足音だけが、闇に響いた。古代遺跡を後にして、三十分。瑞江湊の自宅へ向かう途中の道だ。


 鼓動が耳の奥でうるさい。息を吸うたび、胸が締めつけられる。懐の禁術の覚書が重い。皮膚にじっとりと冷たい汗がにじむ。


 足元がふらついた。緩んだ地面が靴の下でずれる。よろめく。左手首を無意識に握りしめる。骨がきしむ。


 月明かりが、焼け残った家屋の影を長く引き伸ばす。かつての広場の跡だ。色あせた鞠の残骸が、闇の中で微かに白く光っている。


 彼は目を逸らした。歩みを速める。


 胃が重く、むかつきが喉まで込み上げる。唾を飲み込む。喉がひりつく。懐から謎の護符を取り出す。朱色の紋様が、微かに脈打っている。


「……静雅」


 護符に呼びかける。声は闇に吸い込まれる。何も起こらない。霊力が乱れ、術式が組めない。歯を食いしばる。


 次に、禁術の覚書を開く。皮の表紙が冷たい。朱文字が蠢く。湊を救う術の記述に目を走らせる。生けるものを喰らう鬼道。死者と対話する異端。


 手が震える。本を閉じる音が、静寂を破る。


 傍らの水がめに目をやる。ひび割れた甕だ。中を覗く。底に、わずかな水が溜まっている。濁っている。


 欠けた茶碗を手に取る。縁が鋭い。土器の冷たさが掌に伝わる。


「……これで、足りるのか」


 嗄れた呟きが、風に散る。護符も覚書も、今は役に立たない。伝統的な方法しか残されていない。


 彼は茶碗を握りしめた。指の関節が白くなる。足を踏み出した。湊の元へ向かう最後の道を。


 心臓が、耳元でドクドクと鳴り続ける。


 ***


 夜の夷涼の地は、瓦礫の影が長く延びていた。白雪空羽は焼け残った家屋の前に立つ。銀髪が月に照らされる。手には欠けた茶碗。握る指が強ばっている。


「……湊」


 彼の名を呼んだ声は、瓦礫に消えた。返事はない。ただ冷たい風が吹き抜ける。空羽の胸の内で、焔城陽太という名が蠢いた。前世の影だ。


 足元に散らばる遊び道具の残骸を見下ろす。色あせた鞠。石の遊戯盤。かつての子供たちの痕跡。彼はその中にいた。孤児として。


「……道の先には、己自身の影しかいない」


 誰の声か、わからない。記憶の底から湧き上がる。陽太がかつて聞いた言葉。蓮華の里で。空羽の眉が微かに震える。


 彼は茶碗を置いた。ゆっくりと、瓦礫の山へ歩き出す。足音だけが響く。夜霧が冷たくまとわりつく。


 瓦礫の隙間から、微かにうごめく影が見えた。怨霊の気配だ。空羽は目を細めた。青みがかった瞳が、一瞬、鋭く光る。陽太の眼差しだ。


「来たな」


 黒い鎧の影が、瓦礫の上に現れた。仮面の隙間から赤い瞳が覗く。鬼将軍だ。その傍らに、白髪の老人が立っている。静河玄である。


 静河玄は長いひげをなでながら言った。


「鬼将軍よ、その言葉は聞き覚えがある。焔城陽太が鬼道にのめり込む前に口にしたものだ。歴史は繰り返そうとしているのか?」


 鬼将軍の仮面が微かに傾く。金属質の声が響く。


「歴史か…陽太と同じ言葉を選んだな、静河玄和泉優人の仮面が微かに傾く。金属質の声が瓦礫の山に響く。


「歴史か…陽太と同じ言葉を選んだな、静河玄よ。」


 静河玄は目を細めた。深い皺がさらに刻まれる。彼は鬼将軍の赤い瞳をまっすぐ見つめた。


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