第13話 静雅の願いと別れ
静雅が立ち上がる。彼女は戸口まで歩み、振り返る。
「白雪空羽」
呼び捨てだ。空羽が顔を上げる。
「生きて帰ってください」
彼女の目が真っ直ぐに見つめる。その瞳に、過去の影はない。ただ、今を生きる者の切実さだけがある。
「…ああ。お前もだ」
空羽が答える。声には、思わぬ温もりが滲んでいた。
静雅は微かに頷く。そして、戸を開けて闇へ消えた。足音が遠ざかる。空羽は机に寄りかかる。深く息を吐く。
彼は焦げた木片を手に取る。掌の中で、かすかな温もりが脈打つ。
「…全て明日だ」
彼は呟く。部屋に灯りを点す。炎が揺らめき、壁に彼の影を大きく映し出す。
その影が、微かに歪んだ。まるで、背中にもう一つの影が重なっているように。
空羽はそれに気づかない。彼は明日の準備に、手を動かし始めていた。
***
夜道を歩く足取りが乱れる。心臓が胸を打つ音が耳に響く。
湊の家を出て、三十分。白雪空羽の体は重い。道端の石に躓き、彼はよろめいた。左手が無意識に胸に当たる。鼓動が早すぎる。
「…静雅」
その名を呟くと、胸の奥が疼いた。約束が重くのしかかる。
彼は懐に手を伸ばす。焦げた木片の感触が指先に伝わる。微かに温い。まるで生きているようだ。引き寄せられるように、彼は木片を取り出した。
路地の灯りが揺らめく。木片の黒ずんだ表面に、光が歪んで映る。その瞬間、視界が揺らぐ。
──火が燃える。泣き叫ぶ声。焦げる肉の臭い。
幻覚が頭をかすめた。空羽は壁に手をつく。冷たい石の感触が、現実へと引き戻す。息が浅い。額に冷や汗がにじむ。
彼は木片を握りしめた。危険だと分かっている。それでも、手放せない。この力こそが、真相へと繋がる道だ。前世の焔城陽太が、唯一信じたものだ。
「…俺は」
彼は歩き出す。足元がふらつく。帰路はまだ遠い。
自宅の玄関が見えた時、彼は立ち止まった。扉の前に立つ。鍵を持つ手が震える。中には、白雪空羽の生活が残っている。穏やかな日常の残骸が。
「…入らねば」
彼は扉を押す。軋む音が静けさを破る。
室内は暗い。月光が窓から差し込み、机の上の文献を照らす。『焔山一族の変遷』の背表紙が、青白く浮かび上がる。
彼は机へ向かう。足取りは重い。腰を下ろし、文献を開く。埃が舞う。ページは脆く、めくれば崩れそうだ。
そこに記されていた。『身捧げの儀』。焔城陽太の名。『鬼道の堕祖』という称号。
「…そうか」
空羽の唇が震える。指が文字の上をなぞる。墨の跡が、まるで血のように見える。
彼は焦げた木片を、文献の上に置いた。何も起こらない。だが、胸の鼓動がさらに早くなる。寒気が背筋を走る。この部屋に、もう一人いるような気がする。
机の奥に、羊皮紙の束がある。調査ノートだ。彼は手に取る。開く。
そこには、白雪空羽の筆跡で書かれた怨霊の分析が並ぶ。仙門百家の闇への考察。記憶の断片と、見事に一致する内容だ。
「…全部繋がっている」
彼は呟く。声は乾いていた。
真相は闇の中にある。それを照らすには、鬼道の力が必要だ。危険な力。かつて彼を滅ぼした力。
だが、静雅との約束が頭をよぎる。あの真っ直ぐな瞳。湊の、裏切られた顔。
彼は目を閉じる。疲れが骨の髄まで染み込む。動こうにも、体が言うことを聞かない。
「…三時間後か」
彼は机に突っ伏す。額が冷たい木の感触に触れる。
闇と対峙するか。それとも、今の絆を守るか。
答えは、まだ出ていない。ただ、胸の中で、二つの心臓が高鳴り続けている。 机に突っ伏してから、時間が過ぎた。白雪空羽の意識がゆっくりと戻る。体が鉛のように重い。額の冷たさが残る。目を開けると、文献の上に焦げた木片が置かれている。月の位置がずれている。二時間は経っていたか。
胸の鼓動が耳障りだ。脈が早すぎる。彼はゆっくりと起き上がる。背骨が軋む。手足が冷たい。部屋の空気が重く、湿っている。怨霊の気配が、以前よりも濃くなっている。
焦げた木片が微かに震える。視線を向ける。黒い表面に、青白い微光が走った。幻覚ではない。確かなものだ。空羽の息が浅くなる。彼は指を伸ばす。木片に触れる。
──無数の声が、一瞬だけ頭を過ぎる。悲鳴。呪い。嘆き。全てが混ざり合う。
彼は手を引っ込めた。手の平が冷や汗で湿る。これは鬼道の力だ。白雪空羽の体に染み付いた、焔城陽太の遺産。危険な誘い。
「…静雅を守りたい」
声に出して言う。だが、その思いが、逆に力を呼び覚ます。守るためには力が必要だ。真実を知るためには、闇に触れねばならない。
彼は立ち上がる。足元がふらつく。生活空間の方へ歩く。玄関の鏡に、自分の姿が映る。銀髪が乱れ、灰色の瞳に深い影が宿る。表情に、ほんの一瞬、焔城陽太の面影が走った。
鏡の前で、彼は左手首を握る。冷たい肌の感触。ここに、鬼手の痕があったはずだ。今はない。だが、感覚だけは残っている。力が渦巻く場所。
「お前はどうしたい?」
鏡の中の自分に問いかける。答えは返ってこない。ただ、胸の奥で、二つの鼓動が響く。一つは白雪空羽のもの。もう一つは、焔城陽太の名残だ。
彼は鏡から目を逸らす。机の上の文献に戻る。『人喰い峠』の記述を読む。瑞江湊が発見した怪異。仙門百家の闇。全てが、焦げた木片が震える理由と重なる。
「…明日、静雅と行く」
彼は決意を口にする。だが、その言葉は揺らいでいた。鬼道を使うかもしれない。真実に近づくためなら。
彼は懐を探る。干し肉と硬パン。破れた布。二十三霊銭。全てを取り出す。これが今の彼の全てだ。孤児としての名残。白雪家の養子としての仮面。
焦げた木片を手に取る。今度は覚悟して握る。温もりが掌に広がる。震えが止まった。代わりに、確かな導きが感じられる。力への渇望が、静かに目を覚ます。
彼は深呼吸する。冷たい空気が肺を満たす。胸の締め付けが少し緩む。疲労は残る。だが、迷いは消えた。




