第14話 闇に誓う二つの影
「静雅。お前には約束を守る」
彼は窓の外の闇を見つめる。
「だが、俺は焔城陽太でもある。真実は、力で引きずり出す」
その宣言が、部屋に残響する。彼の影が、壁の上で微かに膨らんだ。二つの影が一つに重なる瞬間だった。
彼は文献を閉じる。机の上を片付ける。焦げた木片を懐に戻す。温もりが胸に染みる。彼はベッドへ向かう。横になる。天井を見つめる。
心臓の鼓動が、徐々に落ち着いていく。体の重みが、深い眠りへと引きずり込む。だが、意識の奥で、一つだけ確かな思いが残る。
明日。彼は白雪空羽として歩き出す。だが、焔城陽太の力もまた、彼の一部だ。二つが溶け合う時、何かが始まる。
目を閉じる直前、窓の外で子供の笑い声が聞こえた気がした。湊の声ではなかった。もっと古い、遠い記憶の声だ。
彼はそれに気づかないふりをした。ただ、深い呼吸を繰り返す。明日に備えて。 図書室は埃と黴の匂いが漂う。灯りが一本、机の上を照らす。白雪空羽は焦げた木片を置く。その横に、『焔山一族正史』と『鬼道変異録』が開かれている。
指が頁をなぞる。墨の文字が滲んで見える。『仙門百家、焔山討伐の件』。日付は十三年前。丁度、焔城陽太が死んだ年だ。
「…一致するな」
空羽の声は低い。胸の鼓動が早い。寒気が背筋を走る。彼は左手で胸を押さえる。冷たい。
窓の外は深い闇だ。風が唸る。その音に混じって、かすかな泣き声が聞こえる。怨霊の気配が、窓ガラスを這う。
焦げた木片が震えた。青白い微光が走る。彼は目を細める。文献の記述と、木片の反応が重なる。
「人喰い峠…」
彼は別の書物を引っ張り出す。『辺境怪異録』。頁を急いでめくる。脆い紙が破れる。
そこに描かれていた。歪んだ地形。立ち込める黒い瘴気。そして、喰い荒らされた遺体の図。
「…同じだ」
彼の息が白くなる。室温が下がっている。吐く息が瞬時に冷える。
木片の微光が強まる。机の上の文献が、微かに浮き上がった。頁がひとりでにめくれる。『仙門百家協定書』の一節が現れる。
『…怪異鎮圧の名のもと、焔山一族の鬼道研究資料を没収す』
空羽の指が止まる。その下に、小さな注記がある。
『但し、其の内幾許かは、百家内にて分散保管』
「…はっ」
嗤うような息が漏れる。仙門百家が、鬼道を隠し持っていた。禁術だと断じたその力を。
彼の左手首が疼く。存在しない鬼手の痕が、熱を帯びる。記憶が蘇る。焔城陽太が最後に見た光景。仙門の者たちが、研究室の資料を運び出す背中。
「そうか…お前らも、欲しかったんだな」
声が掠れる。怒りが胸を灼く。だが、同時に懐の木片が温かくなる。力への誘いが強まる。
彼は立ち上がる。足元がふらつく。眩暈がする。図書室の本棚が、ぐらりと傾いて見える。
「…まずい」
壁に手をつく。冷たい漆喰の感触。現実に縋る。
その時、背後で音がした。本が一冊、棚から落ちる。ぱたり、と乾いた音。
空羽が振り向く。落ちたのは『怨霊気配測定法』だ。頁が開いている。そこには、複数の怨霊気配が同期する現象について書かれている。
『…其の同期は、大規模な鬼道術式の予兆なり』
「…予兆」
彼は呟く。目がかすむ。頭が重い。
図書室の空気がさらに重くなる。灯りの炎が、青く揺らめいた。影が伸びる。空羽自身の影が、二つに分裂しているように見える。
彼は焦げた木片を握りしめる。震えが止まらない。今、ここで、何かが始まろうとしている。人喰い峠の怪異も、この気配の同期も、全てが繋がっている。
「静雅…」
彼は無意識にその名を呼ぶ。約束を思い出す。だが、真実は目の前にある。触れられるほど近くに。
灯りがぱちりと音を立てる。炎が小さくなる。闇が迫る。
空羽は歯を食いしばる。体が言うことを聞かない。恐怖と、渇望が入り混じる。
「…俺は」
彼は机に寄りかかる。文献を抱える。頁をめくる手が震える。
次の瞬間、図書室の扉が軋んだ。誰かが来た。足音はない。ただ、冷気が流れ込む。
空羽の背筋が凍る。彼はゆっくりと振り向く。
扉の隙間から、青白い手が伸びている。指先が、彼を招くように動く。
「…来いと?」
彼の声はかすれている。鼓動が耳を打つ。
焦げた木片が熱を放つ。危険だと分かっている。だが、足が動く。一歩、扉へと近づく。
その時、懐の二十三霊銭が冷たく鳴る。現世の価値が、彼を引き止める。
空羽は立ち止まる。深く息を吸う。冷たい空気が肺を刺す。
「…まだだ」
彼は扉から離れる。机に戻る。震える手で、文献を閉じる。
青白い手は、ゆっくりと引っ込む。扉の隙間が、闇に飲まれる。
灯りが再び明るくなる。だが、部屋の冷気は残る。怨霊の気配が、薄れたわけではない。
「…全ては、人喰い峠で」
彼は決意を固める。真実は、力で掴む。だが、静雅との約束もまた、守る。
彼は文献を脇に抱える。焦げた木片を懐に仕舞う。温もりが胸に広がる。
図書室を出る。廊下の闇が深い。彼の足音だけが響く。
その背中に、二つの影がくっきりと伸びている。一つは白雪空羽。もう一つは、焔城陽太のものだ。
二つが完全に重なる時、彼は何者になるのか。答えは、まだ闇の中にある。 家の扉が叩かれた音は、夜の静寂を鋭く裂いた。二十三時三十分。白雪空羽は応接間で微動だにしなかった。焦げた木片が膝の上にあった。掌の下で、微かに脈打っている。
「空羽。居るな」
青柳静雅の声が扉越しに聞こえる。緊迫した調子だ。空羽はゆっくりと立ち上がる。足取りは重い。扉を開ける。
静雅が立っていた。燈籠の光が、彼女の顔を青白く照らす。瞳が空羽をまっすぐに見据える。その視線が、肌を刺す。
「…入れ」
空羽は背を向けた。応接間へ戻る。静雅が後から付いてくる。足音はほとんど聞こえない。彼女が戸を閉めた。部屋の空気が一層重くなる。




