永遠少年①
上も下もなく、前も後ろもない。
その空間は「虚無」だ。
何色でもないその空間に、一人の少年が横たわっている。
ただ、地面が無いので横たわると言うのも少し違う。
強いて言うならば、揺蕩うが近いのだろう。
俯瞰的に見おろしている、何も無い空間に揺蕩う『少年』が自分自身である事を、彼は本能的に知っている。
その景色が目覚める前の唯一、彼の記憶だった。
少年は鯨と共にこの世界に現れた。
気がつけば虚無の空間では無く、海面を揺蕩っていた。
海水は生温く、目に沁みた。
少年は自分が誰かもわからない。
自然と泳ぎ方は知っていたので海を泳いだ。
必然か偶然か泳いだ先に陸があった。
テトラポッドをよじ登る際に、足の裏をフジツボで切り血が出たが、あまり痛みは感じない。
季節は8月。
空から照りつける日差しで焼ける様に熱いアスファルトの道を、少年は傷ついた素足で歩いて行く。
思考は朧気だ。
自分がどこへ向かっているか分からないが、何となく向かうべき方向はわかっていた。
少年は東へ向かう。
フジツボで切った傷から流れる血が、アスファルトに足跡を残す。
「ちょっと!君、何してらぁよ!」
制服を着た警官が少年を止める。
びしょ濡れの少年は、服をきていなかった。
裸で血を流した少年が、和歌山の田舎道を歩いているのだ。止められない方がおかしい。
世界中、空飛ぶ鯨が現れた事に驚き慌しくしている日に、変な事は重なるものだな。と警官は思った。
空を見上げる。
半透明の鯨が空を泳いでいる。
警官は自分シャツを脱ぎ少年の腰に巻きつけた。
取り敢えず、少年を派出所へ連れて行く事にした。
色々と聞き取りを行う必要もある。
血の足跡をみるに、歩かせるのは痛そうだ。自転車に少年を乗せ、ハンドルと荷台を持ちながら押す。
もうすぐ還暦の警官には少し堪える姿勢だ。
少年の歳の頃は16歳位だろうか。
身長は170センチ程、何かスポーツでもしていたのか、程よく引き締まった身体をしている。
特に痣や内出血はみられない。
虐めや虐待か何かと思ったが、足もフジツボで切っただけらしく、どうやらその線は無さそうだ。
駐在所の奥は居住スペースになっている。警官は風呂に湯をはり少年を入らせた。
風呂を待つ間にテレビをつける。
相変わらずどのチャンネルも空飛ぶ鯨を報じている。
この時間なら、お気に入りの時代劇の再放送をしているのだが、鯨の為の特番にかわっていた。
まぁ、仕事中なのでそれ程残念には思わない。
冷蔵庫をあけ、麦茶を取り出し、2つのコップに注いだ。
風呂から上がった少年は、事前に警官が用意しておいた、警官の部屋着を身につけた。
通気性の良い白の半袖、膝丈の綿のハーフパンツには青の細い縦線が入っている。
「ほんで、なんであんな事になってたんよ?」
少年の足の裏に絆創膏をはりながら警官は問いかける。
「わからない…です」
よくよく考えると始めて少年の声を聞いた。声代わりが終わったばかりの、どこか透明感を残した少し低い声だ。
「名前は?」
少年は首を横に振る。
「ほうかぁ、そら困ったよぉ…
名前わからんと、何かと困らい。」
「うーん」と唸りながら短く刈った頭をかいた。
「海から来たんやし、取り敢えず、カイっちゅうのはどう?」
提案された名前を少年は呟く。
「…カイ」
不思議としっくりと来る。
「カイ」
もう一度呟く。
「どうや?エェ名前やろ?」
警官の問いかけに少年は頷く。
その顔はどこか嬉しそうだ。
その顔を見た警官も嬉しそうに笑う。
「ワシは田中や。田中元や。
みんなからはゲンさんと呼ばれてらぁよ。カイもそう呼んだってや」
ゲンさんはニカッとわらった。




