第10話 帳簿
夜明け前、王国側の森で休息を取った。
岩の張り出しの下へ身を寄せ、水と保存食を配る。ローズは包みを受け取る前に、俺の手を見た。
「ユグリス様、手に血が」
岩をつかんだ時に、手袋の縫い目が裂けていた。外してみると、指先に細い切り傷がある。
「これくらいなら、自分で――」
「わたしに任せていただけませんか」
ローズが手を差し出した。
「今度は、皆さんを助けるために使いたいんです」
「……そうだったな。頼む」
彼女の指が触れ、傷が消えた。ローズは傷のあった場所を確かめ、少しうれしそうにうなずいた。
さっきまで、治す力を使うことさえ怖がっていたのに。
たかが指の傷で、こんなに嬉しくなるとは思わなかった。彼女の手が離れてから、いつもどおり礼を言った。
保存食をかじると、向かいのリリーが口を動かしながらこちらを見た。
「ユグリス様。街へ行ったら、まず服ですよね」
「ああ。いつまでもこれじゃ目立つ」
「ぼく、明るい色がいいです。黒くないの」
自分の袖をつまみ、少し考える。
「でも、隠れるには向いてないかな」
「街なら、周りと同じ格好の方が紛れられる。明るい色でも大丈夫だ」
「じゃあ、黒以外で探したいです」
「ああ。動きやすくて、自分が気に入った物にしよう」
リリーは袖から手を離し、口元を緩めた。
明るい色の服を着れば、あの笑顔はもっと目立つのだろう。そこまで想像して、先に道を確かめ直した。服を選ぶ時間を作るには、まず無事に街へ出なければならない。
「じゃあ、楽しみにしてます」
マリーが地図を広げた。
「ハーゼンの潜伏先には、今夜着ける見込みです。どう動きますか?」
最初の報告期限は、出発から4日目の夜。
そこを外せば、ヴォスは異常を疑う。まだ時間を稼ぎたい。
「まずは本人がいるか確かめる。それから到着の報告を残して、話を聞きに行こう。報告は、対象を監視中、帳簿の所在を確認中。それで通す」
「承知しました」
王国へ入ったことは隠す必要がない。命令に従って調べているように見せ、その間にハーゼンから事情を聞く。
帳簿を確保した後の報告は、その時に考える。
俺は地図の南へ目をやった。リヴェルトは、まだ先だ。
まずはハーゼンだ。
◇
4日目の夜、王国東部の町へ着いた。
ハーゼンの潜伏先は、川沿いの使われていない染物工房だ。2階に明かりがある。俺は見取り図と建物を照らし合わせた。
『入口に1人。裏口にも1人います』
リリーが低木の間から建物を見ていた。
『前の男は剣のスキル持ちです。裏は短剣。ほかに、今見えている範囲ではいません』
『中の様子は、私が見て参ります』
アイリスが影へ溶ける。
俺は残る3人と待った。リリーが外の男たちを見張り、マリーが連絡を受ける。ローズは鞭をほどき、いつでも動けるようにしていた。
しばらくして、アイリスの声が届く。
『2階に男が1人。似顔絵と一致します。建物の中に、ほかの人影はありません』
『帳簿は?』
『机に書類はありますが、ここからでは判断できません』
『分かった。そのまま見ていてくれ』
ハーゼンはいる。監視中という報告にも、嘘はない。
俺は用意した紙へ短い報告を書き、No.8の番号を記した。
指が、一瞬だけ止まる。
紙の上では、まだ帝国の人形でいればいい。
指定された隠し場所へ報告を残し、誰とも会わずに戻った。回収役を待つつもりはない。今夜のうちにここを離れる。
『接触する。3人は外を見張っていてくれ。護衛が動いたら知らせろ』
外を3人に任せ、階段の手前でアイリスと合流する。
2階の戸を開けると、似顔絵どおりの中年男が顔を上げた。オルベルト・ハーゼンだ。
「誰――」
声が大きくなる前に距離を詰め、立ち上がりかけた肩を押さえる。アイリスが後ろで戸を閉めた。
「声を抑えろ。話を聞きに来た」
男の目が、俺の黒い服と覆面を行き来した。
「帝国の……」
男の手が、机の引き出しへ動いた。
その手首をつかみ、机の上へ戻す。引き出しを確かめると、小さな短剣が入っていた。取り上げて、手の届かない棚へ置く。
「座っていろ」
「ま、待て。金ならある。帳簿も渡す。だから――」
「帳簿には何が書いてある」
ハーゼンが、口を閉じた。
俺を見上げたまま、瞬きを繰り返す。
「……知らずに、来たのか」
「回収しろとしか言われていない」
「開くな、とも?」
俺は答えなかった。
それで十分だったらしい。ハーゼンは乾いた唇をなめた。
「なら、中身など知らない方がいい。帳簿は渡す。私を見逃してくれれば、それで――」
「見逃すとは言っていない。何の帳簿だ」
男のひざが震えている。それでも、質問には答えようとしない。
俺は空いている椅子を引き、向かいへ座った。
「なぜ帝国が、そこまでして取り戻したがる。何を記録した」
「……お前たちは、いったい」
「質問しているのは俺だ」
ハーゼンは俺を見て、アイリスを見た。
その目が、窓へ動く。
逃げ道を探している。
気づいたアイリスが、足元の影へ沈んだ。
「な――」
ハーゼンが目を見開く。彼女の姿を探して振り向くより早く、首筋に短剣の刃が触れた。
アイリスは、もう男の背後にいた。
「動くな。聞かれたことに答えろ」
低く、冷たい声だった。アイリスがわずかに殺気を放つ。
ハーゼンの息が止まる。首筋の刃から逃れようともせず、椅子の上で固まった。机に置いた指だけが、小刻みに震えている。
アイリスは何も言い足さなかった。
やがて男の視線が窓から離れ、俺へ戻る。
「は、話す……。話すから……」
アイリスが刃をわずかに離した。男の背後には立ったままだ。
ハーゼンは浅く息を吸い、かすれた声を絞り出した。
「軍の……表に出せない支出を記録したものだ。私が、その支払いを担当していた」
「何に払った」
ハーゼンは唇を震わせた。
「人を……集めるための金だ」
俺は机の上の紙へ目を落とした。逃亡先での出費を書いたものらしく、食費や護衛への支払いが並んでいる。
欲しいのは、これではない。
「帳簿はどこだ」
「引き出しの……奥だ。底板を外せばある」
「手は机の上に置いておけ」
アイリスが男を押さえている間に、底板の下から革表紙の帳簿を取り出した。帝国の印がある帯は、すでに開封されている。
回収しても、開くな。
ヴォスの声を思い出しながら、最初のページをめくる。
日付。支払先。人数。金額。
その下に、年齢とスキルが書かれていた。
7歳。9歳。11歳。
俺は、次のページへ指をかけた。
子供の名前はない。並んでいるのは、能力と値段だった。
7歳で、いくら。9歳なら、いくら。
ふざけるな。紙を読んでいるだけなのに、胸の奥を汚い手でかき回されるようだった。俺たちの8年も、この程度の欄に収めていたのか。
「……子供を集めるための金か」
「私は金を動かしただけだ。どこへ運ぶかも、その先でどうするかも、決めていない!」
「声を落とせ。言い訳は聞いていない」
アイリスの手が、男の肩を押さえた。ハーゼンは何か言いかけ、その冷たい目を見て口を閉じる。
俺はページをめくった。
紹介料。輸送費。施設への引き渡し。
最後の記録は、10日前だった。いくつかの受領欄には、同じ名前が残っている。
セヴェリン・クロイツ。
白い手袋をした男の顔が浮かんだ。
傷を残せと命じ、俺たちを壊れ物のように数えていた男。あの施設へ、今も子供を運び込んでいる。
閉じかけた指を、ゆっくり開いた。紙を破ってはいけない。
帳簿を少し傾け、アイリスにも見せた。
男を押さえたまま、彼女が記録へ目を落とす。声は出さなかった。ただ、短剣を握る指に力がこもった。
「ハーゼン」
男が、肩を震わせた。
「知っていることを全部話せ。運んだ者も、金を受け取った者もだ」
クロイツの名前があるページを開いたまま、帳簿を机に置いた。
俺たちが逃げた後も、あの施設へ子供が送られている。
その金を動かした男が、今、目の前にいる。
帳簿を渡しただけで、終わったと思うな。
お前が何をしたのか、すべて聞かせてもらう。




