第2話 決意
胸の苦しさが少し落ち着くと、空腹に気づいた。
こんな時くらい空気を読め、と自分の腹に言いたくなる。だが、逃げるつもりなら食わなければならない。
机に置かれた冷えた煮込みを、口元の布をずらして食べた。
柔らかい何かが舌に触れた。塩気も、肉の味もない。
うまいか、まずいか。それすら分からない。
スプーンを置きかけ、止めた。腹が立って投げ捨てたところで、困るのは俺だ。
前世の記憶には、味があった。
仕事帰りの牛丼。休みの日に作った、具を入れすぎた味噌汁。
社畜と呼ばれる暮らしだった。帰るつもりで片づけた机に、次の仕事を置かれる毎日。それでも、帰り道で何を食うかくらいは、自分で決められた。
今の俺には、味わうことさえ許されていない。
No.41の《再生》なら、顔も味覚も治せる。
俺にも、使える。
固有スキル《配下》は、登録した者の能力値の一部を俺へ加え、スキルも同じレベルで使えるようにする。さらに俺の力の一部が4人を強化する。帝国が俺を生かした理由だ。
なのに、今まで治そうともしなかった。
治すなと言われていた。それだけで。
傷のある頬へ手を伸ばしかけ、止めた。
クロイツは、さっきも俺の顔を確かめていた。次に会った時、傷が消えていたらどうなる。
まだだ。
顔も味覚も、逃げてから取り戻せばいい。
治せるんだ。ずっとこのままでいる必要はない。
そう確かめると、ようやく次のひと口を飲み込めた。
食べ残しを怪しまれないよう、いつもと同じ量を腹へ収める。
いつか、温かい飯を、うまいと思って食いたい。
肉がいい。噛んだら肉汁が出るような、分厚いやつ。焼きたてのパンも欲しい。
欲張りすぎか。
いや、飯くらい欲張らせろ。
食べ終えた器を置く。味はしなかったが、腹には少し力が戻っていた。
◇
食事を終え、ベッドに腰を下ろした。
自分のステータスを開く。この世界では、誰もが自分のものを確認できる。俺も訓練や任務のたびに見てきた表示だ。
【No.8】
【年齢:18】
【生命力:100+60】
【力:92+48】
【防御:84+36】
【速度:94+56】
【器用:98+52】
【戦闘力:468+252=720】
【固有スキル:《配下》《解放》】
【配下:4/10名】
【登録配下:No.26、No.37、No.41、No.52】
【共有スキル:《影》《特殊眼》《再生》《念話》】
【洗脳:解除済み】
【能力値成長限界:解放済み】
【スキル成長限界:解放済み】
右側の加算は、配下4人から得ている力だ。生命力、力、防御、速度、器用。その合計が、戦闘力として表示される。
能力値は、検査の時と変わっていない。だが、固有スキルが1つ増え、洗脳は解除済みになっていた。
配下の上限も、4人から10人に増えている。《解放》は、人数の制限まで広げたらしい。登録されているのは、これまでと同じ4人だ。
以前も、洗脳されていることは表示されていた。それを見て、皇帝に尽くすために必要な処置だと納得していた。
俺は、その文字を見つめた。
……待て。
次の検査で、ばれる。
暗部は定期的にステータスを調べられる。能力の伸びだけでなく、洗脳が維持されているかまで、検査具で確かめられるのだ。
今日も、報告前に5人そろって検査を受けたばかりだった。あの時には、《解放》はなかった。
平静を装っていても、次は隠せない。
明朝の任務。外へ出られる、その機会を逃すわけにはいかなかった。
《解放》の説明を開く。
心や能力にかけられた制限を取り除く力。他人にも使える。
他人にも。
その部分を、もう1度読んだ。
……あいつらも、助けられるのか。
4人の番号が、頭に浮かんだ。早く続きを知りたくて、説明を目で追う。
ただ、触れれば終わりではなかった。接触を保ち、解除したい制限へ意識を集中させる時間がいる。途中で手が離れるか、集中が途切れれば、最初からやり直しだ。
敵の剣を防ぎながら使えるような力ではない。
それに、洗脳が解けた相手がどうなるかも分からない。泣くかもしれない。叫ぶかもしれない。自分の顔を治そうとするかもしれない。
ここで使えば、相手まで危険にさらす。
外へ出て、人目のない場所を確保する必要があった。
続いて、《配下》の登録を確かめる。
【No.26/No.37/No.41/No.52】
帝国が、俺の配下にした4人。
暗部の番号は、入った順ではない。戦闘力、スキルの希少性、任務の実績で決まる序列だ。
帝国内外に潜伏する者を含め、その数は500人以上。正確な総数は俺も知らない。
その頂点に立つNo.1からNo.9が、シングルナンバー。右腕に金色の番号を持つ9人だ。
俺は、序列8位だった。
No.10からNo.99は、銀色の番号を持つダブルナンバー。俺の配下の4人も、そこに入る選び抜かれた精鋭だ。俺たち5人は、帝国が難しい任務へ送り込む部隊だった。
No.26の文字で、目が止まった。
紫の髪。俺の襟を直す指先。
「殿下。廊下を走ってはいけません」
たしなめる声の後に、笑顔が浮かぶ。
あの時、彼女は15歳だった。身の回りの世話をして、外へ出れば必ずそばにつき、《影》のスキルで俺を守ってくれた。
リゼット・フェルネ。
俺付きの、侍女兼護衛。
思い出の中の手に、黒い手袋が重なった。
――No.26は、リゼットだったのか。
番号から、目が離せなくなった。
生きていた。
リゼットが、生きていた。
会いたい。今すぐあの部屋へ行って、名前を呼びたい。
覚えているかと聞きたかった。俺だと、アルヴィンだと伝えたかった。
会いに行く道筋まで浮かび、それを押しとどめる。
……今の彼女は、覚えていない。
俺が突然そんなことを言えば、異常として報告するかもしれない。
顔を上げずに、もう1度その番号を読んだ。胸の中だけで、何度も彼女の名前を呼んだ。
もう誰もいないと思っていた。
いたんだ。
取り戻したい声が、まだ、手の届くところにある。
表に出す返事を考える必要がない今だけは、心の中で好きなだけ喜ばせてほしかった。
美しかった顔は、俺と同じように、傷と火傷の跡で変わり果てていた。皮膚をはがされた部分には、厚く不ぞろいな傷跡が残り、頬も口元も元の形を失っている。まぶたまで引きつれ、あの優しい笑顔を思い描くことさえ難しかった。
あの姿にした連中が、彼女を化け物と呼んでいる。
昔の面影を奪われ、名前まで封じられた彼女が、ずっとそばにいた。
俺の《配下》と同じように、帝国は彼女の《影》も欲しがったのだ。
あれから8年。彼女は23歳になっている。
生きていてくれて、嬉しい。
そう思うほど、この8年をこんな場所で過ごさせた連中が憎かった。
俺はその腕を信頼し、背中を預けてきた。なのに、知っている相手だと気づきもせず、番号で呼び続けていた。
彼女も、俺を殿下とは呼ばなかった。
王宮での関係を忘れたまま、2人で、あの国を滅ぼした皇帝のために戦っていた。
残る3人の性格も知っている。
小柄で、弓を使うピンク髪のNo.37は負けず嫌い。赤髪のNo.41は穏やかで、槍を使う金髪のNo.52はいつも冷静だ。
だが、彼女達が帝国を離れて何をしたいのかは知らない。
俺自身、今日まで考えたことがなかった。
4人は、俺の配下になることさえ自分で選んでいない。帝国がそう命じたから、従っただけだ。
表示の中の番号を、1つずつ目で追った。
俺だけで逃げる方が、簡単かもしれない。
それでも、ここへ置いていくつもりはなかった。
まず洗脳を解き、体を治す。その先で俺についてくるかどうかは、4人が決めればいい。
従わせたまま復讐に使うなら、俺も帝国と同じだ。
できれば、一緒に来てほしい。
断られたら、きっと落ち込む。特にリゼットに別れを告げられたら、平気な顔で送り出せる自信はない。
それでも、選んでもらう。
自分があれほど欲しかったものを、あいつらから取り上げるわけにはいかなかった。
◇
表示を閉じ、壁に掛けた剣を見た。
静かに暮らしたい。
誰にも命令されず、温かい飯を食って、眠りたい時に眠る。
起こされても、あと少し、と布団をかぶりたい。
……いや、そもそも起こすな。用事のない朝くらい、好きなだけ寝かせろ。
そんな朝を想像すると、肩の力がわずかに抜けた。
前世でも、この8年でも、欲しいまま手に入らなかった暮らしだ。
だが、逃げるだけで終わるつもりはない。
父と母を殺した連中が、俺たちを使って、次の誰かから同じものを奪う。それを知ったまま、何もなかったようには生きられない。
ゼルガディウス皇帝。侵略を命じた上層部。俺たちを道具に変えた連中。
全員に、報いを受けさせる。
皇帝だけを殺しても、次の皇帝が同じことを繰り返すのでは意味がない。人をさらい、壊し、使い捨てる帝国そのものを崩壊させる。
王位を取り戻したいわけじゃない。
復讐を終えたら、今度こそ自分の人生を生きる。
そのために、明日も頭を下げよう。
通る道。監視の有無。次の検査の日。食料と金、そして4人を解放する場所。確かめ、用意しなければならないことはいくつもある。
衝動に任せて剣を抜くより、今は、忠実なふりをする。
明朝、俺たちは命令どおりに出発する。
帝国のために帰ってくるつもりはない。
あいつらが育てた序列8位も、その配下の精鋭4人も、まとめて連れ出してやる。
命じられるままに人を殺すのは、もう終わりだ。
――貴様らが育てた暗殺部隊に、殺されろ。




