第16話 枯野を越えて襲い来る声
道端に壊れた祠。注連縄が腐り切る。彼は目を逸らさない。瞳の奥で、瓦礫が蠢く。焼けた柱。濁った水の臭い。
「…」
息が浅い。歩幅が乱れる。護符が微かに震える。前世の地が近い。
枯れ野が広がる。土は灰色。草一本生えぬ。遠くに、焼け残った家屋の骨組みが黒く立つ。
彼は立ち止まる。足が地に吸われる。風が唸る。耳元で、子供の笑い声が掠める。
銀髪が逆立つ。背筋に冷たいものが走る。彼は首を振る。振り切る。
また歩き出す。一歩。また一歩。夷涼の地が、静かに喰らいかかる。
***
家屋の骨組みは近づくほどに歪む。梁が折れ、屋根が陥没している。広場には瓦礫が散らばる。錆びた鍋。ひび割れた甕。
空羽はその中心に立つ。風が灰を巻く。目を細める。灰色の瞳が、地面を掃く。焼けた石。食べ殘しの骨。色あせた鞠が転がる。
「…」
彼は蹲る。指が地面を撫でる。土が乾いて冷たい。護符の震えが強まる。
瓦礫の山の方へ視線を向ける。影がうごめく。囁きが聞こえる。子供の靴片が、黒く焦げて埋もれている。
立ち上がる。足が瓦礫を踏む。ガリ、ガリ。音が不気味に響く。中心部へ近づく。
突然、左足が何かを蹴る。小さな音がする。俯く。
土埃に埋もれた櫛だ。半分焼けている。残った装飾は、楓の葉の家紋。しかしその葉の先が、欠けている。
空羽の指が止まる。伸ばしかけた手が、空中で固まる。
鼓動が一瞬、止まる。胸が締め上げられる。視界が歪む。焼け跡の風景が、別の焼け跡と重なる。炎。叫び。崩れ落ちる柱。そして、同じ家紋が刻まれた櫛が、血に濡れて転がる。
「…楓…」
名前が零れる。声にならない。喉が灼ける。
彼は櫛を拾い上げる。焼け焦げた部分が、指に煤を付ける。家紋の欠けた部分が、鋭く目を刺す。前世の記憶が、鋭い刃となって突き刺さる。楓が倒れる。櫛が砕ける。あの日、葉先が欠けたのは、死の直後だった。
足元が揺らぐ。瓦礫の山が迫る。怨霊の囁きが、彼の名を呼ぶ。
「陽太…」
「戻るな…」
彼は拳を握りしめる。櫛の歯 櫛の歯が、掌に食い込む。痛みが意識を引き戻す。空羽は目を見開いた。焼け跡が広がる。今は夷涼の地だ。彼は立ち上がる。足を踏み出す。
焼け焦げた家屋の間を、風が抜ける。すすの匂いが鼻を刺す。彼は歩き始める。足早に。目的地は、あの瓦礫の山だ。
「湊の手がかり…ここにあるはずだ。」
声は低く、確かに。彼は胸の内側を見つめる。禁術の覚書が、肌に触れる感触を思い出す。使うのか。使わねばならぬのか。歩幅が早くなる。
瓦礫の山が近づく。かつての集落の中心だ。レンガや木材が、不自然に積み上がる。冷たい霧が、地面を這う。
彼は立ち止まる。耳を澄ます。囁きが聞こえる。風ではない。
「…陽太…」
彼は顎を引きしめる。その声を振り切る。膝をつく。手で瓦礫を掻き分ける。黒く焼けた木片。砕けた陶器。
指先が、硬いものに触れる。引きずり出す。それは、小さな布切れの包みだ。煤で汚れている。結び目は固く締まっている。
彼は包みを解く。指が震える。中
***
包みの中から、瑞江楓の裂けた家紋櫛が現れた。焦げた木片に銀糸がくっついている。空羽はそれを握りしめる。掌に冷たさが染みる。彼は立ち上がる。夷涼の地を背にする。歩幅が大きくなる。
足早に里道を進む。背中に汗がにじむ。黄金光希との約束が頭をかすめる。時間がない。心臓が肋骨を叩く。胃の奥が重く沈む。
「間に合え…」
彼は呟く。息が浅い。蓮華の里への道は長い。両脇の枯れ木が流れる。足元の小石が跳ねる。
突然、視界が揺らぐ。右目がチカチカする。記憶の断片が押し寄せる。楓の木。笑い声。そして、赤。
彼は足を止める。片手で目頭を押さえる。深呼吸をする。冷たい空気が肺を刺す。
「今は…空羽だ。」
声はかすれている。左手首を握る。鼓動が速い。もう一度歩き出す。櫛を懐にしまい込む。その感触が、決意を固める。
***
足はふらついた。視界がまた波打つ。陽太は道端の木に手をつく。樹皮の感触が冷たい。深呼吸が喉に引っかかる。
左胸の奥が疼く。護符が温もりを放っていた。霊力が血管を這う。じわりと力が増す。その感覚は不気味だ。
「あの石か…」
彼は呟く。懐の霊石が重い。黄金を約束した代償だ。禁術の覚書が肌に触れる。前世の記憶がよみがえる。湊の顔がちらつく。
歩き続ける。里の家並みが近づく。煙突から煙が立つ。晩飯の匂いがする。胃がぐっと鳴る。空腹ではない。緊張だ。
湊の家が見えた。玄関前に人影。鬼将軍の鎧が夕日に鈍く光る。湊が立ち尽くしている。背筋が硬直している。
「戻れない道だと…分かっていても」
湊の声が震える。拳が握りしめられている。瑞江湊の自宅、病室の中は薄暗かった。窓の外、夕日が沈みかけている。焔城陽太は入口で足を止めた。床に長い影が伸びる。瑞江湊はベッドに横たわっている。目は開いているが、焦点が合っていない。
和泉優人、鬼将軍が窓辺に立つ。鎧が微かに軋む。湊の震える声がまだ空気に残っている。
「戻れない…分かっていても…」
陽太の胃が締めつけられる。護符が懐で微かに脈打つ。彼は一歩、室内に踏み込む。板のきしむ音。
突然、窓がガタンと鳴った。風が吹き込む。カーテンがはためく。壁にかかった大きな肖像画が、ゆっくりと傾いた。
陽太の息が止まる。画は縦長だ。瑞江家の家族が描かれている。中央に楓。その脇に幼い湊と桜。
画は床に倒れこむ。鈍い音を立てる。埃が舞い上がる。
陽太の目が一点に釘づけになる。舞い上がった灰色の埃が、ゆらりと漂う。それが、画の中の楓の顔面だけに、ぱっと付着した。頬からあごにかけて、不自然な汚れが広がる。
湊は微かに目を動かしただけだ。朦朧とした視線は画を見つめていない。
陽太の足が凍りつく。背筋に冷たいものが走る。胸の内側で、心臓が暴れるように打つ。あの汚れは偶然ではない。暗示だ。警告だ。




