第9話 越境
追手の暗部を解放し、仲間にする。俺の提案に、リリーが目を丸くした。
「ぼくたちを追いかけてきた相手を、そのまま味方にするんですか」
「帝国が集めて、鍛えた連中だ。優れたスキルを持つ者もいる。向こうから来てくれるなら、利用しない手はない」
「ただ、解放するまでは本気で殺しに来ます」
マリーの声は冷静だった。
「ああ。《解放》には、触れ続けて集中する時間がいる。戦いながらじゃ無理だ。先に捕らえて、反撃できない状態にしないといけない」
さっきも、皆が静かに待ち、見張りをしてくれたから使えた。敵の手首を一瞬つかめた程度では、どうにもならない。
「手足を縛っても、スキルで攻撃できる奴はいる。相手の能力を見て、どう押さえるか考える必要がある」
「近づく役は、私が」
アイリスの手が、短剣の柄へ触れた。
「捕らえた後も、拘束と警戒は私たちが。ユグリス様が集中できる時間を作ります」
「傷の治療は、わたしも手伝えます」
ローズはそう言ってから、少し表情を引き締めた。
「でも、その後どうするかは、ご本人に選んでもらいたいです」
「もちろんだ。洗脳を解いて、事情を話す。配下になるのも、俺たちと戦うのも、本人が同意した場合だけだ」
恩を着せて従わせたいわけじゃない。それでも、俺たちと同じように帝国へ返したいものがある者は、いるはずだ。
「配下にできるのは、あと6人ですよね。それより多く来たら?」
「解放と配下への登録は別だ。10人を超えても、仲間にはなれる。配下は、能力と本人の希望を確かめて決めよう」
「それなら、帝国は追手を送るたびに戦力を失うことになりますね」
マリーの言葉に、俺はうなずいた。
「しかも、その戦力がこっちに回る」
「……向こうは、嫌でしょうね」
リリーの口元に、少し意地の悪い笑みが浮かんだ。
「自分たちで、ぼくたちの仲間を送ってくれるんだから」
「まずは国境を越えて、拠点を作る。わざと見つかる必要はない。来た時に、迎えられるようにしておこう」
4人がうなずいた。
「帝国は、《配下》の仕組みをどこまで知っているのですか」
「《配下》の力は知っている。だから俺を生かし、お前たちを配下にした」
机に置いた手へ、自然と力が入る。
「だが、《解放》は知らない」
成長の限界を越えた俺たちを、帝国はまだ見ていない。
クロイツがその事実を知った時、どんな顔をするだろう。想像すると、少しだけ気が晴れた。
その顔を見るためにも、まず生き残る。順番を間違えるな、と自分に言い聞かせた。
これからも、すべてを見せるつもりはなかった。
奴らはまだ、自分たちが育てた暗殺部隊に殺されることになるとは思ってもいない。
その刃を、これから増やしていく。
◇
話を終えてからは、交代で休んだ。
先を急ぎたくても、スキルを続けて使った疲れを残したまま、走り続けるわけにはいかない。予定されている休息を使って、体を戻す。
目を閉じる前、近くで小さな声がした。
「ローズ」
「はい」
「……呼んでみただけ」
「ふふ。じゃあ、わたしも。リリー」
返事の代わりに、控えめな笑い声がした。
俺は目を閉じたまま、口元を緩めた。
夕方、支給品をバッグに収め、小屋を出る準備を整えた。黒装束と覆面はまだ使う。着替えは帝国を出てからだ。
外から戻ったリリーが、小さくうなずいた。
「近くに人影はありません」
マリーが地図で進路を確かめ、ローズが荷物の残りを見回す。アイリスは入口で俺を待っていた。
「ユグリス様。準備ができました」
もう、返事に迷わなかった。
「行こう」
西へ進み、国境を越える。ハーゼンに会い、その先はリヴェルトへ。
覚えておくことは多い。それでも、足元だけを見て歩いていた時より、進む先がはっきりしていた。
森に入ると、マリーの念話が届いた。
『ユグリス様、聞こえますか』
『ああ。聞こえている』
俺も同じ力で答えた。
頭の中まで、もう番号で呼ぶ声はしない。
木々の向こうへ視線を上げ、4人と共に歩き出した。
帝国へ戻る道を、背にして。
◇
森の中では、誰も声を出さなかった。
アイリスが足を止めた。斜面の下を、村へ向かう荷馬車が通っている。
『村の方へ向かう馬車です。護衛は2人。こちらには気づいていません』
マリーがつないだ念話を通じて、リリーの声が届く。俺は進む方向を指で示した。
馬車が通り過ぎるのを待ち、道から離れた斜面を登った。
動きは、洗脳されていた時と変わらない。足を置く場所も、仲間との距離も、体が覚えている。
ただ、先へ進む理由は変わっていた。
アイリスが振り返り、俺と目を合わせる。小さくうなずいてから、俺も木々の間へ踏み込んだ。
◇
それからは、昼は人目のない場所で休み、暗くなってから西へ進んだ。
寄り道はしない。獣や魔物の気配があれば避け、街道を横切る時はリリーの目で先を確かめる。任務のために何度も繰り返してきた移動を、今は逃げるために使っている。
帝国の施設を出てから3日目の夜、国境の山へ入った。
橋の関所を避け、ヴォスの地図にある山道を進む。
ここまでは命令どおりだ。向こうは、俺たちが帳簿を回収して戻ってくると思っている。
『尾根に2人います』
リリーが、上へ目を向けた。
俺も《特殊眼》を使う。木々の間を、槍を持った兵が歩いていた。帝国の兵だ。腰の明かりが揺れ、足元の石を照らしている。
『巡回ですね。尾根沿いの道を、こちらへ向かってきます』
『通り過ぎるまで待つ。岩の裏へ』
皆へ伝え、体を低くする。
ローズがリリーの背に軽く触れ、並んで岩陰へ入った。マリーは槍を横へ倒し、穂先が見えないように抱えている。
アイリスの姿が、木の影に沈んだ。俺も手前の影へ身を寄せ、同じ力で輪郭を隠す。
兵の足音が近づいた。
「ここまで見に来る必要があるのかね」
「隊長に言え。俺に言っても変わらん」
低い話し声が、頭の上を通り過ぎていく。
この兵たちは暗部の存在すら知らないだろう。ここで騒ぎを起こせば、国境の警戒が厳しくなる。気づかれずに通り抜ければいい。
光が遠ざかっても、すぐには立たない。
リリーが目で追い、アイリスが先を確かめてから、俺たちは斜面を越えた。
尾根の向こうに、古い石柱があった。
片側には帝国の紋章。反対側には別の紋章が彫られている。雨風に削られ、文字の一部は読めなくなっていた。
その脇を、1人ずつ通る。
俺は最後に回り、来た道を確かめた。追う明かりも、足音もない。
石柱を越え、山を下る。
しばらく進んでから、マリーが地図を確かめた。
『ここは、もうヴァルディア王国です』
リリーが足を止めた。
『……もう、帝国じゃないんだ』
『ああ。出たぞ』
叫びたいくらいだった。たった石柱1本を越えただけなのに、胸の中では何度も同じ言葉が跳ねていた。
出た。5人で、出られた。
足音は増やさず、来た道への警戒を続ける。喜ぶのは歩きながらでもできる。
伝えると、弓を握っていた彼女の手から力が抜けた。
ローズがそばへ寄り、その肩を抱く。リリーは一瞬だけ身を預け、それから自分で立ち直った。
『……ありがとう。もう大丈夫』
『ええ。行きましょう』
アイリスも、遠くなった尾根を振り返っていた。
帝国外での任務は、初めてではない。前にもここを越えたことは何度もある。その時は、帰る場所を疑いもしなかった。
俺は黒布の上から、傷の消えたほおに触れた。
今度は帰らない。
『ユグリス様』
アイリスが呼んだ。
『私、今夜のことは忘れません』
俺はうなずき、彼女の隣に立った。
夜風は冷たい。手足も疲れている。だが、息を吸った時の胸の重さが、少しだけ違っていた。
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