第15話 静雅の警告と鬼道の澱み
「何かがお前を蝕んでいる」
静雅の言葉は鋭い。空羽は振り向かない。窓の外の闇を見つめている。
「何の話だ」
「鬼道の気配だ。湊の家を出てから、お前の周りに澱のように纏わりついている」
空羽の背筋が微かに震える。彼は膝の上の木片を握りしめる。温もりが骨に染みる。
「勘違いだ」
「嘘をつくな」
静雅の足音が近づく。彼女は空羽の正面に回り込んだ。瞳が真下から覗き込むように空羽を見上げる。その目に、危険な光が揺らめいている。
「白雪空羽は、鬼道など触れたこともない。お前は違う。何者か?」
空羽の喉が渇く。左手首が疼いた。
「…焔城陽太だ」
声は低く、しかし確かだった。静雅の目が見開かれる。一瞬、殺気が部屋を満たした。彼女の右手が、腰の刀の柄に触れる。
「…何て?」
「身捧げの儀で、この体に転生した。十三年前に死んだ、あの焔城陽太だ」
静雅の息が乱れる。彼女は一歩後退する。燈籠の光が、彼女の顔に深い影を落とした。
「あり得ない。あの邪道は、完全に滅んだはず」
「滅んでいなかった。俺はここにいる」
空羽はゆっくりと木片を掲げた。青白い微光が、彼の顔を歪ませる。
「これが証拠だ。焔山の怨霊の気配を感じる。人喰い峠の怪異も、これと同じ気配だ」
「それを知ったから何だ」
静雅の声が鋭く響く。彼女の左手が空羽の腕を掴んだ。握る力が強い。
「鬼道に手を出すな。お前はもう一度、同じ道を歩もうとしている」
「歩まねばならん」
空羽が静雅の手を振り払う。彼は立ち上がった。二人の距離が詰まる。燈籠の光が、二つの影を壁に激しく揺らめかせる。
「真実が闇の中にある。仙門百家が隠している。俺の死の真相も、人喰い峠の怪異も、全て繋がっている」
「力で真相を暴いてどうする。また同じ過ちを繰り返すだけだ」
静雅の瞳に、苦しみがよぎる。空羽の胸が締め付けられる。彼女は知っている。焔城陽太が最後に何をしたかを。
「お前を止められなかった過去が、今も俺を責める」
その言葉に、空羽の足が微かにがくついた。彼は静雅の顔をまっすぐに見る。彼女の目には、曇りのない決意がある。そして、痛みがある。
「…静雅」
「鬼道はお前を食い尽くす。一度でも使えば、後戻りはできん。白雪空羽としての今を、失う」
「失うものがあるからこそ、力が必要だ」
空羽の声が震える。彼は懐から二十三霊銭を取り出した。硬い金属が冷たい。
「守りたいものができた。お前も、湊も。だが、守るためには闇と対峙せねばならん」
「対峙するのは力だけではない。俺がいる。共に調べると約束したではないか」
「それだけでは足りない!」
空羽の叫びが部屋に響く。彼自身がその声に驚いた。静雅の目が見開かれる。空羽は息を整える。
「…すまない」
「空羽」
静雅が一歩近づく。彼女の手が、そっと空羽の頬に触れた。冷たい指の感触。
「お前が焔城陽太であろうと、白雪空羽であろうと、関係ない。今、ここにいるお前が、大切なのだ」
その言葉が、空羽の胸を貫く。彼の目が熱くなる。彼は静雅の手を握る。温もりがない。彼女の手は、いつも冷たい。
「…約束を破るつもりはない。だが、真実は力でしか掴めない。それが、俺の生きてきた道だ」
「ならば、俺がその道に立ちはだかる」
静雅の目が強く光る。彼女の手が空羽の手を離れる。刀の柄を握る。
「次に鬼道を使うのを見せたら、俺がお前を斬る。約束だ」
空気が凍りつく。空羽の鼓動が一瞬止まる。彼は静雅の瞳を見つめる。そこに迷いはない。覚悟がある。
「…わかった」
空羽がうなずく。彼は木片を懐にしまった。温もりが胸に染み込む。
「だが、人喰い峠では何が起こるか分からん。その時は…」
「その時は、共に戦う」
静雅が言葉を遮る。彼女の口元が微かに緩む。
「俺は鬼道を認めぬ。だが、お前を信じる。白雪空羽としての、焔城陽太としての、お前の全てを」
空羽の喉が詰まる。彼は目を伏せる。涙が落ちるのをこらえる。
「…馬鹿な女だ」
「ああ、馬鹿だろう」
静雅が踵を返す。彼女は戸へ向かう。手をかけた時、振り返る。
「明日の朝、迎えに来る。準備をしておけ」
戸が開く。冷気が流れ込む。静雅の背中が闇に消える。足音が遠ざかる。
空羽はその場に立ち尽くす。膝の力が抜ける。彼は床に座り込んだ。左手で胸を押さえる。鼓動が早い。静雅の言葉が、胸の中で繰り返される。
彼は懐の木片に触れる。温もりが誘う。力を与える約束をする。
「…いかん」
彼は手を離す。深呼吸する。冷たい空気が肺を満たす。
守るべきものがある。信じてくれる者がいる。それでもなお、闇は彼を呼ぶ。
二つの心臓の鼓動が、再び高鳴り始める。一つは守りたいと願う。もう一つは、真相を暴けと叫ぶ。
彼は立ち上がる。窓の外の闇を見つめる。
明日。人喰い峠で、彼はどちらの鼓動に従うのか。答えは、まだ闇の中にある。
***
東の空が白む。刻は卯の刻。夷涼の地へ通じる峠道。
雪空羽は歩く。足早に。背後に白雪家の屋敷を置き去りにする。彼は振り返らない。顔は前を向いたまま。銀髪が朝もやに溶ける。
懐が重い。禁術の覚書が、皮膚に熱を伝える。護符が微かに脈打つ。
「…あの場所か」
唇が動く。声にならない。目には、瓦礫の山が浮かぶ。焼けた柱。濁った水。
右手が自然と上がる。左の手首を掴む。触れる。前世の傷跡のない皮膚。指先が震える。
彼は歩みを速める。足音が石を踏む。カツ、カツ。リズムが狂う。鼓動とずれる。
道は下る。周囲の木がまばらになる。枯れ枝が空を刺す。土の色が変卯の刻。峠道は夷涼の地へと下っていた。
白雪空羽は歩く。足音だけが先行する。背後の家は遠い。彼の懐は、禁術の覚書と護符の重さで傾く。左手首を掴む右手の指が、白く締まる。




