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第17話 不吉な絵画と霊の高まり

「…ッ」


 声が出ない。左手首を無意識に握りし 壁に掛かっていた絵画が落下した。不吉な灰が楓の顔を覆った。白雪空羽は足を動かせなかった。


「……」


 呼吸が浅い。鼓動が耳朶を打つ。彼は左手首を握りしめた。皮膚の下で血管が波打つ。冷や汗が首筋を伝う。


 彼はゆっくりと背を向けた。靴音だけが廊下に響く。護符の温もりが胸に張り付く。霊力が血管を這い上がる。じんわりと、熱い。


 階段を下りる。一段ごとに、足首が重い。胃の奥が縮む。むかつきが喉元に迫る。彼は手すりに掴まる。指が白くなる。


 玄関の戸が開く。外の光が眩しい。風が頬を撫でる。彼は目を細めた。


 道を歩き始める。石畳が続く。左側に崩れた井戸が見える。水は濁っている。緑色の膜が張る。


 彼の足取りはふらつく。地面が揺れる。まぶたの裏がちらつく。また幻覚か。彼は首を振る。銀髪が汗に貼りつく。


 霊石の効果だ。力が湧き上がる。同時に、臓腑が軋む。禁術の覚書が懐で重たい。焔城の遺品が冷たい。


 彼は立ち止まる。膝が震える。深呼吸をする。冷たい空気が肺を刺す。


「……落ち着け」


 声はかすれた。彼は前方を見る。瑞江の自宅はまだ遠い。屋根の瓦がかすかに光る。


 もう一歩、踏み出す。


 ***


 瑞江湊の自宅を離れたのは、ちょうど未の刻を回った頃だ。白雪空羽は道を逸れ、里の外れへ向かう。静河玄の庵は、夷涼の地を見下ろす丘の中腹にある。


 石段が続く。一段上がるたび、息が浅くなる。胸の内側で護符が脈打つ。まるで別の心臓だ。手のひらに冷たい汗がにじむ。


 庵の門前に立つ。簡素な柴扉だ。彼は手を上げる。が、叩けない。指先が震える。胃が縮む。


「……入ってよい」


 声は門の向こうから来た。老いた、それでいて芯のある声だ。


 彼は扉を押す。きしむ音がする。


 庭には、一本の枯れ梅がある。その根元に、灰色の道服を着た老人が座っていた。静河玄だ。目を閉じている。


「座れ」


 空羽はためらう。そして、枯れ草の上に腰を下ろした。土の冷たさが腿に伝わる。


「湊の様子は」


「……息はある」


「それで、足がここに向かったか」


 静河玄は目を開ける。瞳は曇ったガラスのようだ。しかし、空羽の顔をまっすぐに見据える。


「禁術を使いたい」


 空羽の声は、自分の耳にさえ冷たく響いた。


「使えば、湊は救える」


「そして、お前は堕ちる」


 静河玄の言葉に、風が止んだ。空羽の喉が詰まる。唾を飲み込めない。


「救えるなら……それでいい」


「嘘をつけ」


 枯れ枝のような指が、そっと空羽の額に触れた。


「ここに、迷いがある。お前は救いたくない。ただ、償いたいだけだ」


 空羽は目を見開く。触れられた額が、火照る。


「償いと救いは違う。一つは過去を見る。一つは未来を見る」


「……未来なんて、あるのか」


「お前が決めることだ」


 静河玄は手を引く。空羽の体が、微かに前のめりになる。支えを失ったように。


「だが、警告はする。その術を使えば、二度と焼け残った家屋前の広場で、白雪空羽は立ち尽くしていた。


 体が動かない。胃の奥が重く、むかつきが喉元まで迫る。足元がふらつく。護符が懐で微かに震えていた。瓦礫の山からは、冷たい囁きが風に混じって聞こえる。


「……駄目か」


 彼は歯を食いしばった。胸の内側で鼓動が速く響く。寒気が背筋を伝う。


 湊の自宅へは向かえない。今のこの体では、何もできない。


 空羽はゆっくりと踵を返した。方向を変え、静河玄の庵へと歩き出した。一歩ごとに、手足に鉛の重さを感じる。


 焼け跡を抜け、細い山道に入る。木々の間を縫うように登っていく。息が浅い。額に冷や汗がにじむ。


 道端の草が、不自然に黒く枯れている。彼の通るたびに、さらに色を失っていく。


「……止まれ」


 彼は自分に呟いた。しかし、枯れていく範囲は広がるだけだった。


 やがて、山腹にひっそりと佇む庵が見えてきた。屋根には古びた茅葺き。静かな霊気が漂っている。


 空羽は門前で立ち止まった。膝が震える。全身にまとわりつく痛みがある。


 彼は懐に手をやった


 ***


 焼け跡を抜ける風が、彼の銀髪を逆なでに揺らした。足元の瓦礫が軋む。空羽は湊の自宅へ向かうはずの道を、逆に歩いていた。


 胸の奥で脈が打つ。鼓動が喉まで届く。静河玄の言葉が、脳裏を焼く。


 左手首が無意識に擦れる。触れる皮膚は冷たい。昨日までの穏やかさは、ここにはない。


「……くそ」


 彼は呟くと、歩みを速めた。細い山道が視界に現れる。目指すは、蓮華の里の秘密の蔵書庫だ。


 道端の草が、彼の足音に触れ、色を失った。黒く枯れていく。止まらない。


 胃の奥が重い。朝からのむかつきが残る。しかし、空腹はもう感じなかった。


 蔵書庫へ向かう理由は一つ。湊を救う術だ。覚書の重みが、懐で鈍く疼く。


 ***


 彼は蔵書庫の暗がりで見つけた。巻物の端に挟まった、ほつれた真紅の糸。記憶が胸を突く。蓮華の里襲撃の夜、瑞江楓が着ていた着物の色だ。空羽はそれを握りしめた。掌が汗で湿る。


 足元がふらつく。瓦礫の山を越え、人喰い峠へ向かう細道に入った。道は次第に険しくなる。木々の葉が不自然に黒ずんでいる。


「待て、陽太」


 声は背後から響いた。金属質で冷たい。振り返らずに空羽は歩みを止めた。


 漆黒の鎧の影が、夕闇の中から現れる。仮面の隙間から、赤い瞳が光る。鬼将軍、和泉優人だ。


「約束だな。峠で会おうと言った」


「…ああ。だから、行く」


 空羽の声はかすれていた。胸の鼓動が耳障りだ。優人は微かに首を傾げる。


「その体でか。無理は禁物だ」


「構わない。お前とも話がある」


 優人は一歩踏み出した。鎧がかすかに軋む。空羽は懐に手をやる。護符が微かに震えているのを感じた。


「湊を救う術。禁術だな」


「…察しが早い」


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