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35話-1 失敗と混乱

 女が私を見下ろしている。その胸に深々とナイフを突き刺したまま、薄く微笑んで、私を放さない。


 感情のない瞳、不気味なほど静かな笑み。薄暗い部屋の中静かに佇む呪いの人形。


 部屋の中には音がない。浅くてうるさい私の呼吸音だけがいやにはっきりと聞こえるだけ。


「な、んで‥‥」


 静寂がこわくて発した声は、掠れ震えていた。


 自分のしたことを思い出すように自然と握る手の平。そこに残る気味の悪い触感は、先程の行為を確かにしてくれる。


 私の恐怖と後悔を現実のものだと肯定してくれる。


(なのに‥‥)


 見上げた先の光景は見れば見るほど否定的に見えた。


(刺したのに)


 瞬きを繰り返しても変わらない目の前の存在が、決心も覚悟も結果も何もなかったかのようにかき消していく。


(言われた通り、やったのに‥‥)


 レコメラの予想が甘かったのか、それとも自分がしくじったのか。それすらもわからない。


「は、‥‥っ」


 呼吸が薄く、早くなる。息がつらい。


 体が固まる。頭が止まる。次はどうしたらいいのかなんて考えつかない。ただ、目の前の失敗を凝視するだけ。


(私のせいだ)


 心に影が差す。それは長年染みついた思考の癖。


(私が失敗したんだ)


 そう考えると何かが急に楽になる。驚きを通り越し、恐怖を超えた感情はそこでようやく無力感に変わった。


(大丈夫‥‥)


 この気持ちには慣れている。


 それは一種の安堵。暗闇の中にある、私の居場所。


 思考がそこにたどり着くと、おかしな余裕が生まれた。女を見上げたまま、体から力が抜けていく。


 女は黙ってそこにいるだけだ。脅威には感じない。


(私がだめだっただけ。他には、なにも起きない‥‥)


 そう言い切れないはずなのに、そう思う。するとこわばりがとけていく。


 だけど動けない。今度は脱力しすぎて、体がその場に固定される。頭がぼやっとしてくる。


「チトセ!」


 突然、視界が遮られる。体が強く揺らされて、名前を呼ばれた。


 意識が呼び戻される。


「リュカ‥‥?」


 女しか見ていなかった私の目に、怯えた表情の少年が映った。


 それを見て、段々と全身に感覚が戻ってくる。


「チトセ! 立って!」


 見れば、リュカは片手に人形を下げている。


(要らないって言ってたのに‥‥)


 違う。


 意識がまた一段はっきりとしてきた。


(リュカでさえ、道具を使わないといけないくらい、なんだ‥‥)


 ぼやけた頭がやっと動き出す。


 思い込みの力。イメージの限界。ここでは重要だというそれらを思い出した。


(そうか‥‥。足りなかったんだ、私‥‥。ただ、足りなかっただけ)


 レコメラの指示が間違っていたわけじゃない。自分ができなかったわけじゃない。ただ、足りなかっただけ。


 そう思い至った時、女性がびくりと体を揺らした。さっきまで微動だにしなかったのに、突然電気のいきわたらない人形みたいに不自然に全身を揺らす。


 私もリュカも息を飲んだ。肩を掴んでくる手に力が入る。


「チトセ。立って、逃げて」

「え‥‥」


 リュカに合わせて立ち上がろうとして、力の入らない膝が折れる。


「ごめん、チトセ。今だけ許してくれる?」


 そう言って、リュカは私に向かって人形を構えた。


 お城の地下で私を逃がした時の彼の姿が目の前の光景と重なって、気付けばその腕を掴んでいた。リュカの顔が歪む。


「チトセッ、痛い‥‥! 放して!」

「だめっ! それだけは絶対、だめ!!」


 大きな目が見開く、その背後から呪いが腕を伸ばして来るのだ見えた。


「危ないっ!」


 私が叫んだと同時にリュカは振り返り人形を呪いに向ける。


「呪術 踊る子供たち!」


 リュカの呪術。しかし、女は止まらなかった。


 迫りくる手を避けるため、私は掴んだリュカの腕を引っ張って真後ろに転がった。リュカの体が前のめりになって、私に覆いかぶさってくる。その向こうで女の腕が空を掴んだ。


 空ぶった腕をその場で止めて、呪いは次の獲物を探す。無感情な瞳と目が合った。


(そう、私。リュカじゃなくて、私を見ればいい!)


 リュカを抱きしめながら、呪いを睨む。


「だめっ。チトセどうしよう‥‥っ。これ、僕じゃどうにもできない‥‥っ!」


 耳元で悲鳴のようなリュカの声がする。呪いは私に向かって手を伸ばしてきた。


「リュカ! 逃げるよっ」

「きゃっ!」


 腕の中にリュカを納めたまま横に転がる。呪いに背を向けるのは一瞬だってこわかったけど、もうそれしかなかった。


 もうどこまでもいけという気持ちでごろごろ転がり、やがて何かにあたって体が止まった。顔をあげると屈んだ女と目が合う。


(まだ笑ってる‥‥!)


 転がった影響か膝に力が入るようになっていた。起き上がり、リュカを引っ張る。


 リュカの手を強く握って、出口を探す。暗い部屋の中、下ろされた出入り口の垂れ幕の端から光が漏れていた。


(近い。行ける!)


 そこに向かって、私は走った。


「行こうっ」

「あ‥‥っ! 待って誰か来るっ」


 リュカがそう言った瞬間「えっ」と思って前を見る。丁度、垂れ幕がめくられるところだった。


 女性に気を取られすぎていて、部屋の外の気配に気づけなかった。


(このままじゃ、ぶつかるっ)


 頭で分かっていても興奮した状態の体はすぐには言うことをきかない。止まれず、走り去ろうとした勢いそのまま、入ってきた誰かに衝突する。


「ぎゃッ」

「きゃぅっ」

「うわっ!?」


 ぶつかった相手の声を聞いて、男の人の声だ、聞き覚えがあるなと思った。


 けど思い出す余裕はない。跳ね返った私はリュカを巻き込んで尻餅をついた。


「痛‥‥」

「うぅ‥‥」


 痛みに気を取られている暇はないが、体がびっくりしているようですぐに動き出すことができない。痛みが引いていくのと、血の気が引いていくのを同時に体感する。


 背後には呪い。前方には敵陣営の誰か。


(挟まれた‥‥。逃げられない)


 リュカの呪術で姿を消した状態だということを思い出す。


(けどきっと、もう‥‥)


 呪いには私が見えていた。見られているつもりになってしまった。夢の中では呪術の効果がプラシーボだと言うのなら、頼みの呪術ももはや解けているだろう。


 証拠に、男の人の声が私たちに向けて降ってくる。


「これは一体‥‥? すみませんでした。大丈夫、ですか?」


 この人には私の姿が見えている。


 絶体絶命の文字が浮かんだその時、その声が聞きなれたものだと気づいた。顔を上げ、相手を確認して目を見張る。


 心配そうに私を見下ろすのは、見知った顔。知っている人物。


「エルダー‥‥さん?」


 私達の前にいるのは、遠い戦場で絶望の淵に立っているはずの人。この夢の主。エルダー本人だった。

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