第3話 命令
翌朝、まだ夜が明ける前に、俺は帝国を裏切るための命令書を受け取った。
机の向こうには、皇帝直属暗部統括官ゲルハルト・ヴォス。その横では、管理責任者のセヴェリン・クロイツが白い手袋を直していた。
2人とも、俺が従うことを疑っていない。
「対象は元財務官、オルベルト・ハーゼン。帝国の西にあるヴァルディア王国へ逃げ込み、潜伏している」
命令書には、中年の男の似顔絵が添えられていた。
「帳簿の場所を聞き出し、回収後に殺せ。写しがあれば、それも持ち帰れ」
「承知しました」
「口を割らなければ拷問しろ。帳簿の場所が分かるまでは生かしておけ」
ヴォスは書類から目も上げなかった。
「はい」
俺の口は、いつもどおりに答えた。相手が何を叫んでも、昨日までの俺なら命令どおりにしたはずだ。
「帳簿を開く必要はない。封をしたまま持ち帰れ」
「はい」
中身を見せたくない理由があるらしい。
皇帝や上層部を追い詰める材料になるかもしれない。だが、帳簿に何が書かれていようと、今は4人の解放と脱走が先だ。
ヴォスが、机に地図を広げた。
「西の地下通路から出て、森を抜けろ。国境を越え、出発から4日目の夜に対象の潜伏先へ到達しろ。誰にも姿を見せるな」
ヴォスの指を追いながら、国境の向こうへ目を向ける。命令どおりに進めば、4人を連れて帝国を出られる。
そのまま帰らなければいい。
命令書を渡す相手を、間違えたな。
そう言ってやりたい。今の俺が喉から手が出るほど欲しかったのは、その出発命令だ。
国境線を見つめすぎないよう、視線を戻した。
「現地での行動と移動中の判断は、任務達成に必要な範囲でお前に任せる」
「承知しました」
戦う場所や休む時刻は、これまでも俺が決めていた。
与えられた命令を果たすために考える。だが、その命令を疑うことはない。それが暗部だった。
「同行者は、配下の4名で変更ありませんか」
「変更はない」
「報告の時刻と方法は」
「到着した夜に、指定の隠し場所へ報告書を残せ。以後は帳簿を確保するまで毎晩だ。別の暗部が回収する。顔を合わせる必要はない」
俺はうなずいた。
最初の報告期限までなら、連絡がなくても怪しまれない。
それまでに4人を自由にし、帝国から距離を取る。目の前の2人へ剣を向けるのは、その後だ。
「No.8」
クロイツが口を開いた。
「君たちの次のステータス検査は、今回の任務から帰還した時に行います。戻ったら5名そろって検査室へ来なさい」
「承知しました」
出発前の検査はない。
よし。
思わず心の中で声が出た。返事は済ませた。もう余計なことを言うな。ここまで来て、自分から怪しまれる理由を増やす必要はない。
胸の奥で、張りつめていたものが少し緩んだ。昨日の検査記録には、《解放》も洗脳の解除も残っていない。
だが、帰れば見つかる。この任務で逃げ切れなければ、もう次はなかった。
以前、検査の時にクロイツから聞いたことがある。洗脳は、まれに少しずつ弱まる。だから繰り返し調べ、必要なら奴の《洗脳》でかけ直すのだと。
俺のように、検査の直後に完全に解けるとは思っていないのだ。
「No.41も必ず連れ帰るように。あれの《再生》は、ほかの班の治療にも必要です」
「はい」
「君たちが死ねば、代わりを用意するのに手間がかかります。無駄に壊れないでくださいね」
こいつにとって、俺たちの命はその程度のものだ。
怒りを隠し、いつもどおりに答える。
「任務達成後、全員で帰還します」
そう答えると、クロイツは満足そうに笑った。
◇
装備庫へ移ると、クロイツが支給品の一覧を開いた。
「5名分です。確認しなさい」
白い手袋の指が、一覧をなぞった。
「替えの黒い服、保存食、水袋。任務中の補給地点は地図に記してあります」
支給品を確かめる。補充は暗部専用の拠点で行い、店や宿には立ち寄らない任務だ。
「確認しました」
「武器は普段の物を使いなさい。準備を終えたら、夜明けに出発です」
替えの黒い服は、光を反射しにくい布でできていた。帝国の印はどこにもない。
腰のマジックバッグに手を添えた。見た目より多くの物を収められる魔道具だ。
500人以上の暗部のうち、支給されるのは序列9位以内だけ。難しく、長引く任務に備えた装備だ。序列8位の俺も以前から使っている。
5人分の食料も予備の装備も、この袋に入る。逃げるには、ありがたい。
食料も装備も、このバッグも。そのまま使わせてもらう。
返すために戻るつもりはない。
退職する時には返却しろ、なんて規則があっても知らん。給料どころか人生まで取り上げられたんだ。これくらいは持っていく。
装備庫の扉には封印があり、在庫も記録されている。持ち出すのは、支給された分だけにした。
「不足はありますか」
「ありません」
「では、運びなさい」
確認した支給品をマジックバッグに収め、装備庫を出た。
廊下では4人が待っていた。点検に必要な物をバッグから取り出し、それぞれに渡す。
「No.26、服を配れ。No.37は食料、No.41は治療用品、No.52は通る道を確認しろ」
「承知しました」
小柄なNo.37がピンクの髪をフードへ押し込み、保存食を数える。隣では、金髪のNo.52が地図を広げた。
「山越えか。ぼくたちなら、予定より早く着けそうですね」
「急いで街道の巡回に見つかっては意味がないよ。川を渡る場所も確かめておこう」
No.52に言われ、No.37が地図をのぞき込んだ。
「分かってる。高い所から見るのは、ぼくがやるよ」
「皆さん、足の傷は出発前に治させてくださいね」
《再生》を持つ赤髪のNo.41が、治療用品をまとめながら言う。3人とも、いつもの話し方だった。考える力も、性格も残っている。ただ、皇帝に仕えることだけは決して疑わない。
今ここで、逃げようと言えたら。
見慣れたやり取りを前に、そんな言葉が喉まで出かかった。だが、洗脳が解けていない3人には、裏切りの誘いにしか聞こえない。
俺は黙って、地図の端を押さえた。
「No.8」
紫の髪をのぞかせたNo.26が、俺の分の黒い服を差し出した。腰には2本の短剣がある。
「全員に配りました」
「分かった」
受け取ると、彼女は俺の袖へ目を向けた。
「右の縫い目が傷んでおります。出発前に替えておかれた方がよろしいかと」
「ああ。助かる」
細かい所によく気づくのも、この丁寧な言葉遣いも。
王宮で俺の襟を直していた姿と重なり、名前を呼びそうになった。
彼女は、俺の次の指示を待っている。まだ、リゼットとは呼べない。
袖のほつれまで気にかけてくれるのか。胸に込み上げた懐かしさが、今は痛い。
もう少しだ。名前を飲み込むのは、これで最後にしたい。
「装備の点検を続けろ。終わったら、決められた場所で待機」
「承知しました」
4人が持ち場へ戻る。俺も剣を抜いて傷がないか確かめ、油を含ませた布で手入れを始めた。
夜明けまで、時間はない。
◇
剣の手入れを終え、4人へ目を向けた。任務や訓練で見てきた動きが、頭に浮かぶ。
素早く近づくNo.26。遠くから弓を射るNo.37。けが人を治すNo.41。No.52は念話で連絡をつなぎ、槍の間合いで前衛を援護する。
知っている能力を、今は逃げるためにどう使うか考えた。
出発前にもう1度地図を開き、人の通らない道や水場、休める場所を確かめた。
休息地点には、森の奥にある古い狩り小屋を選んだ。前にも使った暗部の秘密拠点で、今回の道沿いにある。ほかの班が使う予定もない。
任務の途中で休む場所として、不自然ではなかった。
まずは、5人でそこまで行く。
扉を出る時まで、顔には出すな。胸の内で急かす自分に言い聞かせ、地図を畳んだ。




