第四章 骨の収穫
夜が白み始めた。
静寂苑の裏庭に霜が降りていた。十一月の朝の光は鉄の匂いを冷たく結晶させる。三號炉の煙突がまだ黒くそびえている。昨夜の四百度の記憶が金属の表面に白い粉となって吹いている。
灰谷悠真は炉の前に立った。
ポケットの中には、昨夜響子が置いていった骨箸が入っていた。白い細い竹の骨箸。
「朝イチで業者が来る」
悠真は独り言のように言った。誰にも向けない言葉を口にしたのは、十年ぶりだった。重油の匂いが舌の裏側に沁みた。
事務の窓に灯が点いた。
若い女事務員がマスクをつけた顔で窓のガラスを曇らせていた。手にクリップボード。三號炉の点検報告書。警察の委託書。異常停止の原因調査。全部朝イチで始まる。
悠真は時計を見た。
六時四十五分。
あと四十五分。
炉を開けなければならない。四百度の生焼けの骨を拾い上げなければならない。そして喉仏を取り出さなければならない。業者の目に触れる前に。
響子はまだ来ていなかった。
悠真は三號炉の扉に手をかけた。
南京錠を外した。錆びた金属の重い音。そして油圧式の扉を開けた。
扉が開いた。
匂いが出てきた。
生焼けの肉の匂い。重油の匂い。アクリル絵具の焦げる匂い。そして何よりも強い匂い。骨の匂い。焼けた骨の匂い。しかし白くなっていない。黒く赤く生焼けの骨の匂い。甘酸っぱい脂の匂い。人の脂が四百度で半分だけ燃えた匂い。
悠真は目を閉じた。
閉じた目の裏に鴨志田慈雨の喉仏が浮かんだ。第二頸椎。炎のエフェクトの線が重なっている。喉仏が燃えている。いや喉仏が歌っている。
――らん、らん、ポコポコ。
悠真は目を開けた。
炉の中に台車があった。ステンレスの台車。昨夜棺を載せた同じ台車。しかし今載っているのは棺ではない。黒い炭化した塊。人の形をした塊。鴨志田慈雨の遺体。四百度の不完全燃焼で半分だけ灰になった遺体。
悠真は台車を引いた。
金属の車輪がレールの上で軋んだ。台車が炉の外に出てきた。
冷気が塊に触れた。
瞬間、何かが鳴った。
カランと短い金属音。いや金属音ではない。骨の音。冷気に触れた生焼けの骨が収縮した音。熱で膨張した骨が朝の冷気で急に縮む。その瞬間の音。
そして次の音。
――らん、らん、ポコポコ。
風琴のように。オルガンのように。冷気に触れた骨の共鳴。台車のステンレスの枠が骨の震えを増幅している。炉の鉄骨が共鳴している。吸気ダクトが共鳴している。
悠真は台車を止めた。
「歌ってる」
独り言が口から出た。
「骨が歌ってる」
「歌ってるわ」
背後で響子が言った。
振り返らなかった。台車の上の黒い塊を見つめたまま。
響子が横に立った。
白いコートは今朝の霧で湿っていた。
響子の耳朶に微かな赤い線があった。耳孔の縁に沿って。血の滲んだ線。乾いた赤。しかし今そこから何かが動いた。微かな白い何か。繊維だ。アクリル絵具の繊維。響子の耳孔から覗いている。
「お前の耳が壊れている」
悠真が言った。
「壊れてない」
「完成しているの」
響子が白い指でヘッドホンの片方を耳に押し込んだ。
「あたしの耳はもう骨まで届いている」
響子が台車に目を当てた。
「拾うわ」
響子がポケットから骨箸を取り出した。
白い細い竹の骨箸。
悠真もポケットから骨箸を取り出した。
竹は氷みたいに冷たかった。
台車の上の黒い塊に二人で骨箸をかざした。
最初に足の指の骨を拾った。
小さな白い骨。しかし白くなっていない。黒い煤が付着している。四百度の不完全燃焼の煤。アクリル絵具の煤。子供の声の煤。骨箸で挟んだ瞬間骨が震えた。
――らん、らん、ポコポコ。
微かな震え。しかし確かな音。冷気に触れた指の骨が子供の声の周波数に共鳴している。
響子の目が潤んだ。
「聴こえる」
「七人の子供の声が骨の中にいる」
次に手の指の骨を拾った。
黄色く変色した指先。セル画のペンを握り続けた形で曲がった関節。骨箸で挟んだ瞬間指の骨が震えた。
――ひのこの なかで わらいましょう。
鴨志田慈雨の三十年間火のエフェクトを描き続けた指。アクリル絵具の粉を吸い込み続けた指。肺胞に絵具を沈着させた指。その指が今冷気に触れ子供の声を歌っている。
次に肋骨を拾った。
胸郭の骨。昨夜八百度で爆ぜた肋骨。しかし四百度の不完全燃焼で半分だけ灰になった肋骨。骨箸で挟んだ瞬間肋骨が震えた。
――ほねになるまで うたいましょう。
七本の肋骨。七人の子供。一対一で対応している。それぞれ肋骨がそれぞれの子供の声を歌っている。
最後に喉仏を拾った。
第二頸椎。仏像が座禅を組むように見える最も尊い骨。しかし今それは赤く熱を保っていた。四百度の不完全燃焼の記憶を残したまま。黒い炭化した肉に包まれた喉仏。
骨箸で挟んだ。
瞬間音が出た。
――らん、らん、ポコポコ。
風琴のように。オルガンのように。すべての骨の共鳴を集めた音。七人の子供の声と鴨志田慈雨の声と響子の耳孔から漏れる血の音。すべてが混ざり喉仏が歌っている。
響子の喉が微かに震えた。
喉仏が動いている。上下に。呼吸をしているように。歌を歌っているように。響子の喉がそれに呼応して微かに震えている。
悠真は喉仏を骨箸で持ち上げた。
赤く熱を保った喉仏。四百度の記憶を残した喉仏。子供の声を飼いならした喉仏。炎のエフェクトの線が重なった喉仏。
響子が悠真を見た。
「あたしが持つ」
「八人目の子供として」
響子が白い指で喉仏を受け取ろうとした。
その時、事務所の扉が開いた。
「灰谷さん、三號炉の点検業者が来ました」
若い女事務員の声。足音が近づいてくる。クリップボードの紙が擦れる音。業者の作業靴の金属製の先芯がコンクリートを叩く音。
悠真は喉仏を作業服のポケットに入れた。
熱い。四百度の記憶が太ももの皮膚を焼く。布越しに微かな歌が漏れる。
――らん、らん、ポコポコ。
「灰谷さん、三號炉の異常停止の原因を調査します。扉を開けてください」
業者の声。中年の男。低い。事務的。疑いのない。しかし確実に近づいてくる。
響子が足の指の骨と手の指の骨と七本の肋骨を骨壺に流し込んだ。白い陶器の骨壺。蓋を閉めた。骨壺を白いコートの内ポケットに入れた。
「骨はあたしが持つ」
響子が霧の中へ消えた。骨壺を抱いたまま。七本の肋骨と足の指と手の指を内ポケットに入れたまま。消えた。
悠真は台車を見た。
黒い炭化した塊。足の指も手の指も肋骨も取り除かれた。人の形を失った塊。業者がこれを見たら何と言う。解剖もせずに骨を抜き取られた死体。警察に通報される。悠真は逮捕される。十年間隠した言葉が白日の下に晒される。
「開けてください。灰谷さん」
足音が炉前室の扉の向こうに来た。
悠真は台車を炉前室の隅に押しやった。ステンレスの枠がコンクリートの壁にぶつかった。低い金属音。そして灰色のビニールシートを台車に被せた。死体の塊を隠した。
「バーナーのノズルにスラッジが詰まってる」
悠真が言った。
「ガスが溜まってる。開けると爆ぜる」
喉が軋んだ。業務の言葉でない嘘には、慣れていなかった。
足音が止まった。
「灰谷さん、それは規定では」
「規定より命が先だ」
悠真が言った。
「ファンを回す。三時間」
沈黙。
クリップボードの紙が擦れる音。女事務員が何か言う。業者が何か言う。しかし悠真は聞かなかった。炉の扉に背中を預けた。鉄の冷たさが背中の皮膚に沁みた。
「三時間後にまた来ます」
業者の声。
「その時は開けてください。警察の委託ですから」
足音が遠ざかる。
事務所の扉が閉まる音。
悠真は一人になった。
台車の上のビニールシートを剥がした。黒い炭化した塊。人の形を失った塊。足も手も肋骨もない。喉仏もない。ただの肉の塊。
悠真は台車を炉の中に押し込んだ。
台車が炉の奥に消えた。
悠真は制御盤のレバーを握った。
手動操作。四百度から八百度へ。完全燃焼へ。燃料供給バルブを開いた。重油タンクが遠くでうなりを上げた。青白い炎が燃焼室の中で目を覚ました。
温度計の指針が右に這い上がり始めた。
摂氏五百度。六百度。七百度。八百度。
炉の中で塊が燃えた。
生焼けの肉の塊が八百度の完全燃焼で白く灰になっていく。四百度の記憶を焼き尽くす。子供の声を焼き尽くす。鴨志田慈雨の最後の肉を焼き尽くす。
三時間後、業者が来た時、炉の中には灰だけが残っていた。
白い灰。無機質の灰。骨の粉。誰の目にも異常のない灰。
悠真は炉を開けた。
業者は炉の中を覗き込んだ。灰の上にステンレスの台車が載っている。異常はない。異常停止の原因はバーナーノズルのスラッジ詰まり。清掃済み。記録あり。
業者はクリップボードに何か書いた。署名を求められた。悠真は署名した。
「異常なし」
業者が言った。
「警察に報告します」
業者が去った。
悠真は炉の扉を閉めた
南京錠をかけた。
「点検中・使用禁止」の黄色い札を外した。外したはずの札が、まだ、悠真の網膜に焼き付いている。風に揺れているように見えた。外したはずなのに。
悠真はロッカーに向かった。
ポケットの中で喉仏が震えている。
――らん、らん、ポコポコ。
熱い。四百度の記憶が掌の骨を焼く。歌が漏れる。
――ひのこの なかで わらいましょう。
――ほねになるまで うたいましょう。
悠真はロッカーを開けた。
制御盤の鍵をポケットに入れたまま三號炉の扉の前を通り過ぎた。
黄色い札が風に揺れていた。外したはずの札が。




