第6話 食卓
リゼットに続いて、No.41を治療した。
自分でできるはずなのに、彼女は《再生》を使おうとすると指を止めてしまう。
「すみません。使い方は、分かっているのに」
「俺に任せてくれ」
洗脳は解いた。それでも、命令に背く怖さは、彼女の体に残っている。
俺が手を差し出すと、彼女はそっと握った。
赤い髪の下で、固く引きつっていた表情がほどけていく。
優しい目元と、ふっくらした唇が現れた。赤い髪に囲まれた顔は、大人びて美しかった。傷に引かれていた口元が緩むと、いつもの柔らかな声に似合う表情が戻った。
だが、俺を見上げる目には、まだ不安が残っていた。
治療を終えたNo.41は、自分の手を見て、それから俺を見た。
「わたしも……治してもらって、よかったんですね」
「ああ」
彼女は何度も、うなずいた。
No.37は治療が終わるなり洗い鉢をのぞき込み、自分の口元を指で引っ張った。
水に映った、大きな目が丸くなる。ピンク色の髪と柔らかなほお。4人の中で最も小柄な彼女は、顔立ちも年齢より幼く、かわいらしかった。
口元を動かし、笑おうとして、失敗する。
「あれ……うれしいのに、涙が止まらない」
泣きながら言うので、俺まで喉が詰まりそうになった。
見張りをリゼットと交代してもらい、最後にNo.52を治療した。
金色の髪を耳へかけた彼女は、切れ長の目で水面を見つめた。整った鼻筋と、すらりと伸びた首。いつもの冷静な話し方がよく似合う、知的な美人だった。
傷の消えた手で、そっとほおに触れる。何度か指を滑らせてから、彼女は俺へ顔を向けた。
切れ長の目が揺れ、涙がほおを伝った。
「……ありがとうございます」
いつもの落ち着いた声が、かすかに震えていた。
「わたくしまで、こんなふうに……治してくださって」
「お前も一緒だ。傷を残しておく必要なんてない」
彼女は俺を見つめたまま、ゆっくりとうなずいた。何か言おうと唇を動かしたが、声にはならない。
手を伸ばし、そばにあった清潔な布を渡した。
「急いで話さなくていい」
「……はい」
受け取った布を目元に当てる。その肩が、小さく震えていた。
全員の治療を終えると、急に体が重くなった。椅子へ腰を下ろした俺に、リゼットが水袋を差し出す。
「少しお休みください。周囲は私たちが見ております」
「助かる」
礼を言うと、彼女は静かに目を伏せた。
俺の傷のない手を、まだ確かめるように見ていた。
◇
少し休むと、体を動かす余裕が戻ってきた。
棚には鍋と乾燥野菜、それに火を使わず温められる加熱用の魔道具があった。暗部らしい備えだ。
「スープを作ろう」
俺が言うと、No.37が振り向いた。
「もう、出発しなくていいんですか?」
「予定の休息時間はまだある。腹に何か入れてからにしよう」
彼女は自分の腹へ手をやった。そこで初めて気づいたように、少しうなずく。
干し肉と乾燥野菜を煮る。リゼットとNo.52が交代で見張る中、小屋にスープのにおいが広がった。
塩を少しだけ足し、スプーンで味を確かめる。
味を確かめる手が、ほんの少し止まった。
「殿下?」
「……味がする」
舌に塩気が残っている。その後から、肉のうまみと野菜の甘みが広がった。
思い出の中にしかなかった味が、今、口の中にある。
もう1度、口へ運ぶ。
熱くて、少し舌を引っ込めた。
それだけのことが、どうしようもなくうれしかった。
「できた。飲もう」
器へ分けて配る。手順は覚えている。ひとつずつ、こぼさずに置いていく。
胸の中は、それどころじゃなかった。もうひと口ほしい。皆にも早く飲んでほしい。たかが干し肉のスープで、こんなに欲張りになるとは思わなかった。
No.37が、スプーンを口へ運んだ。
目が大きく開く。
「……おいしい」
つぶやいてから、もうひと口。今度は飲み込む前に、涙が落ちた。
「こんな……こんな味、だったんだ」
No.41は器を両手で包み、少し飲むたびに目を閉じた。
「……温かい」
声が震えていた。ひと口ずつ、大切に飲んでいる。
No.52は入口のそばで、外を見ながら口をつけた。
その肩が、不意に揺れた。
「代わる。落ち着いて飲んでくれ」
俺が言うと、彼女は一瞬ためらい、それから器を抱えて椅子へ座った。
リゼットのスプーンも止まっていた。
「昔、殿下は……野菜を残して、よく叱られていましたね」
「そうだったな」
「今は、召し上がれるのですね」
「ああ。こんなにうまいなら、いくらでも」
彼女は笑った。
涙を流しながら、それでも確かに笑っていた。
帝国の連中は、こんなものまで俺たちから奪っていた。
この味も、自分の顔を見て笑うことも。
俺は器を握り直した。
怒りは消えなかった。だが、今はそれだけではない。
うまかった。それを4人と確かめられたのが嬉しかった。
だから余計に、腹が立つ。こんな当たり前の食事に、俺たちは何年待たされたんだ。
この4人が、もう2度とあの施設へ戻されないようにする。
連れ戻しに来るなら、殺す。
もう、奪わせない。
◇
「さっきの、帝国を出た後の話ですが……」
器を置いたNo.41が、俺を見た。
「わたしも、一緒に行きます」
「治す力を、もうあの人たちに使われたくありません。あなたたちのために使いたいです」
No.37も顔を上げた。
「ぼくも。逃げて隠れて、それでも連れ戻されるのを待つのは嫌です」
涙をぬぐった指が、弓に触れる。
「あいつらに狙われるなら、こっちから射ます」
「わたくしも同じです」
No.52が続けた。
「皇帝が生きている限り、暗部は作られ続けます。わたくしたちの代わりも」
「ありがとう。一緒に、あいつらを止めよう」
俺は4人の顔を見て、うなずいた。
リゼットに見張りを代わってもらい、地図を広げる。入口からも見えるよう、机の端へ寄せた。
まずは、この4人と帝国を出る。皇帝の手が届く場所から、少しでも遠くへ。
地図の西へ目を走らせる。国境の向こうは、ヴァルディア王国。ハーゼンはそこへ逃げ込み、潜伏している。
「まずはヴァルディアへ抜ける。そこでハーゼンと帳簿を押さえる」
「脱走する前に、任務を終わらせるのですか」
「帝国へ戻るつもりはない。ただ、ハーゼンと帳簿は先に押さえたい。任務を続けていると思わせる報告を送れば、追手が来るまでの時間も稼げる」
今回の任務なら、国境を越えても不審には思われない。帝国が与えた命令を、そのまま逃げるために使える。
「帰還後の検査を受ければ、全員の洗脳が解けたと分かる。戻って次の機会を待つことはできない」
No.52がうなずいた。
「では、報告で怪しまれないようにしながら、帝国から離れるのですね」
「ああ。必ず逃げ切る」
国境を越える道を指でたどり、ハーゼンの潜伏先で止める。
「それに、帝国が何を隠そうとしているのか、確かめたい。あの男が帝国の悪事に加わっていたなら、その責任も取らせる」
「ただし、逃げることが最優先だ。ハーゼンを追うために、逃げる機会を失うわけにはいかない」
帳簿を開くな。回収したら殺せ。
ヴォスはそう命じた。
その命令に従う理由は、もうない。
「帳簿も、あの男の命も、帝国の都合では決めない。まずは、話を聞く」
「その後の行き先なら、わたくしに心当たりがあります」
No.52が、ヴァルディア王国の南を指した。
「商業都市国家リヴェルト。ここに拠点を置くのはどうでしょうか」
「詳しいのか?」
「はい。あなたの配下になる前、任務で潜伏していたことがあります。街の様子も、裏道も覚えています」
地図には、いくつもの街道が集まっていた。
「交易の盛んな街です。さまざまな国から来た人たちが暮らしています。商人や護衛が毎日出入りするので、よそ者が5人増えたくらいでは目立ちません」
「帝国の連中も出入りするだろう」
「ええ。以前使った隠れ家は避けます。人通りがあって、逃げ道もある区画で、新しく部屋を探しましょう」
安全だと言い切らないところが、かえって頼もしかった。
姿を隠し、体を休められる場所がいる。帝国を調べるにしても、まずは帰れる場所を作りたい。
「分かった。ヴァルディアを抜けたら、リヴェルトへ向かう。案内を頼めるか」
「はい。お任せください」
No.52は俺を見て、静かにうなずいた。
入口で外を見ているリゼットにも、行き先を示す。彼女は地図に目を落とし、うなずいた。
誰も、帝国へ戻る道を選ばなかった。
机の端には、空になった5人分の器が並んでいる。
俺はその向こうにある、帝都の印へ目を向けた。
ゼルガディウス。
お前が育てた暗殺部隊は、もうお前のものじゃない。




