34話-3 呪いを殺せ
室内は一か所を覗いて真っ暗だった。音もなく、しんとしている。
唯一明るいのは大きな鏡のついた化粧台だけ。
その前にセミロングの女性が座っている。何をするでもなく鏡を凝視して、微動だにしない。
(人形かと思った‥‥)
それほど、動かない。
机の端には見覚えのある花飾りが置いてあり、鏡の隣には白いローブが吊るされている。大規模魔術の会場で魔術師と抱き合っていたのは、この人で間違いない。
「‥‥ふ」
緊張のためか思わず呼吸が鳴った。慌てて口を押え女性を確認するが、呪いは鏡に向かったまま。気が付いていないようだ。
そのままじっとしていてと祈りながら、つま先を地面に擦るようにじりじり近づく。
部屋にはリュカも入ってきたはずだけど、まるで気配を感じなかった。
(さすがリュカ。隠れ慣れてる。私は‥‥どうだろう)
一歩近づく度に心臓が音を立てる。自分に聞こえている心音が大きくて、うるさい。これならさっき漏れた吐息の方が静かなくらいだ。
また一歩近づく。手汗を感じて、ナイフを握りなおす。
もう一歩。足の指がかゆくて、地面を感じない。まっすぐ歩けているか分からなくなってくる。
女性の背後までやってきた。
化粧台の上には櫛や化粧品が並んでいるが、女性はそのどれも手に取っていない。ただじっと鏡に向かって座っているだけ。
(‥‥‥‥?)
様子がおかしい。何か変だと思った。いくらなんでも、動かな過ぎる。
鏡越しに女性の顔を見ると、彼女は鏡に映る自分自身を見つめて止まっていた。
うっすら微笑んだまま、瞬きひとつしない。まるでよくできたマネキンのように何一つ変わらない表情。
(ほんとに、人形みたい‥‥)
女性の異様な雰囲気に体が止まる。しかし、気持ちはずっと楽になった。
これは人間の姿をしただけの別の何かなんだと思えた。
(これなら、できる)
レコメラの指導を思い出しながら、ゆっくり進める。
女性の背後から手を伸ばし、ナイフを構える。手汗で湿った分、滑らないようより強く握る。
ナイフの刃は真横。
心臓の位置はここ。
あとは、抱きしめるようにして刺すだけ。
「‥‥っ、!」
早く、やらないと。
「‥‥っ、‥‥!」
だけど、腕が動かなかった。
あとはもう、抱きしめるように腕を引くだけ。なのに、動かない。
「ふー‥‥っ!」
思わず吐いてしまった自分の呼吸の音が荒く響く。
しまった! と思って息を止めようとしたけど無理だった。呼吸の音がやまない。
(刺さなきゃいけないのに。殺さないといけないのに! さっきはできるって思ったのに!)
こわくてできない。
「‥‥ふー‥‥っ、ふー‥‥っ!」
がくがく揺れる視界の中で何かが動いた。鏡にリュカが映ったのかと思って顔を上げる。女性と目があった。
呪いと、目が、あった。
「‥‥ひっ!」
驚いた拍子に思わず身を引いてしまった。
瞬間、ずぶりと。
感触だけが先行して、何が起きたのか分からなかった。
「う‥‥っ」
遅れて聞こえたその声は誰のものかと思ったら、私の声だった。
鏡には呪いにナイフを突き刺した自分が映る。
手には、油粘土にプラスチックナイフを突き刺すような、なめらかだけど重たいような感覚が残る。
その感覚を反芻しながらなんだ、こんなものなのとそう思った。
呪いは私と目を合わせたまま微動だにしない。
恐る恐る手を離す。ナイフは柄までずっぷりと女性の胸に突き刺さっている。血は出ていない。
(これで、終わり‥‥?)
女性は先程までと全く同じ状態で座ったままだ。違うのは視線があっていることだけ。
(呪いは、死んだの‥‥?)
視界に女性の微笑みを映したまま、私は後ろへ後ろへ下がっていく。やがて背中が何かにぶつかり、それ以上下がれなくなる。
「チトセ! しっかりして!」
声のした方を見ると、リュカが心配そうな顔をして私を見ていた。
(リュカどうしたの? 私、大丈夫だよ。だって、案外平気だった。粘土みたいで、血もなくて‥‥)
言ったつもりなのに、声が出てなかった。
「り‥‥」
言おうとして、喉が詰まっていることに気づいた。
体が硬直してる。動けない。
「‥‥っ、‥‥!?」
凍ったみたいな口をなんとか頑張って動かすけど、言葉が出ない。
口をぱくぱくと開閉するだけの私を、リュカが抱きしめる。
「大丈夫だよチトセ。もうこわくないよ」
そう言われて、なんだか安心してしまった。膝から力が抜けていく。
ほうっと息をついて、その場にへたり込んで、やっと自覚した。自分はいまだにとてつもなく緊張しているのだと。
「大丈夫? チトセ?」
「っ、だ、‥‥」
体が強張っていて大丈夫が言えない。喉に舌がつっかえて、息はできるけど話せない。
そんな私を見て、リュカが笑ってくれる。
「チトセ、頑張ったね」
一緒にしゃがみ込んで私の背を撫でてくれる。撫でながら、あれは呪いだともう一度言ってくれる。
そのおかげで少しずつ気分が落ち着いてきた。
「チトセがそんなにこわいなら、やっぱり僕がやればよかった。ごめんね、チトセ。いつも僕、チトセにやらせてばっかりだ」
耳元でしょんぼりした声がした。
それだけは違うと否定したくて、唇を噛んでわざと咳き込んで、喉を動かす。
「ち、がうっ、の! いつもっ、やらせてる‥‥のは! 私、のほう‥‥っ」
なんとか声が出てくるけど、震えてまだ上手く喋れない。伝えたいのに、伝えられない。
(お城でも森でも、村でも、悪夢の中でさえ‥‥。この世界に来てからずっと、私はリュカに助けてもらってる‥‥)
リュカが来てくれる度私はいつも安心して、毎回任せてしまう。
こんなことくらい大丈夫になりたかった。こんなこともできない弱虫のままじゃ嫌だった。
私だって守ったり、助けたりしたいのに。何の力もない私だけど、私にできることなら、なんだってやりたいのに。リュカのために、なんだってしたいのに。
なのに、こんなことひとつ勇気がでない。覚悟をしたつもりなのに、情けなくて仕方がない。
強くなりたい。リュカに心配されないくらい、強く。
「‥‥すぅっ」
せめて気持ちくらい強くもちたくて、痛む喉の奥をぐっと堪えて深呼吸する。両手に残る感触を忘れたくて力の入らない手のひらにできる限り力を込めて拳をつくった。
視界に映る女性を見ると、ナイフが胸に刺さっているのに血1つ流れていない。
(ほら見て私。あんなに刺したら普通立てないよ。血も出るし。やっぱりあれは人間じゃなかったんだなぁ‥‥)
と納得してから、目を疑って再度見た。二度見しても変わらない。
化粧台の前に、女性が立っている。私がさっき刺し殺したはずの呪いが、なんともないみたいに立って、私たちを見下ろしている。
空気はしんと冷えている。
「‥‥なんで」
「チトセ、立って」
静かな、だけど警戒するようなリュカの声が聞こえた。
促され立ち上がる私に合わせ、女性の顔がゆっくり動く。
さっきまでと何一つ変わらないマネキンみたいな微笑みを浮かべた呪いと対峙して、私の頭は真っ白になった。




