第三章 骨の声
深夜の静寂苑は、鉄の匂いがした。
灰谷悠真は三號炉の前に立った。作業服のポケットの中で、鍵とMDディスクとセロハンの切れ端が掌の骨に食い込んでいた。三つの硬いもの。三つの罪。
廊下の蛍光灯が一本点滅した。カ、と短い音。暗い廊下の奥で誰かの気配が一瞬だけ金属の床を踏んだ。
振り返らなかった。
制御盤の鍵を取り出した。鍵は重油の匂いがした。十年間炉を開けてきた手の匂い。十年間骨を灰にしてきた指の匂い。
鍵を差し込んだ。
カチリと金属が鳴った。
制御盤の扉が開いた。中に配線が蛇のように絡み合ってる。赤い線。黒い線。青い線。温度計の指針が今も左に倒れたまま。摂氏四十二度。炉はまだ冷えきっていない。生焼けの鴨志田の喉仏の熱がまだ鉄の中に残っている。
悠真は手動操作のレバーを探した。
通常の火葬は八百度。完全燃焼。骨を白くする温度。しかし今夜は四百度。不完全燃焼。骨を生焼けに残す温度。喉仏に歌を立ち上らせる温度。
レバーを四百度の位置に落とした。
重油のタンクが遠くでうなりを上げた。低い連続した獣の喉の音。燃料供給のバルブが絞られた。青白い炎が薄く貧弱になった。燃焼室の中で火が喘いでいる。
温度計の指針が右に這い上がり始めた。
摂氏百度。二百度。三百度。四百度。
指針が四百度で止まった。
不完全燃焼だ。酸素が足りない。炎は赤く濁っている。完全に燃えきらない。煤が生まれる。黒い煤。肺胞のアクリル絵具の煤。喉仏の子供の声の煤。
悠真は南京錠に手をかけた。
外そうとして、指を止めた。扉を開けてはならない。四百度の不完全燃焼は、密閉された炉の中でこそ成立する。悠真はただ、耐熱覗き窓に額を押し当てた。
鉄の冷たさが額の皮膚に食い込む。覗き窓の向こうで、赤く濁った炎の中に、昨日の生焼けの黒い塊がまだ輪郭を保っている。鴨志田慈雨の遺体。炭化した肉。そして首の付け根だけが、ほのかに赤く熱を保っている。
喉仏。
悠真はポケットからMDディスクを取り出した。
銀色の円盤が炉の赤い炎を反射して血のように光っている。十年前のアフレコ。子供たちの声。桐生誠一が録った死の音。
ポータブルの小さなMDプレーヤーを炉の横の作業台に置いた。異物だ。火葬場の炉前に置かれた銀色の機械。ヘッドホンジャックに小さなスピーカーを繋いだ。
ディスクをセットした。
再生ボタンを押した。
最初はノイズだった。
シューという白い音。そして子供たちの声。
――らん、らん、ポコポコ。
――ひのこの なかで わらいましょう。
炉の中で何かが動いた。
覗き窓の向こう、赤く濁った炎の渦の中で、黒い塊が微かに震えた。昨日の生焼けの鴨志田の喉仏。四百度の不完全燃焼の中で、子供たちの声に呼応して、微かに震えている。
吸気ダクトが唸り始めた。
低い連続した金属の震え。最初は風の音のように聞こえた。しかしそれは風ではなかった。子供の声の周波数に呼応した金属の共鳴だった。ダクトの継ぎ目が微かに震えている。ネジが緩んでいる。ガタガタと微かな金属音。
――ほねになるまで うたいましょう。
炉の中で、喉仏が震えた。
パキン、と硬質な音。骨の表面にひびが入った音。四百度の熱で生焼けの骨の表面が剥がれ、中から何かが出ようとしている。白い微かな粉。砕けた骨の髄。いや、違う。アクリル絵具の繊維。肺胞に三十年間沈着した絵具の繊維が、四百度で蒸発し、煤となり、金属管を震わせている。
悠真は覗き窓から目を離さなかった。
赤く濁った炎の中で、黒い塊の中心だけが、ほのかに赤く脈打っている。喉仏。第二頸椎。炎のエフェクトの線が重なっている。燃えている。いや、歌っている。
ダクトの金属管がもう一度共鳴した。
――らん、らん、ポコポコ。
七人の子供の声が、炉の中で混ざり合っている。七つの声と、一つの骨の震え。七つの周波数と、一つの獄の周波数。
「四百度に落ちたわね」
声が背後から聞こえた。
振り返らなかった。覗き窓から目を離さなかった。
「聴こえるわ」
響子が炉の横に立った。
白いコートは霧の中から来たように湿っていた。首にかけたヘッドホンのコードが風になびいている。いや、風ではない。ダクトの震えが床を通じ部屋全体に伝わっている。
響子が覗き窓に目を当てた。
白い指が耐熱ガラスに触れた。指先が熱で微かに赤くなった。しかし響子は指を離さなかった。
炉の中で、何かが割れた。
パキン、と硬質な音。喉仏の表面にひびが入った。四百度の熱で骨の表面が剥がれ、中から何かが出ようとしている。白い微かな粉。砕けた骨の髄。いや、違う。アクリル絵具の繊維。肺胞に三十年間沈着した絵具の繊維が、四百度で蒸発し、煤となり、金属管を震わせている。
「聴こえる」
響子が悠真を見た。
「朝には、業者が来る」
「炉を開けたら、何が出る」
「骨が出る」
悠真は響子を見た。
響子の喉が微かに震えていた。喉仏が動いている。上下に。呼吸をしているように。歌を歌っているように。
「骨は、あたしが拾う」
響子が白いコートのポケットから細い竹の骨箸を一膳取り出し、作業台の上に置いた。
炉の中で、喉仏がもう一度震えた。
――らん、らん、ポコポコ。
七人の子供の声が、炉の中で混ざり合った。そして、その中に、八人目の微かな震えが加わった。
響子の喉仏の震え。
悠真はポケットの中で鍵を握り直した。
明朝、炉を開ける。
四百度の生焼けの骨を、拾い上げる。
そして、響子と二人で、喉仏を、取り出す。
――ほねになるまで うたいましょう。
炉の鉄骨が微かに唸った。




